①-2
煙を吐いて、紫煙の向こうから僕を見つめる彼女の瞳を観察して、訊く。
「君、名前は? 飛行機じゃないほうの」
「マブリ」
「じゃあ、マブリ」変化球は手首を痛めるから直球でいく。「彼女のことを嗅ぎ回るなんて、無意味だよ。いなくなった仲間のことを考えるなんてナンセンスだ。学校でそう習わなかった?」
「過去から学ぶのは無意味だと思わないわ。普通の人なら経験から学べるけれど、パイロットはそうじゃないもの。墜ちる経験なんて何度も積めない」
一理ある。でも、たぶんニケならそんな反論はしなかったはずだ。だって。
「僕はまだ墜ちたことがないし、天国だって見たことがないから、君が望む情報は持ってない。それに、知り合いでもない相手のことを嗅ぎまわるのはマナー違反だ」
「マナー?」彼女は驚いたように眉を上げた。「確かに知り合いじゃないけど、同じ機種に乗っていた人がどうして墜ちたのか知りたいって思うのはマナー違反?」
「彼女なら……」
そう言うだろうね、と答えかけて慌てて呑みこんだ。言葉の続きをため息で押し流して「いや」と首を振る。
「君の機体もマークⅠだよね。武装は?」
「ノーマルの、機銃が二挺のタイプよ」
確かに、彼女と同じ機種と武装だ。
マークⅠの──ニケの、滲んだ空色の機体の曲線を思い出す。艶めかしい柔らかな外見と優雅な低速飛行、そして背面姿勢に時間制限がないのが特徴の機種だ。どちらかといえば空戦より、曲芸飛行向きだろう。
ニケは、その特性を餌にしていた。低速で敵機を油断させ、背面姿勢に姿勢に誘っては敵機のエンジンを止めていた。さらに彼女自身の腕もあった。
彼女と間近で飛んだのは一度きりだけど、眼に焼きついている。僕は今でも、あの機動を目標としている。
「……マークⅠの乗り心地はどう?」
「安定してる、と思う」マブリは自分の言葉に頷いて、「うん、安定してる」と繰り返した。「低速時の機動は、マークⅢに勝てるじゃないかって思うことだってあるもの」
「ニケは」と言ってから「君じゃないほうだけど」とつけ加えた。「マークⅡと同じくらいの撃墜成績を出してるよ」
「当時のエースだった?」
「そうだね」頷いてから、「いや、どうだろう」と濁す。「本人は否定してたから。でも僕から見れば、ナンバー・ワンだった」
「ウンリュウより?」
「アツジにはナイショにしてほしい」思わず口元が緩んだ。「今も昔も、ここのナンバー・ワンは彼だから」
「共犯ね」
「じゃあ、共犯ついでに教えてあげるよ」
僕はテーブルの上に体を乗り出す。
彼女もつられて肘を前に出したから、僕らは互いの耳に囁く格好になる。食堂の隅にいる整備士たちから変な誤解を受けるかもしれない。
「バンシーは、死を告げる妖精だ」
マブリの体が肘半分くらい下がった。息を呑んだのがわかる。パイロットには珍しいくらいの動揺ぶりだ。
「彼女がいなくなる前の夜、僕らは会ってた」
「だから、死んだって言いたいの?」
「違う」喉の奥で呻いた。「彼女は墜ちただけだよ」
「捕虜になったの?」
「そういう報告はなかったけど……海上で機体の一部が見つかっただけ」
「ああ、じゃあ」
マブリはため息の延長でなにかを言いかけて、黙った。失言だと気づいたんだろう。
だから僕は「でもね」と、もう少し話を続けてあげる。
「最後の夜に
僕は彼女から眼を逸らして、食堂の端に陣取っていた整備士たちを見る。不自然な速度で立ち上がった彼らは、やっぱり僕とマブリのことを誤解したらしい。釈明するのも面倒だ。
僕は冷めてしまったコーヒーで唇を濡らす。自分でも驚くくらい乾燥して荒れた唇だった。僕の口はよほど彼女のことを話したくないらしい。
「だから」コーヒーを一息に流し込む。「この基地の人たちに、ニケのことを思い出してほしくない。僕も、その名前は忘れていたいんだ。噂が広がって僕の名前に変なジンクスがつくのもいやだから、君ともかかわりたくない」
灰皿を引き寄せて、まだ長い煙草を押しつけた。乱暴に捻り消したせいで灰が腐食した装甲板みたいに剥がれて、まだ焼けていない煙草の葉と混ざり合う。空になったカップを手に立ちあがった。
マブリが「あ」と小さく声を上げる。
「待って。本題」
適当に煙に巻いたつもりだったけれど、誤魔化されてくれなかったらしい。舌打ちしたい気分で、でも諦め半分で、テーブルから二歩の位置で立ち止まる。
「アガヅマだろ?」
「そう、それを頼もうと思っていたの」
「無理だよ。アガヅマは確かに僕の担当整備士で、マークⅠの担当でもあったけど、僕に彼が説得できるはずがない」
僕でさえ、ニケの名を名乗るマブリを受け入れられないんだから。
「でも」と彼女はテーブルの上で両手を組み合わせる。祈りを捧げているようにも懇願を示しているようにも見える姿勢だ。「わたしだって、墜ちたくない」
少しだけ、驚いた。墜ちたくない、と言い切った彼女の横顔がパイロットらしい緊張感を帯びていたからだ。
「アガヅマさんには、司令から命令が下りているはずなの。この基地でマークⅠを扱える整備士は、あの人しかいなんでしょ?」
「さあ? 僕はずっとマークⅢに乗ってるから、他のタイプの整備については知らないんだ。でも、アガヅマがマークⅠをみられるのは確かだね」
好き勝手に改良するくらいには、とは言わなかった。おそらく、あの改良はニケの機体だからこそ施されたものだ。彼は、本人がどう言おうと、明らかにニケに愛着を抱いていた。彼女がいなくなった今も、当時の感情を捨てきれずにいる。
そんな彼が、ニケと同型のマブリの機体を、ニケと同じように整備してあげられるとは思えない。
でも、それを教えてやる気はない。余計なことを言わないように、唇の内側を噛む。
「説得してくれなくていいの。ただ、取り次いでくれればいいの。あの人、まるでわたしのことが見えていないみたいに振る舞うから、話し合いにもならないのよ」
「……司令に頼めば? 僕よりずっと効果的だ」
「それはダメ」組み合わせた両手を口元に当てた。表情が隠れて、その眼光の妙な鋭さだけが強調される。「司令からの命令で渋々整備された機体なんて、怖くて乗れないもの」
「アガヅマは、手を抜くような整備士じゃないよ」
そう言いながら、僕は彼女の恐怖を理解していた。
パイロットはみんな、機体に命を預けている。その機体を整備する整備士に、命を握られていると言い換えてもいい。いくら脱出用のパラシュートを背負っているとはいえ、飛行中の機体トラブルは死に直結する。
マブリが上官命令ではなく整備士の──アガヅマの意志にこだわるのは、その原則を理解しているからだ。
つまりマブリは、僕が考えていたよりずっとパイロットとしての訓練を積んでいる、ということだ。
僕は体ごと振り返って、肩を竦める。
「先に言っておくけど、期待はしないで。アガヅマは手強いんだ」
「ロストより?」
「戦ったことがあるの?」
敵の最新機のコードネームが彼女の口から出たことに純粋に驚いた。パイロットであるマブリが知っていてもおかしくはないけれど、ロストの目撃は前線に偏っている。彼女が目にする機会があったとは思えない。
「まさか」と彼女は首を振る。「噂になってるから知ってるだけ。こっちの戦闘機ばかり落されて、まだ一機も鹵獲できていないって」
「そのうち回収されるよ」
たぶん、何機かは墜とせているはずだ。墜落したあげくに燃えてしまったとか、海の底に沈んでしまったとか、いろんな理由で技術屋の手元まで届いていないだけだろう。
アガヅマに訊けばそういった裏事情も教えてもらえるかもしれない、と思いながら僕はマブリと食堂を出る。
乾燥した風の中に枯葉の匂いがした。仄かに甘くて、少し眠くなる匂いだ。
冬の一歩手前で太陽のぬくもりを吸収している雲が、少し低い。その動きから風の方向と強さを探りながら滑走路の脇を歩く。
マブリも同じことを考えているのか、空を見上げながらついてきた。
「北西から進入して」彼女が呟く。「旋回降下しながら少し左に倒す。フラップは半分くらいで、ラダーは小刻みに当てる」
滑走路の上空を眺めて頷いた。僕が考えていた着陸軌道と重なる。もっとも、マークⅠとⅢじゃ重量バランスが違うからエレベーターの引きかたは違うはずだ。それに触れなかったこともマブリの計算だとしたら、敵を引きつける色のマークⅠに乗っているのは伊達じゃないってことだろうか?
でもニケなら、と思う。きっと僕が思い描きもしない美しい飛びかたを見せてくれるはずだ。
その影を求めて空を仰いだけれど、横切ったのは小さな鳥が一羽だけだった。
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