①-3

「この基地」彼女は基地の一入り口を振り返って肩を竦めた。「駅から出るバスは二時間に一本なんだよ。近隣の基地だって、成績表を運ぶために飛ばせる機体は余っていないと思うし……かわいそう」

「参考までに、一番近い町まではどれくらい?」

「六十キロってとこかな。ちなみに、地上要員が食事に行く店までは二十キロ。基地に一番近いバス停の前に民間の食堂があるんだ。君、地上を移動する乗り物は?」

「前はバイクに乗ってたけど、ここに来る前に仲間に売っちゃったよ。一人乗りの小さいやつだったけど、飛行機には積めないからね」

「首都ってバイクが要るほど広かったっけ?」

「え? 僕、首都から来たって言った?」

「違うの? 言葉遣いでなんとなく、あっちの方面からの転属かと思った」

「首都じゃないけど、首都の近くではあったよ」

「バイク、ね」ふっと短い息を漏らした彼女はフライトスーツの胸ポケットを探った。「パイッロットとしては納得いかないなぁ」

 せっかく飛べるのに、と今度はふともものポケットに手を入れた彼女に、僕は煙草を差し出す。

「でも飛行機は滑走路がなきゃ降りられない」

「ああ、うん」と彼女は曖昧に頷いてから空を仰いだ。「それは、そう」

 一呼吸おいて、プロペラの音が降ってくる。

 彼女はポケットから引き抜いた手を僕の煙草に伸ばして、ナンバー・ワンには相応しくない逡巡を見せてから、手を下ろした。

「ごめん、初心者からはもらわないことにしてるんだ」

「初心者って僕のこと?」

「違うの? マークⅢに乗ってるのは」彼女は僕の機体を振り返る。最新のエンジンを大切そうに一つだけ抱いたやつだ。「配属されて一年半未満のパイロットだと思ったんだけど?」

「……まあね。君は?」

 彼女は顎をしゃくる。

 双発のマークⅠが誇らしげに艶めいている。噂を信じるなら、彼女は五年も前に廃番になった、骨董品同然の機体に乗り続けているらしい。

「確かに」と僕は頷くしかない。「君から見れば、僕は初心者だね」

「だから煙草は貰わない。でも、ありがとう」

「その煙草を貰う貰わないっていうのは、ジンクス?」

「なんの?」

「墜ちないための」

 はっ、と彼女は短く息を漏らした。でも続く言葉はない。

 二人して、空から追い出された飛行機が緩い軌跡で旋回降下してくるのを見守る。

 僕よりも一世代前の単発機だ。パーソナルマークは複雑に線がのたくっていてなにを描いているのかわからなかった。

「あれがウチのナンバー・ワン」

「さっき、援護に来てくれたよね」ずいぶん短くなった煙草を口に運びながら僕は言う。「ありがとう。ちょっと覚悟したんだ」

「こっちこそ、粘ってくれて助かった。連絡入ったのが、ポイントD‐Ⅱを過ぎた辺りだったから間に合わないかと思ったよ。基地の上を抜けられたら、さすがに『昼休みだったんです』なんて言い訳は通用しないしね」

「ちょっと平和ボケし過ぎじゃない? この基地」

「否定はできないけど、連絡の遅れはウチのミスじゃないよ。まあ、ここ、二か月前まではホットラインすら引かれてない僻地だったから、まだ連絡網に載ってないんじゃないかな」

「えっと、つまり」後半の物騒な冗談は聞かなかったことにする。「首都の方からきた僕は左遷ってことかな?」

「栄転じゃない? 戦域が変わってきてるんだ。これからは海上での空戦が主流になる。ここが最前線だよ。おめでとう」

 海、と呼んでいるけれど、正確に表現するならヒノメと敵国ヘルティアとの間にあるのは、湾だ。大きく入り込んだ湾を挟んで延々と、それこそ僕や両親が生れるずっと前から戦争をしている。最初期、ちょうど湾の一番奥で国境を接している二国は、地上で互いの領土を奪ったり奪われたりを繰り返していたらしい。そのせいで、地上の中間線付近は地雷や毒性物質やらで汚染され尽くして人の住めない地帯になっているという噂だ。

 だから、というわけでもないだろうけど、飛行機が開発されてからは戦域を湾上へと移し、相も変わらず互いの領土を狙って攻防を続けている。今じゃ戦車よりも飛行機のほうが多く所有しているって説もある。

 もっとも僕は配属が決まるまで、湾の出口に近いこの基地の存在なんて全然知らなかった。飛行学校も所属していた基地も内陸の、首都近くにあったからだ。

「じゃあ、ここに居るのはエースばかり?」

「さあ?」と彼女は芝居がかった微笑を浮かべた。「いろんな基地から寄せ集めて体裁を整えただけだから、腕はわからないなぁ。一週間前に来たナキってパイロットは優秀だけど、他の……特に地上要員は緊急発進の手順にも慣れてないみたいだね」

「君は? 緊急発進には慣れっこなの? 僕を迎えに来てくれたくらいだし」

「あれは……」

 彼女は言葉を濁して、滑走路をつかむ寸前の飛行機に目をやった。

 小さなバウンドが一度。地上を嫌がる機体を力尽くで滑走路に押しつけるような、乱暴な着陸だった。

 ギギ、とホイールを軋ませてナンバー・ワンの機体は僕らの機体の後ろに並ぶ。

 キャノピが開いて男が降りてきた。肩幅の広い長身の男だ。機体が小さく見える。コックピットで足を持て余すタイプかもしれない。

 彼は僕らを一瞥して、でも空で雲に出会ったときみたいな無表情で視線を逸らし、足早に司令棟へ入っていく。

「個人的な統計だけど」彼女は唇の端だけを小さく持ち上げた。「体の大きい奴にエースはいない」

「それは、彼がナンバー・ワンに相応しくないってこと?」

 彼女は肩を竦めた。肯定なのか否定なのか、僕にはわからなかった。風に煽られた彼女の黒髪がカラスの羽根みたいに翻る。

「キヨミズのお気に入りだよ」

「誰の?」

「ウチの司令官殿。自分の気に入った男を部下にしては喜んでる、嫌な……」

「ニケ」と男の声が彼女の言葉に重なった。「おかえり」

 格納庫の薄闇から整備士が出てきた。ぽう、と彼の咥え煙草の火が明滅する。さっき僕を出迎えてくれた男だ。キャップのつばの下から僕らを見る瞳が、今まさに人でも殺してきたように剣呑な光を宿している。

「ただいま」彼女は彼の唇からひょいと煙草をつまみ盗り、躊躇なく自分の口に運んだ。ようやく呼吸ができた、という様子で深く吸い、大きな紫煙を塊で吐き出す。

 彼も彼で、怒るでもなくため息を一つ。作業着のポケットから新しい煙草を取り出して火を着けた。

 三人して、なんとなくエプロンに並んだ三機を眺める。

「三世代そろい踏みって」ニケが言う。「壮観だね。マークⅢの現物なんて初めて見たよ」

「世間的には、おまえのマークⅠの方が見る機会が少ないんだがな」

 今はまだナンバー・ワンの彼が乗っていたマークⅡのほうが数としては多いけど、いずれ僕が乗っているのと同じマークⅢが主流となるはずだ。

「ちょっと小さくなったの?」

「全長は変わらんよ」整備士の彼はキャップのつばを後ろに回して煙を吐いた。「エンジンがマークⅡとは別物で、軽量化されて細くなってるんだ。そのうち『マークⅢ』って呼び名じゃなく、別の機種名が付けられる。吸気が改善されてて、より高高度での機動が可能になってんだ」

「そうなの? それにしては、ちょっと……」

 言いよどむ彼女を、整備士は「そんなことは」と遮る。

「どうでもいいし、知りたいんなら後で教えてやる。お前のエンジンは?」

「ああ、そうだ。変な息継ぎが二回」

「高度は?」

「低かったよ。雲の下」

「回転数、覚えてるか?」

「一回目は三千、二回目は見てなかったなあ。真正面に敵がいたから」

「油圧と温度は?」

「正常値だよ、たぶん。そんなことより、機銃が凄かった」

「凄いって?」

「トリガーを引いてから弾が出るまでの時間が前の四分三くらいになってる」

 興奮気味に声をはね上げたニケに、整備士は器用に片眉だけを寄せた。

「喜んでもらえて整備士冥利に尽きるが、俺としては好調な機銃より不調なエンジンのほうが気がかりなんだ」

「わたしとしては優秀な整備士の腕を褒めてあげたいんだけど」

「意見の不一致だな」

「担当整備士と意見が食い違ったままじゃ怖くて飛べないよ。とりあえず、コーヒーでも飲みながら次の話をしよう」

 彼女は「じゃあね」と僕にラフな敬礼を投げると、整備士の彼の肘を引っ張るようにして空っぽの格納庫へ入って行く。真っ黒な雷雲に潜っていく二機編隊のようだった。

 僕だけが、明るい空の下に取り残される。静けさが戻ってきた。思い出したように鳥のさえずりが降り注ぐ。指針のない空に放り出された気分で、僕は小さく体を震わせる。

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