③-2
曇り空の下の地上を歩いて、自分の機体が納められている格納庫に行く。滑走路から数えて二番目の格納庫だ。シャッターが全開になっていた。湿った風が吹き抜けている。
バンシーは、大人しくうずくまっていた。隣にいるニケの機体に描かれた女性の上半身に照れているのかもしれない。
滑らかな曲線を描くバンシーの胴に、整備リフトが横付けされていた。カウルの外れたエンジン部分に、作業服姿の整備士がいた。僕からは、その背中しか見えない。
「君が、バンシーの担当?」
整備士はゆっくりと、まだ蜜のたっぷり詰まったハチの巣から顔を出すクマみたいな速度で振り返って、僕を見下ろした。
僕を出迎えてくれて、ニケと格納庫に消えた彼だった。殺人的な眼が、今はただ眠たそうに細められている。きっとあの時は、地上の昼が眩し過ぎたんだ。優秀な整備士にはままあることだけど、彼らは格納庫の暗がりと溶接のときに散る一瞬の火花を好む。
「まあ」彼は手袋を外しながら頷いた。「他に指名したい整備士がいるとか、俺が気に食わないとかじゃなきゃ、そうなる」
「君しかマークⅢを扱えないって聞いたけど?」
「わざわざ研修を受けに行ってやった暇人が俺だけって話だ」
「じゃあ、他には誰が扱えるの?」
「ニケ」
一瞬耳を疑った。
「ニケって……パイロットの、彼女?」
「子供のころ、飛行機の組み立て工場で働いてたからな」
彼女と僕とじゃ何歳も違わないように見えたけれど、実は結構年上なのかもしれない。
「よろしく」手を差し出す。「君に頼むよ。僕は」
「バンシー」にっと彼が笑った。「ニケから聞いた。三対一で生き残ったって?」
「運がよかっただけだよ。援護もすぐに来てくれた」
「本当に?」
「ちょっとウソ。援護は遅かった。弾、あたってた?」
「いや」彼は首を振ってバンシーの胴を撫でる。「外側は問題ない、綺麗なもんだ」
「じゃあ、どこが問題?」
「シリンダー」
彼は僕を手招きするとエンジン部分に顔を向ける。僕も整備リフトを上って、彼の肩越しにエンジンを見る。人間の内臓に似た複雑な曲線が、鈍く光っていた。
「ここ、左の奥から二つが詰まって固まってる。よくこれで飛んでたな」
「たまに変な唸り声がしたけど、引き継いだ時からそうだったから気にしなかったな。前の整備士もなにも言わなかったし」
けっ、と彼は心底うんざりしたように舌を鳴らした。
「首都の連中がエンジンなんか診るかよ。儀礼用の見た目にしか興味がない奴らだぞ」
「え? 僕、首都にいたって言ったっけ?」
「いや。でも、相手のことを『君』なんて呼ぶのは首都で日和ってる連中くらいだろ」
「首都にいたのは最初の半年だけだよ。次の半年はTAB‐14にいた」
「ああ、首都の二つ隣だろ? 内陸の、防衛線が大きく割られるか、首都で祭りがあるときにしか飛ばないって噂の基地だ」
「それはつまり、僕の腕は信用できないって意味かな?」
「怒るなよ。首都から前線への移動なら大した出世だ」
別に怒ったわけじゃない。ただ、首都にいたパイロットは随分と軽く見られているんだな、って思っただけ。だから三機から逃げ伸びただけでも評価されるんだろう。
「ニケだって『君』って言ってるけど?」
「あいつは女だ」
「アガヅマ」って声が下から聞こえた。よく通る声だ。シャッターの下にニケが立っていた。火の着いていない煙草を咥えている。
整備士の彼が──アガヅマが「おう」と片手を上げた。
「お前の言った通り、シリンダーが死んでた」
「彼女の指示だったの?」
僕は驚いて彼女と彼とバンシーのエンジンとを順に見る。
「違うちがう」とニケは格納庫の戸口にもたれると、煙草に火を着けながら手を振った。「指示なんてしないよ。ただ、さっき上ですれ違ったとき、なんか引っ掛かったから。アガヅマのマークⅢ論ともちょっと食い違った機動だったしね」
「すれ違ったとき? 空で? あの一瞬で?」
「勘みたいなものだよ」
「パイロットは、勘に従う?」
「そうそう」
「君がマークⅢのエンジンが診れるっていうのも本当みたいだ」
「診せてくれるの?」
僕は黙って整備リフトから飛び降りると、場所を空けた。
ニケは一口しか吸ってない煙草をシャッターの隣にあるバケツに放り込んで、小走りに近付いてきた。おもちゃに近付いていいと言われた子供みたいな反応だ。
伝説になるくらいの先輩パイロットなのに、妙に可愛く思えて、僕は小さく笑う。
アガヅマの脇に潜り込むようにして、彼女はむき出しのエンジンに触れた。たとえは悪いけど、華奢な恋人に触れる男みたいに慎重で繊細な手つきだ。
「キャブレターが新しくなったって噂だけど?」
「フューエルインジェクション。キャブとは根本的に構造が違う」アガヅマは彼女に覆いかぶさるようにして、エンジンの一部を指す。「燃料を直接噴射するんでマイナスGにも強い。が、その分、燃料の食い方が激しくて航続時間は短くなった。ここだ」
「マークⅡより?」
「いや、マークⅠより」
「いまどき、わたしを基準にしないでよ」
「俺の本業はお前の機体だ」
ニケとアガヅマの声を聞きながら、僕はシャッターの下まで歩く。水を張ったバケツの中では、ニケに捨てられた真新しい煙草が寂しそうに泳いでいた。それを横目に自分の煙草を取り出し、火を着ける。
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