②-4
『バンシー』ウンリュウからの無線だ。『どこだ?』
「ここだよ」と答えながら、でも高度を読んで伝える余裕がない。
スロットルを少し押し上げて僕も旋回に入る。バンシーが変な呻き声をあげて振動し始めた。メーターをもう一度確認した。異常値はない。それなのに、やけに旋回角が大きい。
相手はもう旋回を終えて機首を僕に向けていた。
慌てて反転しながら降下する。
でも、やっぱり相手は撃たなかった。どう考えたって射撃最適姿勢だし射程内だ。僕なら撃っている。ひょっとして機銃が詰まったのか?
相手が背面に入った。
降下してくるのかと思ったのに、そのままの高度でスライドする。
なにがしたいんだ? 遊ばれているのか? 頭がぼんやりとしてきた。空調が壊れて酸素が足りていないのかもしれない。でも、そんな高度だっけ?
相手はもう僕の真上まできていた。ちょうど太陽の真ん中だ。光に埋もれて消えそうな機影が、天使みたいに見えた。いや、死神ってやつかもしれない。天国への道が光の粒子となって降り注ぐ。恐ろしく美しい。
『バンシー!』アツジの声に我に帰る。『上がってこい』
彼は、僕を見下ろせる位置にいるらしい。
ウンリュウを探して顔を巡らせたとき、ようやくバンシーのキャノピが割れていることに気がついた。
天国への道なんてどこにもない。キャノピのヒビで乱反射した光が帯になっていただけだ。
さっき撃たれたのはここか! と舌打ちがついた。バンシーに傷をつけた相手と、呆けた僕自身に対しての苛立ちが湧きあがる。
急速に機速を絞って、操縦桿を引いて機首をあげる。失速するぎりぎりの速度だったけれど迷わなかった。
トリガーを引く、一瞬前に逃げられる。相手は僕の反撃なんか意に介さず、軽やかにロールをして上昇していく。滑らかな軌跡だ。空気の厚みをそぎ落とす鋭利なナイフみたいに、その翼が翻る。
恐ろしく、美しかった。
ぐらりと視界が揺れる。どっちが上かわからなくなって、操縦桿を握る右手を見た。大丈夫、怪我はしていない。やっぱり空調のせいで意識が朦朧とし始めているんだ。早く高度を落とさないと。
不意に、太陽の中からなにかが降ってきた。
避ける、前にすれ違う。ドドッ、とバンシーの主翼に重たいものがあたる音がした。バランスを崩してきりもみに入る。
バンシーの左翼に仲間が寄り添っていた。いや、エンジンから朱色の尾を引いて墜ちている。味方機の墜落に巻き込まれたんだ。
『バンシー!』
妙に優しい悲鳴が弾けた。耳鳴りみたいに意味をなさない無線の中で、その声だけが、ひどく鮮明だ。
呼吸が止まった。手が震える。眼球だけを動かして、キャノピの外を探す。ヒビで歪んだ空と海、燃える味方機、漆黒の太い煙、飛び散る装甲板とか部品。
そうか、僕はもう天国に近い場所にいるのか。だから──。
だから彼女の──ニケの、声が聞こえたんだ。
『たて直せ!』
僕の両腕が、勝手に彼女の声に従った。右手が重たい操縦桿を引いて、左手がスロットルを押し上げる。エンジンがグズった。
両足をつっぱってラダーを調整する。
目の前に海面があった。すぐ隣で燃えていた味方機は、いつの間にか離れている。
もう一度、両腕で抱え込むようにして限界まで操縦桿を引く。雷鳴に似たエンジン音が僕の体を内側から揺すった。眼球が押し出されるような圧迫感に吐き気がする。
バンシーがゆっくり機首をあげた。
間に合わないかもしれない。僕は海面に腹をこすって分解するバンシーを想像する。一秒後には、そうなる。
でも、バンシーはふわりと浮き上がった。数秒海面を滑るように停滞してから、高度を上げた。
ニケの声が、僕を天国の入り口から追い返したんだ。そう思うと少しだけ、たて直せてしまったことに失望した。
『バンシー』また、ニケの声がした。『願いを、叶えてくれる妖精』
幻聴だ。
ひどい耳鳴りがする。空の青さが目に痛い。子供が墨を塗りたくったように、黒煙の残滓が漂っていた。敵はともかく、味方はずいぶんと墜ちたようだ。
割れたキャノピの所々に黒いシミが散っていた。煤かオイルか、僕が撃墜したロストの怨念だろう。
ぼんやりとアガヅマの真剣な顔を思い出す。
二カ月戦争の開戦日もこんな感じだったんだろうか。
僕はゆっくりと旋回しながら高度を上げる。燃料が少なかったから編隊の後ろにいたはずの空中給油機を探したけれど、見当たらなかった。海面からひときわ太くて黒い煙が生えていたからそれかもしれない。
ずいぶんと高高度に、六機編隊が浮かんでいた。敵だ。太陽光で半透明になった機影が、悠然と飛び去っていく。
追おうか、と惰性で考えた。もっとも、現実問題としてバンシーのキャノピは破損しているし、僕だって酔っている。口の中が苦い。追いかけたって、相手にされないだろう。
本隊だってまだ混乱している。ざっと数えただけで四十機いるかどうかだ。よたよたと編隊を組み直しながら反転して、逃げ帰る針路をとっている。
惨敗だ。
マブリのパフォーマンスまで添えた出撃だったのに、迎撃すべき敵の艦隊すら出てこなかった。いや、これから来るのかもしれない。だから、たった六機の敵を追わずに逃げ帰るんだ。
今、対空装備をした敵艦と護衛戦闘機とに襲われたら、なす術もなく壊滅する。
本当に二カ月戦争の再現になるところだった。
でも、と僕は小さく笑った。悪い闘いじゃなかった。たまには天国の切れ端に触れてみるのもいい。
だって、ニケの声が聞こえた。
『バンシー』アツジの声がする。『高度が落ちてるぞ』
そうかな? と僕はメーターに視線をやる。霞んで見えなかった。ゴーグルが曇っているのかもしれない。ゴーグルを拭うだけの一挙動がひどく面倒だった。
いつの間にか、目の前には海じゃなくて森が広がっている。朱や黄に染まった葉の一枚まで見える。
帰ってきたんだ、って安堵感と、帰ってきてしまった、と変に落胆する自分が同居していた。
陸の上じゃバンシーは踊れない。
『バンシー!』
アツジが呼んでいる。鼓膜に刺さる、鋭い語調だ。焦っているらしい。
『脚を出せ!』
脚? なんのことだっけ? わからない。
砂漠で干からびた生き物の背骨みたいな一本道が見えてくる。滑走路に似ている。本当は滑走路なのかもしれない。基地に納まりきらないほど大量の戦闘機が発進するとき用の、臨時滑走路だ。みんなで徒党を組んで天国を目指す作戦だ。
バンシーのパワーが逃げている。エンジン音が湿っていて、遠い。そろそろ飛んでいられない速度だろう。
人間は、飛び続けられない。必ず陸に帰らなきゃならない。次も無事に飛びたかったら、安全に着陸しなければならない。なんて面倒な生き物だろう。
僕は水平姿勢を意識する。
ガガッ、とお尻から振動がつきあがる。脚を出し忘れていたのか、路面の凹凸のせいなのかわからない。
ただ、地上に足をつけて生きるっていうのは障害が多いんだな、なんて思ったのが最後の記憶だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます