①-2

 僕は彼女を睨まないように注意しながら、上目に視線を送る。

「そういうことは、口に出さないほうがいいよ」

「ジンクス?」

 彼女は、いつかの僕をまねたみたいだ。唇の端が、笑う形に上がっている。でもその眼差しは全然笑っていない。

 僕はできるだけ低い声を意識して「そう」と答えた。

「弱気になってると、本当にそうなる」

「強気でいても墜ちるときは墜ちるよ」彼女はコーヒーの液面に向かって言う。「でもね、墜ちるのと死ぬのとは少し……ううん、決定的に、違うんだ」

「まるで、墜ちたことがあるみたいな言い方だね」

「うん。あの機体は三代目だから」

 僕は驚いて格納庫の方向を見た。もちろん食堂の赤茶色い壁があったし、たとえ壁をぶち壊しても宿舎や夜の闇に邪魔をされて彼女の機体なんか欠片も見えないだろう。

「わたしは戦歴でも被撃墜歴でも君より先輩だから」ニケはコーヒーを飲み干す。「優秀な後輩への、最初で最後のアドバイスだよ。撃ち始めの一呼吸を耐えてごらん。君なら、ナンバー・ワンになれる」

 じゃあ、と彼女が立ちあがる気配を察して、咄嗟に手を伸ばした。空のコーヒーカップに添えられた彼女の指先は、暖機し損ねた飛行機みたいに生温かい。こんな温度で会敵したら墜ちてしまう。

「どうして……そんなことを?」

「どうしてって」

「ニケ」

 唐突に僕じゃない声が彼女を呼んだ。なにかを言いかけていた彼女の唇が素早く引き結ばれる。意識が僕から逸れていくのがわかった。

 僕は、舌打ちをしたかもしれない。

 アガヅマが、食堂に入ってくるところだった。もう夜なのに作業着のままで、腹の辺りを黒くオイルで汚している。キャップを被っていないせいで、いつもの物凄く機嫌が悪そうな目つきが、彼女を殺しに来たのかってくらい物騒に研がれていた。正直、夜道ですれ違ったら、ぎょっとするくらいの形相だ。

「おまえ明日」そこで、アガヅマはようやく僕に気付いたみたいだ。口をつぐんで顔を斜めにした。「悪い、邪魔した。あとで寄ってくれ。話がある」

「アガヅマ、待って。もう終わったよ、なに?」

 片手を上げて踵を返した彼を、ニケが呼びとめた。

「いい。あとでいい。別に急ぎじゃない」

「コッチはもう終わったよ」

 もう僕の指先に彼女の手はない。冷たいテーブルだけが残されている。

「じゃあね」と手を上げて食堂を出ていく彼女を、僕はただ見送った。

 アガヅマの肘のあたりに触れた彼女の指は、数秒前まで僕が握っていたはずなのに。そんな嫉妬を抱いた自分自身が信じられなくて、胸の辺りを掴んだ。

 ニケは僕を振り返ることもなく食堂を出て、夜色の廊下に吸い込まれていく。

 まるで夜間飛行だ。満月が気紛れに描く陰影に怯えながら飛び立つ飛行機に、彼女の背中は似ていた。

 でも、今夜は生まれたばかりの細い月だ。誰も飛べない。

「バンシー」

 静かな抑揚に呼ばれて振り返ると、真後ろの席にアツジの背中があった。煙草の煙が肩口から上がっていた。彼がいつ来たのか、全然わからなかった。

 この基地に来た当初、みんなが彼女を『ニケ』と呼んでいたから、この基地では飛行機の名前で呼び合うのがマナーなのかと思っていた。そうじゃない、って気づいたのは一週間くらい経ってからだ。アガヅマは整備士だから当然だけど、アツジやほかのパイロットも人間の名前で呼ばれている。

 ニケだけが、飛行機の愛称で呼ばれ、他のパイロットを飛行機の愛称で呼んでいた。今から考えれば、そう規則で決まっていたからだろう。

 でも僕は、機体のパーソナルマークが魔女じゃないって驚きからか、女性の姿をした妖精を機体に描いている新人への揶揄いなのか、みんなから『バンシー』と呼ばれていた。

 だから、振り返った僕は礼儀正しく「アツジ」と彼の人間としての名前を呼んだ。

「いつからいたの?」

「あいつはやめたほうがいい」

 アツジは僕の質問を無視した。相変わらず僕からは背中しか見えなかったけれど、彼の言う「あいつ」が誰を示しているのかはわかった。

「別にそんなつもりはないよ」僕は彼の背中から、二人が消えた廊下へ顔を戻す。「でも、どうして?」

「パイロットが一番恐れる相手って知ってるか?」

「さあ?」

 滑走路付近で遊ぶ鳥とか理不尽な命令を下す上官、不意の強風や落雷。怖いものはたくさんあるけれど、どれも『一番』ってほどじゃない。

「整備士」

「ああ」

 確かに、彼らがその気になれば僕らは空に上がれない。いや、上がれたとしても還ってこられないだろう。ひょっとしたら、敵と踊っている瞬間にエンジンが止まるようにだって細工できるのかもしれない。つまり。

「ニケとアガヅマってそういう関係なの?」

「アガヅマの一方通行だろ。誰が見たってわかる」

 思わず振り返って、アツジの背中をまじまじと眺めた。まさか彼が他人の色恋に興味を持っているとは思わなかった。なによりも彼が、嫌いだって公言しているニケに目を向けているなんて考えもしなかった。

 ナンバー・ワンの洞察力ってやつだろうか?

 だから、訊いてみたくなった。

「君は『墜ちるかも』って思ったことある?」

「会敵したときは覚悟してる」

「そうじゃなくて」僕はコーヒーカップに向き直る。「明日は帰還できないかもって思うことがある?」

 アツジが振り向く気配がした。

「笑うところか?」

「僕が言ったなら、笑ってくれてもいいよ」

「ニケか?」

 意外だったらしい。アツジの声が少しだけ高くなった。そして沈黙。

 僕はコーヒーを飲み干す。カップの底に黒い輪っかが浮かび上がった。味が薄いくせに、ここのコーヒーは嫌にどろっとしていて舌触りが悪いんだ。少ないメニューと薄いコーヒー、味だって大して良くない。だから基地の皆が悠長に、民間の食堂まで通うんだろう。基地としては弛みきっている。

 もっとも、基地司令が現状に不満も不安も抱いていないのだから、改善されようもない。

 僕は空になったコーヒーカップをトレイに載せて、食器返却カウンターに運ぶ。狭い返却口から出てきた太い腕がトレイを奪って、すぐに引っ込んだ。「ごちそうさま」って言った僕の声は届いていないだろうし、聞く気もないのだろう。

 そのまま部屋に戻ろうかと思ったけれど、思い直してテーブルに戻る。

 今度はアツジの正面に座った。軍が発行している広報雑誌の最新号を広げていたアツジが一秒だけ視線を上げて、すぐに眼を落とした。

「さっきの答えをきいてないんだけど?」

「さっき?」

「明日は墜ちるかもって思ったこと、ある?」

 彼はため息を吐いて雑誌を閉じた。その上に手を組んで、アツジは身を乗り出す。

「あいつはもともと戦闘機のパイロットじゃなかった」

 ニケの話だろう。どうあっても自分のことを話す気はないらしい。

 アツジは僕から視線を逸らさないまま、広報雑誌の表紙を指先で叩いた。機体を斜めにして飛ぶマークⅢが堂々と掲載されている。

「広報用の人材だ。マークⅠはそのころの最新機で、はじめは武装だってなかった。アガヅマなら当時の記事だってこっそり持ってるんじゃないか?」

「僕が訊いたのは君のことだよ?」

 ニケもアガヅマも関係ない、って苦笑して見せた。

 勝手に誰かのプライベートを嗅ぎまわるのはマナー違反だ。でも、正直なところ少し興味をそそられる内容ではあった。きっとアツジだってわかっているんだろう。

 彼は唇を斜めにして、鼻から息を逃がす。

「バンシー、あの女を俺たちの基準で考えるな。あいつが還ってこないって言うなら、それは上が決めたことだろう。俺たちが考える未帰還兵とは話が違う」

「どういう意味?」

「まだマークⅠに乗ってるのが証拠だ、上はあいつを戦闘機乗りだとは認めてない。あいつがこんなに長生きするとは思ってなかったんだろうな。女ってのは士気向上の宣伝材料としてはいいが、戦闘機乗りとしては厄介だ。腕がいいならなおさら悪い。適当に墜ちるか引退するかして、美談に納めときゃよかったんだ」

「ニケは……広報部に戻るってこと?」

「生き残りすぎた女を、いまさら広報がほしがるかよ。墜ちるって言ったなら」ふっと紫煙を吐いて、アツジは薄く笑った。「文字通り、墜ちろって命令でも下ったんじゃないのか? きっともう葬式の準備はできてるさ」

 どこかで椅子の倒れる音がした。僕を仰いだアツジの、顔の低さで気付く。

 僕自身が、椅子を倒して立ち上がっていた。

 なんでこんなに動揺してるんだろう? と冷静な心のどこかが首を傾げる。

 墜ちろ、なんて別に珍しい命令じゃない。戦闘飛行を命じられるのだって、ある意味『死んでこい』って言われるのと同じだ。たとえ二対五なんて圧倒的に不利な条件で会敵したって、命令次第じゃ戦うハメになる。

 頭ではわかっているのに、僕は足早に食堂をあとにしていた。薄暗い廊下を抜けて、糸みたいに頼りない月に照らされた滑走路脇を走る。

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