①-2

 ニケの翼端がナイフに似た艶やかな光をまとう。大気が柔らかなバターみたいに薄く削がれていくのが、確かに見えた気がしたんだ。ウンリュウだって決して下手じゃないのに、彼女の前じゃひどくぎこちなく見えた。

 緩やかなロールをしながらウンリュウが、ほとんど垂直でニケが、それぞれ狙いを定めた獲物へとダイブしていく。

 僕は二機の、とくにニケの鋭利な輝きに見惚れて、一秒も出遅れた。おかげで僕が下りたときには敵に出迎えられるかたちになった。

 敵の射程に入る前に僕も旋回を開始したから致命的なミスというわけじゃないけれど、評価が下がるには十分な一秒だ。ひょっとしたら怖気づいたと思われたかもしれない。

 僕は二人に、大丈夫だってところを見せるために高度を落としながら増速した。向かってきた一機の射撃軸から外れるようにバンシーを右に振って、すぐに左に切り返す。

 相手は僕の鼻先を狙って旋回しようとして、少しだけ迷ったみたいにバンクの角度を緩めた。最新型のマークⅢであるバンシーに戸惑ったのかもしれない。致命的な迷いだ。

 僕はバンク角を増して相手を頭上に見る位置をとる。体がシートに押しつけられ、肺が圧迫される。背骨がシートに沈んでいく感触。

 でも、まだ余裕がある。浅く息を吸って、止めた瞬間に操縦桿を引く。肺といわず内臓全部が押し潰される感覚を、耐える。

 バンシーが急激な機首上げで相手のほうを向く。海に対して垂直の姿勢だ。真横からの風を受けて舵がひどく重たくなったけれど気にせず、撃つ。トリガーを引いている二秒で姿勢を調節した。

 すぐにロールをして背面で離脱する。

 ガンサイトを凝視して狙う余裕はなかったけれど、あたっただろう。

 機速を稼いでから上方ループに入る。ルームミラーに小さな爆発を繰り返す機体が映った。僕が撃った相手だろう。

 上昇しながらロールをして次の獲物を探す。

 と、上から黒い渦が落ちてきた。

 余裕でかわす。すれ違う一秒で正体がわかった。主翼が半分吹っ飛んだ敵機だ。

 どっちが墜としたんだ? と見上げる。太陽の光で真っ白に視界が染まった。

『残りを頼むよ』無線から、ニケの囁き声がした。『上の相手をしてくる』

 僕の前を双発機が横切った。トリガーを引きかけたけれど、危ういところで耐えた。

 ──マークⅠ、ニケだ。その後ろに一機ついている。

 でも、彼女は敵なんて存在しないみたいに舵を引いた。上昇する気だ。高度を上げるってことはその分、機速が削がれるのに。

 僕はとっさに彼女を狙っている敵の後ろに回り込む機動をとる。踏み込んだラダーペタルが重たかった。大気中に含まれる酸素が少なくなっているんだろう。でも、まだエンジンの空気混合率はかわらない。自動制御は操縦に集中できるから便利なんだけど、ちょっと鈍い。

 追いつけるかは微妙な距離だった。僕の射程に敵が入るよりもニケが撃たれる確率のほうが高い。

 当のニケは、悠長なロールをかけながら垂直に近い上昇角をとる。刹那、ニケのプロペラが一瞬、息をついた。

 失速! とヒヤリとする。でも一瞬後には、ニケの双発エンジンが噴きあがる。翼端から薄い雲を引いて、力強く空を昇っていく。

 目を疑った。敵を後ろにつけたまま上昇に入ることも、エンジンの調子が変わったことも、見間違いかと思ったくらいだ。

 彼女を追っていた敵が上昇を止めている。ニケマークⅠと同じような姿勢で垂直上昇をしていたせいで、うまく揚力をつかめずもたついている。プロペラの回転が目で追えるくらいに落ちていた。エンジンが止まったんだろう、かわいそうに。

 僕は敵のパイロットに同情する。相手がニケだったことに、じゃない。マークⅠの特性を教えてくれるような整備士や教師に出会えなかったことに、だ。

 長時間の垂直飛行なんて、重たい多弁エンジンを積んでいるマークⅠだからできるワザだ。他の機種が調子に乗って同じ姿勢で追いかけたら、すぐに燃料が回らなくなってエンジンが止まる。

 もっとも、僕がそれを知っているのはマークⅢのマニュアルに書いてあったからに過ぎない。

 失速回避手順でいっぱいいっぱいの敵の直上で、ニケが思い出したように機首を上げた。背面姿勢からの、さらなる下方ループ。ぎょっとするくらい宙返りの半径が小さい。体重の軽い女性ならではの機動だ。僕がやったら、失神するだろう。

 ニケはさらに舵を引き続けている。パイロットにかかっているGなんて、想像したくもない。

 下を向いた、と思ったときにはもう、ニケは翼を翻して旋回上昇に入っている。機首を真下に据えた一瞬だけ、機銃の辺りが光った。不安になるくらい短い射撃だ。

 でも、その短い銃撃でじゅうぶんだったらしい。失速回避に躍起になっていた敵機の動きが止まった。そのまま横滑りで墜ちていく。煙も炎もなかったので、コックピットを直撃したのかもしれない。

 僕は、完全に見蕩れていた。空で、敵との殺し合いのさなか、呆然と彼女の機動を追っていた。あまつさえ、機銃のトリガーから指を放しかけていた。

 そのとき、左からつっこんでくる太い影が見えた。驚いて、条件反射で撃つ。

 尾を引いた弾筋がきれいに敵の軌跡とクロスした。

『お前!』

 アツジの声が耳元で弾ける。ほとんど同時にバンシーの鼻先を掠めてウンリュウが飛び抜けた。

「あ、ごめん」

 図らずしも彼の獲物を盗ってしまったことを詫びながら、僕はニケを仰ぐ。

 彼女は、雲の高さを超えるところだった。

 プロペラが光を細切れにするリズムを凝視する。一瞬鈍って、でもすぐに回転数が戻るのが見えた。

 間違いない。彼女は高度とに合わせてエンジンの空気混合率をいじっている。

 一度目は敵を後ろにつけたまま、二度目は敵を前にして。タイミングを間違えば失速するどころか、エンジン自体を止めてしまう。そうなれば、ただの的だ。なのに、彼女はそれを平然とこなしていた。

 少なくとも、僕にはそう見えた。

 ニケが上昇しながらロールをした。翼に反射した光が凶暴に瞬いて、すぐに太陽に溶け込む。

 天国に近い高度だろう。

 その先に黒い点が二つあった。彼女を出迎える天使にも、死神にも見える。敵にとっては彼女こそが、死神に他ならない。

 僕はぼんやりと彼女の光を目で追いかけた。空で一つのものを見続けることがどれくらい危険な行為かはわかっていたけれど、見ずにはいられなかった。

 結局、その二機は彼女が一人で墜とした。

 ただの警戒飛行だったはずなのに、三機で六機を撃墜する華々しいデビュー戦になってしまった。

 アガヅマはバンシーに撃墜マークを二つ描いたけれど、なぜかニケのほうには一つだって描かなかった。というよりも、彼女の機体にあるのは所属を表すナンバとマーク、それにパーソナルマークである首と腕をもがれた女性の上半身だけだ。


 残念なことに、ニケと組んだのは、それっきりだ。

 僕はアツジの隊に配属されて、彼女は僕に追い出されるみたいにもう一つの隊に異動した。

 この基地はパイロットの数が少ないから二つしか隊がない。各隊で任務の時間が違うからほとんど話す機会なんてなかったけれど、僕は空に上がるたびに彼女の飛び方を思い出した。

 あの、空を切り裂くナイフめいた機動ができるなら、マークⅠに乗り換えたっていい。そんなことを真剣に考えた。

 だから僕はずっと、彼女がいなくなった今でさえ、どうすればあんな風に飛べるのか考えている。

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