②-1
しばらくして娯楽室から次々とパイロットたちが出てきた。飛行時計を見ると、出撃の十分前だった。
アツジは廊下に座り込んだ僕を横目で見下ろしたけれど、なにも言わずに素通りして建物から出ていく。ああいう気づかいができる彼が、僕は好きだ。キヨミズもそうなんだろう。
駐機場に整列した十七機の飛行機たちは艶やかだった。緩やかにプロペラを回して暖機している。排気ガスの匂いが甘く漂っている。
風はほとんどない。雲がないから高高度の風向きはわからないけれど、少なくとも荒れてはいないようだ。
マブリはまだマークⅠの赤を睨んでいる。
僕は極力そちらを見ないようにしてバンシーのラダーをつかんだ。体温みたいに生温かい。なのに、頬に触れる空気は痺れるくらい冷たかった。
コックピットに納まって脱出バッグを足首につなぐ。シートベルトを締めようと顔をあげたら、ちょうどアガヅマがラダーを登ってくるところだった。
「エンジン、空気の混合比を変えたんだって?」
彼は一瞬だけ顔をしかめたけれど、すぐに微苦笑を浮かべて首を振った。
「ああ。間違っても低空戦にたぶらかされるなよ」
「どれくらいまで上がれるの?」
「八千……七百」
「冗談?」
マークⅢのスペックは八千五百メートルが限界高度のはずだ。でも、アガヅマはとても不本意そうに眉を寄せてコックピットの縁を指で叩いた。
「電子制御を切った。なんのためのマークⅢだかわかったもんじゃない」
空っていうのは均一に見えて、じつは空気のむらが激しい空間だ。むやみに高度を変えたら大気圧が変わってエンジンが不完全燃焼を起こしたりする。これはどの飛行機も逃れられない。だから飛ぶ前に整備士が巡航高度に合わせて調節しておくことになっている。空に上がってから緊急事態で高度を変えるときはパイロットがチョークで調節したりもできるけれど、そんなことのできるパイロットは少ない。スロットルから手を放すだけでも危険なのに、チョークをいじりながらエンジン音を聴くなんて正気の沙汰じゃない。
でもそれはマークⅡまでの話だ。
マークⅢはそれを電子制御にした初めての機体だ。パイロットが操縦だけをしていたって大きく高度を変えられるっていうのは、かなり有利な条件だと言える。つまり、それを切るってことは、マークⅡに退化するってことだ。
「アツジも同じ仕様?」
せめて彼だけでもマークⅢとしての優位を保っていてもらわなきゃ、キヨミズへの報告を持って帰れる気がしない。
でも、アガヅマは無情にも首を縦に振った。
「わざわざ二重チェックを入れてきやがった」
いつも通りアガヅマの好き勝手なチューニングなら、こんな無茶な設定にはならなかっただろう。それだけ上層部は本気ってことだ。
「空中給油が終わったら」とアガヅマはコックピットの中に腕を入れた。「緩やかに高度をあげつつチョークを回せ、ここだ」
チョークのメモリに赤いテープが張ってあった。
「これで八千七百?」
「ああ、エンジン音が濁ってるようならまだ足りないってことだが、まあ、大丈夫だろ」
「なんだか頼りないね」
「こんな高度まで上がるやつなんか死神くらいだからな」
俺の担当じゃない、と唇を歪めたアガヅマはチョークのメモリに張ってあるもう一本のテープを指した。こっちは今のチョークの位置を忘れないためらしくて、黄色い。
「どうしても踊りたくなったらこっちだ。三千メートルに合わせてある。電子制御じゃないから必ずエンジンの音を聴いて調節しろよ」
いつも僕らが踊っている高度だ。でも、ずいぶんと差がある。
「八千七百からいきなり三千? 無茶苦茶だよ、音なんか聴いてる余裕もないと思うし」
「わかってる」アガヅマは舌打ちをしながら頷いた。「だから墜ちろ。途中でエンジンは止まるが気流でプロペラは回る。四千あたりからエンジンを再始動させられるはずだ」
「機体が分解したりしない?」
「あんたが吐く可能性はある」
「憂鬱になってきた」
「元からだろう」
アガヅマが視線を遠くに飛ばした。僕から一番遠い隊列の端っこにマブリの赤いマークⅠがある。
その機体のパーソナルマークを、僕は初めてちゃんと見た。
首と腕のない女性の上半身から、白い鳥の翼が伸びている。ニケと全く同じだ。
でも、ニケみたいな艶やかさや上品さは欠片も見当たらない。たぶん機体の色が違いすぎるんだろう。
血色の機体に張りついた裸体は悪趣味なバラバラ死体みたいだ。
その上にラダーがかかっているのを見て、僕は心底ほっとした。思わずバカみたいに長いため息を吐く。知らない間に肩に力が入っていたのか、急に流れ出した血で首筋が温かくなった。
ニケは、アガヅマの膝を踏み台にしていた。騎士みたいに膝をついたアガヅマに支えられて翼にあがって、それからコックピットに入る。
二人の呼吸が当たり前みたいに合って、すべての動作が流れるみたいに美しくて、僕はそれを見るのが好きだった。
でもマブリは、お尻を揺らしてラダーをのぼっている。細い肩に不釣り合いなヘルメットが、中身ごと体から転がり落ちそうだ。
はっと短く息がもれた。
「気をつけろよ」
「うん」アガヅマの声に頷いてから、我に返った。「え? なにに?」
雲がないから仲間とうっかりぶつかる可能性も、避けようのない雷に打たれることもないだろう。だいたい、空っていうのは人間がちょっと気をつけたからってどうこうできる空間でもない。
そんなことアガヅマだって知っているはずなのに、彼は物凄く真剣な顔をしていた。
彼は顔を近づけて僕のヘルメットのひさしに囁く。
「二カ月戦争の開戦日とおんなじ雰囲気だ」
僕は笑いを引っ込めて顎を引いた。
「あの時だって、上の連中は敵の奇襲作戦を事前につかんだと信じて、大規模攻勢を仕掛けた。それがあのザマだ」
二ヶ月戦争──陸空での戦死率が七十パーセントにもなった激戦だ。四年くらい前に勃発して、名前の通りあまりの被害にたった二カ月で停戦になった。停戦条約の調印式は、互いの戦死者を防弾壁として積み上げた塹壕内で執り行われたという。
もっとも、僕が覚えているのは航空学校の食堂でみたテレビ中継だけだ。双発のマークⅠが列をなして次々と発進していく美しさに、ただ感動していた。
でもアガヅマはあの戦争を、その結果を、体験している。
「そのときは、何人帰って来たの?」
彼は薄く唇を開いて、でも僕が求める答えを言うことなく、首を振った。
「昔の話だ。何機だったって関係ない。とりあえず、帰ってこい」
「墜ちる気はないけど」
今回は敵を墜とすよりも自分が墜ちないことが任務なんだから、とは言わず、僕は拳を突き出す。アガヅマも拳を作って軽く突き合わせてくれた。
降機してラダーを外す彼に指先だけの敬礼を投げてから、キャノピを閉じる。
本当は二カ月戦争についてもっと聞いてみたかった。どうして女性パイロットが──ニケが、それもたった一人だけ前線にいたのか。アガヅマは地上でどんな飛行機を整備していたのか。その時から二人は組んでいたのか。アガヅマの整備があったからこそ、ニケが生き残れたのか。いろいろだ。考え出したらきりがない。
でも、と僕はスロットルをアイドルにいれてブレーキを放した。
側道の凹凸を踏みしめて、バンシーが
今は任務に集中しよう。帰ってから訊けばいい。パイロットと違って整備士の戦死率は格段に低いんだから。
アツジのウンリュウから五メートルくらいあけた位置で、滑走路の順番を待つ。風がないから二本ある滑走路は両方つかえた。第一滑走路からマークⅡが、第二滑走路からマークⅢが上がる手はずになっている。
マブリのマークⅠは第一滑走路の先頭にいた。離陸時のパワー不足が否めない機種だから、編隊に遅れないように一番に離陸するみたいだ。
無線が離陸許可を伝えてきた。
僕らはきっちり三秒の間隔をあけて一列で飛び立つ。前のやつが躓いたら、なんて考えない。誰もが、餌にありついていいと言われた空腹の犬みたいな勢いで地上を捨てる。
地上を走る嫌な振動がなくなる。ふわりと体が浮き上がって自由になる感覚、空気抵抗で動揺する操縦桿も、エンジン音もいつも通りだ。いや、アガヅマから設定が変わっていることを教えられていなければ、そのまま高高度まで翔け上がりたくなるくらいに快適だった。
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