③-2
建物を出ると、基地の終りを告げるフェンスの向こうに、黒々と防火林の輪郭がそびえていた。夜の彩度だ。でも空はまだ太陽の名残で薄紫色に染まっている。月だって見当たらない。
あの町に行ってみようか、とぼんやりと考えた。
昔、ニケとアガヅマが連れて行ってくれた二つ隣の町だ。
国境にほど近い殺風景なその町には、二人が馴染みにしている店がある。でも、店に入ったのは、ニケとアガヅマに連れて行かれた最初の一度きりだ。町にだって、郵便局に立ち寄る用がなければ行かなかった。ニケがいなくなってからは、思い出すこともなかった。
どうしていまさらニケなんだ、と思うと同時に、マブリのせいだ、とも思う。
いや、正確にいえば情報局の奴らのせいだ。せっかく存在すら忘却し得るほどの深さに彼女の存在を大切に、子どものときに拾ったビー玉みたいに大事に埋めていたのに、わざわざ掘り起こしてくれた。
くそ、と悪態をつきながら無意味に基地を彷徨う。
気がつくと、僕は駐車場にいた。僕の足が勝手に、二つ隣のあの町に行くためのバイクを求めたんだ。
彼女を忘れたいと冷静に願う僕のどこかに、彼女との過去を懐かしみたい心が潜んでいるんだ。まるで人々を死に誘う病みたいに。
あるいは彼女の亡霊が、情報局の男を通して僕に取憑いたんだろうか、と馬鹿げたことを考える。
と、駐車場の隅に停めてある僕のスクーターが仄かに光っていた。誰かがライトで照らしているんだ。もっとも、そんなことをするのは、彼以外にいない。
僕はわざと靴底で駐車場の舗装を擦りながら、スクータに近づく。車体の左側面に描かれたバンシーが見えた。飛行機の彼女と同じようにフードで顔を隠している。でも地上を走るこちらのバンシーは、艶めかしい肩と胸をむき出しにしていた。
あれを描いたのは、たぶんニケだろう。とはいえ、本人に確かめたことはない。確かめるタイミングを逃している間に、彼女はいなくなってしまった。
さらに、妖艶なバンシーの下には撃墜マークがある。ちょっとスクーターに乗らないでいると、あれ? と数え直すくらいの眠たいペースで、でも確実に増えている。今は十一機だ。
もちろん、僕が描いたわけでもないし、僕の趣味でもない。
アガヅマだ。こちらは描いているところを現行犯で咎めたことがあった。でも、どういう基準で増えているのかは、教えてもらえなかった。スクーターが僕のものになった経緯を考えると、深く追求することも難しい。
今回も、アガヅマは撃墜マークを書き足しているらしい。車体の傍らにしゃがんだ彼のヘッドたライトが、ちかちかとスクーターのバンシーを明滅させていた。工具を出し入れするたびに光が逸れるせいだ。
「それ以上増やさないでほしいな」
もちろん撃墜マークのことだ。妖しいバンシーと相まって、仲間たちは変な──たとえば僕が関係を持った女性の数だとかって下世話な方向に誤解している。
「オイルが分離してたぞ」彼は僕の声を無視した。「いつから乗ってない?」
「最近、忙しかったんだよ。君もだろ?」
「だから今、手が空いたタイミングで整備してやってるだろ。なんだ、出かけるのか?」
「わからない」
は? とアガヅマが顔を上げた。彼の額と連動したライトが僕の目を直撃して、表情は見えなかった。
「地上の記憶なんて全部、空に置いてこられればいいのに」冗談のつもりだったのに、情けない声になった。「出かけようと思った気もするけど、出かけたい気分じゃないんだ」
アガヅマは「そうか」と曖昧に頷くと顔とライトをスクーターに戻す。
「まあ、そんな日もある。なんだ、司令にでもイジメられたか?」
「近いうちに大規模出撃があるらしいって、聞いてる?」
撃墜マークの苦情を無視された意趣返しに、僕もいきなり直球を投げることにした。
案の定、アガヅマがぽかんとした、と思う。逆光になって見えなかったけれど、「へ?」と聞き返す声が心底驚いた調子だった。
「いつ?」
「聞いたところじゃ二、三日中だって」
「どっからの情報だ?」
「ヒミツ」
僕は無表情に言い切った。食い下がられてもマブリの名前を出す気はなかった。それがお互いのためだ。
アガヅマはまた「そうか」と頷いて、額のライトを消した。彼の姿が闇に溶け込んだ。
「わかった」
「頼むよ」
なにが、とも、なにを、とも言わなかった。
必要ないことは省くっていうのは空戦の基本だ。空では、ムダなことをしている時間なんて与えてもらえない。僕らは最小限の言葉と動作と犠牲で最大の成果を上げなきゃならない。
だからこそ、空戦をしながら舌戦をしかけてくるヘルティアのパイロットたちの神経がわからない。
アガヅマが僕のスクーターをウエスで拭き上げるのを三分くらい眺めてから、踵を返す。
「バンシー、出かけないのか?」
「うん」
「もう終わるぞ?」
整備に遠慮したと思われたみたいだ。僕は振り返って首を振る。
「いいんだ。大規模出撃ってやつが終わってからにする。心残りは多いほうがいい」
アガヅマは唇を斜めにして黙った。不機嫌と不安とを均等に混ぜた器用な表情だ。
「冗談だよ」と僕は笑ってやる。
でも彼は笑い返さない。俯いて、作業着のポケットから取り出した煙草を咥える。ライターを擦って、でも火を移す寸前で思いついたように顔を上げる。
「終わったら、飲みに行こう」
「いいね」
「こいつで」
アガヅマがスクーターのシートを叩いた。普通のスクーターよりも大きなシートを取りつけてあるから、二人乗りができる。ご丁寧に背もたれまで装備済みだ。でも僕は一度だってそこに誰かを乗せたことなんてなかった。
「恐るおそる聞くけど、どっちが運転するの?」
「俺でもいいぞ」
「安全運転?」
ああ、と言ったアガヅマの視線が逃げた。煙草に火をつける動作でうまくごまかしたつもりだろうけど、あれは本人と周囲の人間とで「安全運転」の認識がずれている奴に多い所作だ。
運転は僕がしよう、と決意する。
「君の運転技術はともかくとして、僕が帰ってこなきゃ意味がないってことはわかった」
「大規模作戦なんて気にするな。いつも通りにやれよ」
「まあ、パティーみたいなものだよね」
僕は軽く手を挙げて「おやすみ」と挨拶をする。アガヅマも手を挙げて応じてくれた。
きっとスクーターの二人乗りは戦闘機の操縦よりも簡単だろう。
どの方向にだって自由に行ける空とは違って、決められた平坦な道しか走れないんだから。まるで人生みたいだ。
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