第三話 地上の亡霊

第三話 地上の亡霊 ①-1

〈3〉


『彼女』と飛んだ空の夢から目覚めたときには、部屋全体が明るかった。分厚いカーテンを通してもわかる太陽の光だ。

 何時だ? と腕を上げて、そこに飛行時計がないことに気づくまでに二呼吸もかかった。もぞもぞと手探りで枕の下から飛行時計を救出して、時刻を確認する。

 一〇二二。

 今日は昼から緊急発進用のハンガーに居るだけの任務だから、まだ寝ていても許される時間だ。

 寝がえりを打った拍子に見えたアツジのベッドはきれいに片付いていた。畳んだ毛布の上に枕が座っている、理想的な状態だ。誰も使ったことのない新品みたいに、あるいは彼が帰って来なくとも次に使う奴のために掃除をする必要がないくらいに、整えられている。

 パイロットに多いタイプだと気づいたのは、この基地に来て割とすぐだった。みんな、墜ちる覚悟ってものを心のどこかに抱いている。

 僕だけが、平和ぼけした地上要員みたいにベッドやデスクの上を散らかしたまま飛んでいる。今だって、枕の隣には昨夜手紙を書くのに使ったペンが転がっていた。

 渋々、僕はベッドから出て窓を開ける。

 誰かが飛び立った直後なのだろう。エンジン音は聞こえなかったけれど、冷えた風の中に排気ガスの甘い臭いがした。

 たぶん、四機編隊だ。

 顔を洗ってから食堂に行く。半端な時間だからか、空いていた。いや、ここの食堂はたいてい空いている。緊張感のない地上要員たちが、往復に三十分近くかけて民間の食堂までおいしい食事をとりにいくからだ。

 カウンターの中にいた女性職員は迷惑そうな顔を隠そうともしないで、「Aセットだね」と一方的に宣言して、朝食の載ったトレイを出してくれた。トーストが二枚と双子の目玉焼き、サラダと味の薄い野菜スープがついている。とはいえ、一度だってBやCってセットを見たことがないから、実質この食堂に存在する朝食はこれ一種類しかない。

 セルフサービスのコーヒーをたっぷり注いで席につく。テーブルの真ん中に置かれている塩を目玉焼きとサラダとスープに振りかけてから、遅い朝食にありついた。

 整備士たちがコーヒーを飲みに立ち寄るくらいで、平和な朝だ。

 食事をきれいに平らげて、トレイを返すついでに二杯目のコーヒーを注いで席に戻る。とくにやるべきこともないので誰かが忘れていった広報雑誌をめくっていたら、急に手元が暗くなった。

 嫌な予感がしたから、顔は上げなかった。視線だけでテーブルの横に動かすと、スカートの裾が見えた。誰だか理解するには十分だったから、そんまま活字の群に意識を戻す。

「ねえ」

 ミルクを強請る子猫みたいな声が降ってきたけれど、聞こえないふりをした。それが僕の最大の意思表示だったんだけど、残念ながら伝わらなかったらしい。再び降ってきた「ねえ」って声を無視しようとして、失敗した。

「バンシー」

 僕の眼球だけが弾かれたように上がる。顔は後からゆっくりと。ほとんど条件反射に近い。

 昨日、格納庫で見た女性だ。パイロットって職業に喧嘩を売りにきたんじゃないかって長さの前髪を、今日はピンでとめていた。

「タカナシ」訂正と自己紹介をかねて、低く言う。

「知ってる」彼女はふふっと息を漏らした。「ここのエースでしょ?」

「違うよ」

「謙遜?」

「違う」

 ふうん、と息を漏らして彼女は「みんなは」と首を傾げる。

「あなたを『バンシー』って呼ぶんでしょ?」

 僕は否定も肯定もしないで黙っていた。確かにそう呼ぶ仲間は多いけど、みんな僕よりも長くこの基地にいる、いわば先輩だ。

「わたしは『ニケ』」

「やめたほうがいい」威嚇する雄猫に似た声音になった。「それは君の名前じゃないだろ」

「わたしの」

「君じゃない!」

 静かな食堂に漂った残響で、自分が怒鳴ったんだってことに気づいた。落ち着くために深く息を吸って、ゆっくりと吐きだす。心臓が変なリズムを刻んでいる。得体のしれない亡霊を前にした気分だ。

「昨日、アガヅマにもそう名乗った?」

 彼女は眉を下げて俯いた。たぶん、肯定だろう。

「学習したら? この基地じゃ、その名前は歓迎されないよ」

「でも、規則なの。女性パイロットは、男性パイロットを階級とか飛行機の愛称で呼ぶように指示されているから。不適切な関係になる可能性は極力低い方がいいでしょう」

「だとしても、その名前は、君が名乗るべきじゃない。とくに、ここでは」

「でも……わたしがつけた名前じゃないのに……」

 彼女は不貞腐れたように、低く呟いた。

 ああ、確かにそうだ、と僕は思い出す。バンシーだって僕が初めて乗ったときからバンシーって名前で、あのパーソナルマークで、なに一つ僕が決めたことなんてない。そんなわかりきったことを今まで忘れていた。

 彼女にすればアガヅマの苛立ちも僕の怒鳴り声も理不尽に思えただろう。

 そして、これはアガヅマにはわからない気持ちだろう、とも思う。彼の名前は一つきりだから。

 僕はため息と言葉を一緒に吐く。

「ごめん。八つ当たりだ」

 彼女は黙って首を振った。肩からこぼれた髪が制服にゆるいカーブを描いている。墜ちていく飛行機の軌跡だ。

「昔、ここには『ニケ』って名前のパイロットがいたんだ。だから、みんなその名前には敏感になってる」

「知ってる。ヒノメ初の、前線で飛んでた女性パイロットで、凄腕だったって。飛行学校にも新聞の切り抜きがあったから」

「そういう噂はたいてい誇張されてるから八割くらい疑ってかかるべきだよ」

「そうなの?」

「受け売りだけど」

 彼女は「ふうん」と鼻にかかった息を漏らして僕の前の席に座った。

 思わず食堂を見まわす。僕たち以外には整備士が二人とパイロットが二人だけだ。ほとんどの席が空いているのに、どうして彼女はここに座るんだろう?

「ねえ」彼女が内緒話の声で囁く。「どうしてその人に、そんなに過敏になるの? なにか特別だったの? 前線にいるパイロットがいなくなることなんて、珍しくもないでしょ?」

 僕は雑誌を閉じて煙草を取り出した。火をつけるまでの一連の動作の間に、話すべきなのか、彼女はなにを訊きたいのか、どこまで知っているのか、そして過去に興味を持つ意味とを考える。

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