第五話 彼女と亡霊

第五話 彼女と亡霊 ①

〈5〉


 ブリーフィングルームの一番後ろの席に座るのは初めてだった。全員で出撃するなんて初めてのことだから、この狭い部屋にパイロットの人数分の椅子があるってだけでも驚異的だ。アツジの椅子は革張りの見慣れない造りだから、ひょっとしたら別の部屋から持ってきたのかもしれない。

 壁に吊り下げられた地図は日焼けしていて見難かった。こうして一枚の紙に納まった湾を見ていると、対岸同士で戦っているなんて冗談みたいだ。それも小休止を挟みながら延々と、僕らの爺さんだって生まれていない時代から続いているんだから、もう神話の域だろう。

 この国の言葉や文化が変化したって、戦争だけはかわりなく続いている。

 作戦部隊長が隊の構成を発表し、それぞれの装備を指定していく。アツジと僕はいつもの対空装備だったけれど、対艦装備を指定されている機体が何機かいた。

 かいつまんで言えば、敵の艦隊が上陸用の小型艇を引き連れて湾を渡ってくるので阻止する、という単純な話だった。対艦装備の機体は主に小型艇を排除し、残りで護衛の飛行部隊を撃墜しろ、ということだ。

 作戦部隊長が「敵の極秘作戦を傍受したのだ」と得意顔で語ってるのを横目に、僕とアツジはどちらからともなく視線を合わせて、肩を竦めた。

 僕とアツジ、それにたぶんマブリだって、作戦部隊長の考える作戦の頭数には含まれていない。僕らの任務が秘密だったとしても、こんな無味なブリーフィングは欠席してしまいたかった。

 この基地には僕とアツジを入れてもパイロットは十六人しかいない、もちろんそのカウントにマブリは入っていない。常に誰かが墜ちたり補充されたりしているから一定じゃないけれど、対艦戦闘を前提にするならせいぜい二部隊しか作れない。

 交戦予定空域は湾の中央部分で、どちらかというと奥寄りだ。地上の境界線が近いから戦域が流れて対空砲の射程に入ることを狙っているのかもしれない、お互いに。

 存分に戦えるようにという上層部の気遣いなのか、途中で空中給油を受けることになっていた。他にもTAB‐8や7、遠いところだと内陸にある基地からも部隊が合流して全七十機の大隊で進軍するらしい。

 先行するのは対空装備の隊で、ある程度敵の護衛戦闘機を減らしたところで、対艦装備の隊が合流するという。

 もっとも、誰もそれが巧くいくとは思っていないし、飛び立つときはともかく、交戦しはじめたら作戦なんて邪魔なだけだ。

 他の基地から来た奴と給油の順番でもめそうだな、と僕はこっそりため息をつく。この基地には空中給油機がないから、他の隊に恵んでもらうかたちになる。味方同士とはいえ、なんとも言えない憂鬱な気分だ。

 そんな僕の気持ちなど知るよしもなく、作戦部隊長は予想される敵の戦力や戦況、使用する符丁、それに万が一捕虜になった場合の心得なんて今さらなものまで、丁寧に説明してくれた。

 もっともブリーフィングも終盤になると、ほとんど誰もこの部屋には残っていなかった。

 体のことじゃない。みんなこれから飛ぶ空を夢想して、飛びかたをシミュレートしているんだ。ラダーペタルを踏むはずのスニーカーが、リズミカルに床を踏む。スロットルを押し上げ、舵を切る飛行服の衣擦れ。そして強烈なGに耐えられるように訓練された、細かく叩きつけるような呼吸音。そういうものがブリーフィングルームを満たしていく。

 ようやく説明を終えた作戦部隊長が「質問は?」と問うたけれど、誰も手をあげなかった。そのまま解散になる。

 みんなが出ていくまで僕とアツジは席を立たなかった。作戦部隊長が出ていって、キヨミズと僕らが残った。

 彼女は僕らを、正確にいえばアツジを見つめてため息を吐いた。

「なにか質問があるの?」

「あなたが」アツジは表情を動かさずに言う。「俺たちになにか言いたいのかと思って。違ったなら出ていきます」

 キヨミズは彼を睨んで、すぐに諦めたように首を振った。

「言いたいことは、ないわ。エンジンがいつもより高高度にセッティングされているから気をつけて。報告を待っています」

 僕は敬礼したけれど、アツジはしなかった。かわりに、ひどくつまらなそうな声で聴いた。

「高高度って、どれくらい?」

「それは」キヨミズは視線を右上に逃がした、一秒。「整備士に聞いてちょうだい」

 はっと彼は鼻を鳴らした。

 基地司令への返事にしては随分無礼だったけれど、彼女は黙って部屋を出ていく。

 アツジもキヨミズも気が立っている。そういう僕だって、冷静になろうとしているだけで、本当は二の腕の後ろ側が冷えていた。ときどき掌が痺れる。

 僕らはブリーフィングルームを出て、滑走路と格納庫が一度に見える娯楽室に入った。パイロットの待機所は別の場所にあるけれど、僕が配属されたときからそこの空調は壊れているから誰も使っていない。

 積年の汚れで白っぽくなった窓から、格納庫を見る。マブリの赤いマークⅠがのそりと牽き出されてくるところだった。

 空は雲一つない快晴なのに、マークⅠはどこか不機嫌そうだ。やっぱりあの塗装が気に食わないんだろう。

 続いて僕のマークⅢが牽き出される。

 その傍らに、マブリがいた。格納庫の壁に凭れて腕組みをしている。

 ぞっとした。僕は呼吸の仕方を忘れる。

 もう冬の匂いをさせている風の中で、彼女はコートも着ずに飛行服のまま立っていた。

 叫び出しそうになるのを、なんとか耐える。

 まったく同じ姿で立つニケを、見たことがあった。出撃前のニケは、極端に口数が減った。地上の風から自分を守るように両腕を組んで、唇を引き結んで、愛機が出てくるのを睨みつけていた。

 冬にはアガヅマがそっとベンチコートを肩にかけてあげていたけれど、今となってはニケがそれに気づいていたのかだって怪しい。そんな集中力だった。

 僕は窓の外にいる亡霊から後退りする。視線を外さないように注意しながら扉まで下がって廊下に逃げた。

 ようやく呼吸の仕方を思い出す。掌を目に押しつけてしゃがみ込む。ねっとりと変な汗が首筋に浮いているのがわかった。

 懐かしさなんて欠片も湧いてこない。僕が感じたのは純粋な恐怖だ。

 マブリはニケの存在を徹底的に調べて、ニケになりきろうとしている。それが怖かった。僕らから過去を、ニケの記憶を根こそぎ奪って上書きしようとしているみたいで。

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