②

 二号格納庫のシャッターは開いていた。

 強烈な赤い機体に眼をとられて、一瞬バンシーを見逃しかける。いつもの位置にいる愛機が見えなくなるなんて、派手な色合いは新手の欺瞞手段なのかもしれない。

 整備士が一人、マークⅠの腹に潜っていたけれどアガヅマじゃなかった。彼は僕らに気づくと小さく頭を下げて、バンシーを指す。

 バンシーのカウルが外れていた。複雑にうねるバンシーの内臓は美しい。人間が作り上げた芸術品の中でも一番だと思う。

 作業リフトの上にアガヅマの背中が見えた。エンジンを覗きこんでいる。

「お疲れ。なにか問題発生?」

「おう」と彼はエンジンに応えてから、首を振った。たぶん、最初の一言が挨拶に対してで、首を振ったのは問題が起きたのかって問いの答えなんだろう。

 アガヅマは僕らを見下ろすと露骨に、不機嫌顔になった。彼の頬を黒いオイルが汚している。

「ひどい顔だよ」と僕は自分の頬を指先で叩いて教えてあげる。

「たぶん」作業着の肩でぞんざいに頬を拭って、アガヅマは唇の端を下げた。「あんたが連れてきた奴が原因だ」

「僕のバンシーを診てるときに、他人を気にかける余裕があるの?」

 アガヅマはわざとらしく鼻を鳴らすと、僕の皮肉に答えることなくエンジンをいじる作業に戻ってしまった。

 背中にはマブリの焦りがひたひたと寄せているし、整備リフトからはアガヅマの拒絶がびりびりと降ってくる。

 損な役回りだな、と顔を歪めながらリフトの反対側に回った。エンジン越しに、アガヅマの不機嫌な顔が覗ける位置だ。

「アガヅマ」

「新しいパーツがきてたぞ」

「あ、うん。どこの?」

ギア。十キロ軽くなる」

「十キロも? そのぶん弱くなったりするんじゃないの?」

「開発部の言い分を信じるなら、滑走路に降りるには十分だ。基地周りの道路だっていける。十二センチまでの凹凸なら離着陸に問題はない。数字の上では、な」

「いつできるの? 今日の昼にはハンガーにいなきゃならないんだ」

「まだパーツごとのチェックができてないから、取りつけは明日になる」

 よろしく、と言った僕の耳にマブリの咳払いが聞こえた。

 しまった、ついアガヅマに流された。顔をしかめて戻す一秒で、僕は彼との会話をシミュレートして実行に移す。

「そのギアって、君が発注したの?」

「まさか。開発部の試作品だよ。さっき司令が持ってきた」

「つまり上からの命令ってわけだ」

 アガヅマは少しだけ上体を起こす。エンジンから僕へと向けられた眼差しの冷たさに、思わずぞくりとした。

「バンシー、なにが」

「きいて」彼の言葉を遮る。少し頬がこわばった自覚があったけれど無視する。「パイロットは自分で機体を決めてるわけじゃない」

 アガヅマの顎が小さく上がった。視線がさらに鋭くなったけれど、機嫌はこれ以上降下しようがないはずだ。大丈夫、と自分に言い聞かせる。

「パイロットはみんな、上層部から機体と名前を押しつけられて文句一つ言わずに空に上がってるんだ。せめてコックピットの中でくらいは安心したい」

「つまり?」

「せめて専門知識のあるベテランの整備を受けた機体で、飛びたい。整備が万全だと信じられたら、たとえトラブルが起きたって諦められる。納得して墜ちていける」

 アガヅマは答えなかった。なにかを考えているように、その視線が小刻みに揺れていた。

「マークⅠは、君の専門だろう?」

「今はあんたの、マークⅢが専門だ」

「でも」と唐突にマブリの声が割り込んだ。

 どうして口を挟んでくるんだ! と怒鳴りそうになって、耐える。僕のシミュレート通りに会話を運んでいたのに、全部台無しだ。

 僕は頭を抱えたい気分で「マブリ」と彼女を制する。それなのに。

「ニケの機体は」マブリは身を乗り出さんばかりの勢いで言い募る。「あなたが整備してたって」

「黙れ」

 押し殺した一言だった。それだけで、僕は呼吸を忘れる。空でだって、こんな殺気を感ずることはまずない。

 いっそ怒鳴ってくれたほうがよかった。

 アガヅマが本気で怒っているところを見たことはない。それでも今、この瞬間、彼が殺意を帯びた怒りを押し殺しているのだと、たった一言で理解できた。

 もしここが空だったなら、と僕は現実逃避気味に考える。機体を九十度ロールさせて一気に舵を引いただろう。反転離脱。静かに激怒しているアガヅマも、不用意なマブリも放り出して逃げ出せる。

 でも地上じゃ、そうはいかない。

 ふっとアガヅマが視線を逸らした。整備リフトの縁を睨んで、薄く開いた唇を舐めて、彼は「黙れ」と繰り返して息を吐く。

「あんたとは、話したくない」

「なら、仕事をして」

 マブリの声は震えていたけれど、僕には、アガヅマの本気の殺気を前に彼女が口を利けたってだけでも驚きだった。

 僕は上着の裾で手を拭って注意深く息を吐いた。掌に汗をかいていた。機銃のトリガーに指をかけるときに似ている。

 エンジンにレンチを差し込むアガヅマの背中に、僕は囁く。

「僕らは機体も名前も選べない。君だって、担当する機体もパイロットも選べない。そういう仕事なんだ」

 アガヅマの視線が一呼吸だけ僕を捉えた。でもすぐに鈍色に光る機械に向けられる。

「彼女はただの、パイロットだよ。飛行機の、一部だ」

 いつか、ニケは自分を「飛行機の一部だ」と言っていた。だから人間としての名前は要らないんだと主張した。

 パイロットは、飛行機の一部だ。整備士なしにはどこへも行けない。

 だから諦めろよ、僕は胸中で彼に告げる。諦めてくれよ。気持ちだけじゃどうにもならないことがあるって知ってるだろう。たくさん、たくさんあるんだ。割り切るしかない。

 アガヅマだって心のどこかでわかっているはずだ。だからこそ頑なになる。

「アガヅマ」僕は自分の足元に、そこに確固として存在する地面に、囁く。「ニケは、帰ってこないよ」

 ごっ、と耳元の空気が吠えた。巨大な空気の塊が掠めた音だ。反射的に顔を上げた僕は、その音の正体を捉えている。

 マブリの小さな悲鳴と、アガヅマが投げたレンチの跳ねる音がした。

 僕は避けなかった。いや、避けられなかった。彼が僕に工具を投げつけるはずがない、と油断していた。彼の衝動を舐めていた。もしここが空だったら、僕は彼に撃墜されていた。

 あ、とアガヅマは呆然と自分の手を見下ろした。一秒前までレンチを握っていた手だ。自分の行動が信じられないって顔で、彼はゆっくりと拳を握る。両手を額にこすりつけて、「悪い」と呻く。泣いて立ち尽くす子供みたいな仕草だった。

「悪い、出てけ」

 僕は「うん」と頷いて、整備リフトを回り込む。

 マブリが怯えたように肩を竦ませていた。

「もう済んだよ」僕は彼女の肩を軽く叩く。「行こう。アガヅマは仕事をしてくれるよ」

 格納庫を出て、自分の掌を見た。マブリの肩の感触が残っていた。

 細い肩だった。高速では舵が重たくなるって噂のマークⅠのパイロットとは思えない、頼りない筋肉だ。

 ニケとは、違う。

 僕はマブリの残像とニケの幻を握りつぶす。そのまま振りあげて、でも握った拳を突きつける先が見当たらなくて、情けなく風の中で解いた。冷えた風が指の間を撫でて、鈍った頭を醒ましてくれる。

 早く冬になればいいのに、と思いながら僕は鼻をすすった。

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