③-3

 僕にとっては他人のエンジンより自分の煙草のほうが大切だけど、彼女にとっては違うらしい。背後からエンジン性能と飛行性能の関係を討論する声が響いてくる。

 深く吸った紫煙を空へと吐く。雲の高度が低い。きっと今日墜ちた奴らは天国には逝けなかっただろう。

 だって天国がある雲はもっと高い。

 少なくとも、僕はそう信じている。どうせなら地上の天気なんか関係ない高高度にぽっかりと孤独に浮かぶ雲の中に墜ちたい。それが僕の夢で、願いだ。

 ──バンシー。

 僕は自分の機体を振りかえる。ニケとアガヅマが触れているエンジンじゃなくて、キャノピの下に描かれた『彼女』が僕にとってのバンシーだ。でも残念ながら、長いフードの裾で隠れてしまって胸は描かれていない。

 ──死を告げるバンシーの胸にキスを贈る者は、三つの願いが叶う。

 迷信だけど、飛行機乗りにはそういうことにこだわる奴が多い。

 きっと、なにもつかめない空に慣れきっているから、常に足の裏に触れている大地の確かさに不安を抱いて、見えないものが恋しくなるんだ。

 そう、ジンクスとか天国とか、感情とか。

 僕はそっと自分の手を見る。煙草を持つ人差し指と中指が、煙草を弾いて灰を落とす親指が、僕を飛ばし敵を墜としてくれる。

「バンシー」と背後からニケの声がした。「バイクの調達は?」

「バイクって?」

 僕は格納庫を振り返る。太陽に慣れた目が格納庫の薄暗さに怯えてフラッシュする。なにも見えない。

 胸ポケットから煙草を出しながら、ニケが光の下に出てきた。バケツの中で泳いでいる残骸には目もくれずに火をつける。

「首都で乗ってたんでしょ? ここではバイクか車がないと不便だよ。もう誰かに頼んだ?」

「まだだよ」

「なら、いい店を紹介するよ。エンジンを見せてくれたお礼」

「安来で手に入ると嬉しいんだけど」

「安いと思うよ。バイクの相場なんて知らないけど」

 アガヅマが整備リフトから飛び降りる音がした。三秒遅れて格納庫の闇から彼が出てくる。

「実費」アガヅマはニヤリと唇を歪めていた。「組み立て代金はビールの一本でも奢ってくれりゃいい」

「君の店?」

「俺が直したり作ったりできるもんで、あんたが買いたいもんがあるなら、そうなる」

 僕も唇を歪めて、でも彼ほどの迫力は出ていないだろうなと思いながら、短くなった煙草をバケツに放り込む。

「優秀な整備士は高いんだろ? 自分の腕を安売りしないほうがいいよ」

 はは、とアガヅマは声を上げて笑った。とても嬉しそうに、そのくせなぜか、少し残念そうに。

 そんな彼の口元に、ニケは自分の吸いさしの煙草を差し出した。帰投したときに彼から煙草を奪ったお返しだろう。アガヅマも当然の顔をして、彼女の煙草を受け入れる。

 僕は嫉妬を自覚する。

 互いの煙草を交換し合う仲を羨んだわけじゃない。それほど信頼し合える相手がいるという事実が、羨ましかったんだ。

 だって空では、自分の腕以外に信じられるものがない。自分と自分の愛機以外を信じるだけの余裕が、今の僕にはない。

 それはつまり、僕がまだ空の初心者だという証拠でもあった。

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