第六話 バンシー
第六話 バンシー ①-1
〈6〉
彼女と最後に会ったのは、僕がTAB‐9に配属されて六カ月が経った日だった。太陽が沈むのを待っていたように細い月が浮かんでいたのを覚えている。
それを横目に警戒飛行から帰投した僕は、食堂で遅い夕飯を終えたところだった。
一緒に飛んでいたのはアツジだったけれど、彼はいつも僕の倍くらいの量を僕の半分の時間で食べ終える。そのときも、食堂に残っていたのはのんびり食事を貪っていた僕と、離れた席で肩を寄せ合って雑誌を眺めている整備士が二人、あとは食堂の職員だけだった。
トレイの上を片付けて食後のコーヒーをとりに行こうしたとき、「バンシー」と声が降ってきた。
顔を上げるとカップを二つ持ったニケが立っていた。コーヒーの芳ばしい香りがしている。
「ここ、いい?」
「もちろん」
彼女は片方のカップを僕の前に置くと、対面の席に着く。
「ひとつ、アドバイスしてもいいかな?」
「エースからのアドバイスは大歓迎だけど」
「ここのエースは、わたしじゃないよ」
「僕にとってのエースってことだよ。それで? なにに対してのアドバイス?」
「飛び方」
少し驚いた。
彼女と飛んだのは配属されてすぐの一度きりだったし、随分と前のことだ。そのときだってアドバイスなんて貰えなかった。以来、彼女とは別の編隊に組み込まれていたから、彼女がそのアドバイスをいつ思いついたのか、見当もつかなかった。
間抜けにも、僕はただ瞬きをして上目に彼女を見る。
ニケは、僕の反応を肯定だと受け取ったらしい。コーヒーが艶やかに照るカップを両手で包んで口元を覆い隠して「君は」と声を潜める。
「絶対に生き残れない奴の条件って、知ってる?」
僕はまだぼんやりしていて、返事をするタイミングを逸してしまった。
そんな僕に構わず、ニケはカップから人差し指を浮かせた。僕を指したのかもしれない、と思ったのは後になってからだ。
「一秒早く撃ち始める奴と、一秒長く撃つ奴。二つがそろったら、もう最悪」
「僕は、無駄に撃ちすぎる?」
「〇.五秒、我慢してごらん」
「それって」僕は苦笑した。「どれくらいの時間?」
彼女は短く息を吐いた、一度だけ。
「ああ」頷いた。それくらいの時間ってことだ。「ほかには?」
「必要?」
「エースのアドバイスなら、なんでもきいておきたい」
「エース、ね」彼女は頬を歪めて皮肉に笑う。「君はよくその言葉を口にするけど、それって褒め言葉じゃないよね。要はどれだけ殺してるかってことだし」
「どれだけ生き残っているか、じゃないの?」
「生き残りたい?」
「死にたくはないよ。みんなそうじゃないの?」
どうだろうね、とニケは笑いを消さないまま囁いて、制服の胸ポケットから煙草を取り出した。
僕は手元にあった灰皿を彼女のほうに寄せながら「どうして」と言葉を続ける。ニケは顔を通路に向けて煙を逃がしながら、視線だけを僕に固定していた。
「アドバイスをくれるの?」
「理由が要る?」
「だって、君と飛んだのは一回だけで……それも半年も前だ。いまさら、じゃない?」
ああ、と頷いた彼女は薄く唇を歪めて「まあ、そうだね」と灰皿にまだ長い煙草を押しつけた。
「いまさらだ」
紫煙の名残が長く天井へと昇っていく。支給品の、僕と同じ銘柄のはずなのに、かすかに甘い香りがした。ひょっとすると、エースである彼女がこれまでに殺してきた敵の、未練のにおいなのかもしれない。
「でも」ニケが最後の支援と一緒に囁きを吐く。「これが最後かもしれないから」
「最後?」と僕はその不吉な言葉を口の中で繰り返す。「どこかへ異動するの?」
ニケは指を一本立てて、天井へと向けた。
「明日、早朝から飛ぶ予定なんだ」
「早朝? 爆弾でも落としに行くの?」
「さあ? それは明日になってみないとわからないなぁ」はは、と彼女は声を上げて笑った。「でも、たぶん墜ちるよ」
「え?」
「たぶん、もう還ってこない」
「……誰、が?」
「わたし」
彼女の呼吸は緩んでいたから、笑ったままでいたんだと思う。でも僕は笑えなかった。不自然に詰めてしまった息が喉に引っ掛かってヒリと痛んだ。
墜ちるかも、っていうのは空に上がるみんなが思っていることだ。コックピットに座るたびに、滑走路で地面の不安定さを感じるたびに、心のどこかで覚悟している。
でも、それを口にする奴は少ない。初心者か、ベテランのどちらかに限られる。
前者なら笑うところだ。臆病者め、って励ましを込めた軽口で笑い飛ばすのが礼儀だ。
でも、後者は違う。経験とか勘とか、理由がなんにしろ生き残ってきた分の重みがある。
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