①-2

 初めて着陸する滑走路は怖い。風のくせがわからないし、基地によっては滑走路の状態が特殊だったりする。数時間前に給油に立ち寄った基地ではナビゲーションライトが左にずれていて、それを信じて着陸したら危うく滑走路からはみ出しかけた。

 でも、この基地のナビゲーションライトは正確だったみたいだ。少し横風に煽られたけれど、それなりに綺麗に接地できた。

 地上要員の指示に従ってエプロンで停止すると、作業着姿の整備士が一人、ひどく面倒臭そうに近付いてきた。

 シートベルトを外してキャノピを開けた。でも、降機しないでコックピットで彼の到着を待つ。機体の移動先を指示されると思ったからだ。

 主翼の下まで来た彼はキャップのつばの陰から僕を仰いで、「あれ?」って顔で首を傾げた。

「あんた、新人?」

「そうです。今日配属された」

 名乗ろうとしたのに、彼は掌を閃かせて僕を遮った。

「そこに停めといてくれ。戻ったらやるよ」

 誰かが戻ってきたら、なのか、彼が他の用事から戻ったら、なのか、わからなかったけれど素直に頷いてエンジンを切る。

 足首につないでいた脱出バッグを外してから降機すると、彼はもういなかった。

 とても静かな基地だった。人気がないんだ。

 建物の屋根に設置されているレーダーが、雲越しの太陽を受けてぼんやりとした陰を落としている。

 飛行学校へ入る前に通っていた学校に似ていた。あの頃はもう、ほとんどの生徒が軍事学校か戦火の届かない田舎に行ってしまっていて、大人も子供も数えるほどしか残っていなかった。

 長距離飛行と最後の空戦とで疲弊した体を叱咤して、建ち並んだ格納庫の前を抜けた。居住区画とおぼしき辺りへ足を向ける。

 司令室の入っている建物はすぐにわかった。一番大きくて無駄に洒落た窓が設えられている建物だと、相場が決まっている。他には居住棟が二棟と、格納庫が八つ。管制塔と対空機関銃がいくつかある程度だ。前にいた基地よりも小規模だった。

 どこもかしこも、水底に沈められた王宮みたいに寂しげで静まりかえっている。

 建物の二階にある司令室の扉をノックしたけれど、誰も応えてくれなかった。ノブに手をかけてみたけれど動かない。『清水』と書かれたネームプレートだけが僕を睥睨していた。

 仕方なくエプロンに戻る。置き去りにされた僕の機体はまだ、寂しそうに同じ場所にうずくまっていた。

 それを横目に、エプロン脇のベンチに座って煙草に火を付ける。太陽光を遮る分厚い雲に向かって、紫煙が昇っていく。

 鳥が旋回していた。

 危ないな、と思う。飛行機にぶつかったら無事じゃ済まない。お互いに、だ。

 そういえば、さっき助けてくれた二機はどうしただろう? と海の方を見る。木々に遮られて鉛色の空しか見えなかったけれど、聴覚がプロペラの音を捉えた。規則的に、軽やかに、空を飛ぶのが楽しくて仕方がないという飛行機の足音だ。

 でも、一機分しか聞こえない。

 すぐに雲の底から飛行機が生み落とされた。青空を雨で滲ませたような色合いの、双発機だ。僕が乗っているものより二世代も前の機体で、教科書や軍の広報雑誌でしか見たことのない初期型だった。そのくせ妙に心地よいリズムでプロペラを回している。

 緩やかに降りてくる機体の左側に、パーソナルマークが見えた。

 純白の翼を背から伸ばした女性の上半身が描かれている。裸の体には首から上と腕がない。

 ──勝利の女神ニケだ。

 その機体を、それを駆るパイロットを、知っていた。僕だけじゃない。戦闘機パイロットの大半が、その機体とパイロットの噂を一度は聞いているはずだ。

 僕は立ち上がる。最大限の礼節を持って、勝利の女神を出迎える。

 柔らかい翼を持った鳥そのものの振る舞いで、女神の機体が地上をつかんだ。惰性でエプロンまで進み、僕の機体の隣で停止する。

 キャノピが開いてパイロットが飛び降りる。ゴーグルとヘルメットを外して、僕に片手を挙げてくれる。短い髪が汗で束になっていたから、僕から引き継いだ戦闘は激しいものになったようだ。

「さっきはどうも」パイロットが毛先の汗を払いながら言う。「いい腕だね」

「お世辞?」

 僕は失礼にならない程度に少しだけ微笑み返す。

「どうして?」

「君が、ナンバー・ワンだって聞いてるから」

「誰から?」

「みんな。噂してる、TAB‐9の女性パイロットが凄いって」

 パイロットは――彼女は声を上げて笑った。

「そういう噂は八割くらい疑うべきだと思うよ。美人って噂の司令官とか、おいしいって評判のレストラン程度に」

「今まで女の司令官に当たったことがないし、レストランの評判なんて気にしたこともないんだ。君がナンバー・ワンなんじゃないの?」

「オンリー・ワンであることは認めるよ」

「女性パイロットは一人だけ?」

「そう」彼女は片方の唇だけを皮肉につり上げた。「今のところ、ここでは、わたしだけ」

 彼女はヘルメットとゴーグルを左手に持ち直して、僕のために開けてくれた右手を差し出した。

「はじめまして、わたしはニケ」

「ニケ?」僕は手を握り返しながら、彼女の愛機へ視線をやる。「それは、飛行機の名前だろ?」

「同じことだよ。パイロットは飛行機の一部だから。君は?」

「バンシー」

 はは、と彼女が──ニケが笑った。

 僕も笑う。冗談が通じる相手っていうのは心地好い。

 彼女は体ごと振り返る。

 僕の機体の左側には、灰色のフードを目深にかぶって白い髪をなびかせる女性の横顔が描かれている。

「魔女かと思った」

「おかげで前の仲間には嫌われてた」

「どうして?」

「バンシーは死を告げる妖精だから」

「でも胸にキスすれば、三つの願いを叶えてくれるんでしょ?」

「そっちの伝説を知ってる人がいるとは思わなかった」嬉しくなって煙草の煙を空へと送り出す。「てっきり、ここの辺りでもバンシーは嫌われてるのかと」

「どうして?」

「誰も僕を出迎えてくれなかったからだよ。君たちだって、かなりギリギリまで来てくれなかった。ここでは整備士が一人だけ出てきてくれたけど、すぐに居なくなったし」

「ああ、それは」彼女はフライトスーツの上から巻いた腕時計に視線を落とした。「昼休みだからだよ。みんな食事に出てるんだ。それより、君、一機だけ? 見送りもエスコートもないなんて、バンシーは前の仲間に相当嫌われてたみたいだね」

「ちゃんと規則通り、二機編隊で飛び立ったんだよ。でも、僚機が途中でエンジントラブルを起こしてさ。給油に寄った基地で別れたんだ」

 もっとも、僕のバンシーだってあまり機嫌は良くない。宥めながら飛んでいるようなものだ。戦争があまりにも長引いているせいで、物資が足りていないんだ。もはや完璧な状態で飛んでいる奴のほうが少ないだろう。

 彼女は基地の終わりを示すフェンスに顔を向けた。太陽の位置から内陸の基地がある方向だ。フェンスの外に広がる草原が、整然と並んだ林の壁で隔離されている。万が一、基地で火災が起きても延焼しないように防火林が整備されているらしい。

「追いかけてくるかも」

「誰が誰を?」

「君を送るはずだったその人が、君を」

「どうして?」

「君の成績表を君に持たせてるとは思えないから」

 確かに、僕が持っているのは引き継ぎ用の書類が一枚だけだ。

 僕には、紙に記された成績とやらが、わざわざ別の誰かに預けるほど重要なものだとは思えない。自分が前の基地でどう評価されていたかなんて興味もないし、新しく僕と組む奴だって気にしないだろう。

 大事なのは、空でどれだけ生き残れるか、だ。

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