第二話 ニケ

第二話 ニケ ①-1

〈2〉


 彼女と初めて会ったあの日の空は、重たい荷物を背負わされた老人みたいに濁った色をしていた。

 キャノピに照る太陽はフライトスーツを通して皮膚まで焼きそうな強さなのに、眼下に見える雲海はひどく寒々しい白で、たった一機で飛んでいる僕は正直心細さを感じていた。

 プロペラの音が少し湿っていた。操縦桿を握る掌から伝わる振動が不機嫌そうに骨を這い上がる。配置転換のときはいつもこんな感じだ。きっと僕の中に燻る不安を、機体が代弁してくれているんだろう。

 針路と高度、機速を確認して、ついでに飛行時計にも目をやる。順調だ、予定時刻通りに着ける。

 不意にエンジンが拗ねた唸りを上げた。僕がこの機体を引き継いだ時から、このエンジンは回転数が悪いわけでもないのに妙な唸りを上げる。前任者の時からそうだったらしいので、気にしないことにしていた。

 どうせ、あと五分も飛べば通信可能エリアに入る。機体不良が起きたとしても迎えに来てもらえるはずだ。

 通信周波数は、とコックピットに貼ったメモに手を伸ばした時、キャノピに落ちていた太陽の影が揺らめいた。

 素早く見上げる。

 太陽の中に影が二つ。いや、三つだ。ずんぐりとした双発の戦闘機。

 条件反射で機銃の安全装置に指をかけたけれど、理性は無駄だって囁いている。こっちは一機。向こうは三機で上を取っている。逃げるのが正しい選択だ。

 来るか? と思ったときには敵が翼を立てて落ちてくる。機速を乗せてさらに優位に立つ気だ。嫌な奴らめ。

 スロットルを一段叩き込んで逃げを打ちながら無線を開けた。迎撃部隊が上がっているなら援護を頼もうと思ったのに、ヘルメットの中に響いたのは敵の悪口だった。

『ヒノメの新型だ』

『単発機なんて鈍足なだけじゃないのか』

『弱いものイジメは良くないぞ、怨まれる』

『殺した相手が夢枕に立つらしいぞ、ヒノメの伝説だ』

『怪談、だ。怖くて声も出ないってよ』

『無線を閉じてるんじゃないのか? おい、腰ぬけパイロット!』

 下卑た声がひび割れている。大笑いしているらしい。敵国──ヘルティアのパイロットはよく喋る。僕はそれが好きじゃない。

 空は静かに飛ぶものだ。

 舌打ちを一つして、機体の翼を立てる。空を滑り下りながら雲の中に逃げ込んだ。本当は雲の中も好きじゃない。視界は利かないし気流は乱れているし、なにより出口が見えない。いつ敵機の前に放り出されるかわからないなんて、冗談じゃない。

 高度を下げながら急旋回して、見捨てられる前に自分で雲を出る。粘っこい大気に翼端がしなって嫌な線を引いた。

 そのとき、ガンサイトのど真ん中に敵機が落ちてきた。脊髄反射でトリガーを引く。でも安全装置を外していなかった。

 互いに弾かれるような急旋回でかわしてさらに高度を下げる。

 太陽の届かない雲の下に出る。灰色に濁った海岸線が見えた。対空砲が据えられていたけれど、それを扱うはずの人間がいない。ただの鉄の塊だ。

 その向こうに広大な森があった。どこかに僕が配属される基地があるはずだけど、見えなかった。迎撃部隊の影だってない。

 真下に、金属をまき散らしたみたいに輝く海だけがある。

 仕方がない。短く息を吐いて、両膝をコックピットの内側に押し付けて、今度はチャンスを逃がさないように安全装置を外した。

 一度チャンスを逃がすってことは、一回余計に死の危機を味わうってことだ。

 真後ろを振り返って、左右を見て、ぞっと粟立った項を信じてバレルロールを描く。

 一呼吸前まで僕がいたところを敵の弾が抉っていった。

 空戦時の勘は無条件に信じたほうがいい。少なくとも、僕はそうしている。

 すぐにスロットルを絞って、操縦桿を倒しながらラダーペタルを踏みこんだ。スナップで機首を振る。エンジンが嫌なうめきを上げたけれど、かまっていられない。

 なにもない空間に向けて撃つ、二秒。

 滑らかな曲線を描いて飛んだ弾筋の尾が、ちょうど突っ込んできた敵機の主翼にあたった。

 と思うけど、見ていたわけじゃない。放った弾の行方なんて眺めていたら、その隙に自分が撃たれる。一つのものの動きを追うなんて危険なことはしない。目は常に動かしておくべきなんだ。機体と同じで。

 高度を稼ぎたかったけど、これ以上速度を削ぐ行動はしたくない。僕は大人しく海に寄り添うことにした。スロットルを押し上げようか半瞬だけ迷って、やめる。

 燃料があまり残っていない。

 キャノピに水が跳ねた。敵の弾が僕の鼻先を掠めて海を裂いたんだ。

 操縦桿を揺らしかけて、耐える。

 今、動揺して頭を上げたらコックピットに直撃する。僕の血で染まったキャノピを想像して、半瞬で忘れる。ただひたすら海面を逃げる。

 相変わらず耳元のスピーカーは雑言を流してくるけれど、聴いていなかった。背中を伝う汗が冷たい。

 燃料が尽きるのが先か、弾にあたるのが先か、僕が勝ち残るってことはないだろう。この高度で被弾したら、機体は海面に衝突して木っ端みじんになる。僕の死体だって回収できないくらい潰れてしまうだろう。数分もせず、そうなる。

 でも恐怖はない。そんな感情が湧くのは、地上にいるときだけだ。

『そのまま基地へ』

 急に理性的な言葉が聞こえた。え、と驚く間もなく、頭上で炎が炸裂する。

 振り返って、迫ってきた黒い塊にぞっとした。即座にスロットルを押し込む。猛り狂ったエンジンがキャノピを震わせ、急加速する。

 後ろについていた敵機が爆散していた。きっと燃料タンクに直撃したんだ。飛び散る敵機の破片が、機銃の弾よろしく僕を追って来たらしい。

 援護位置に陣取っていた敵機が急旋回で逃げに転じている。そのはるか頭上に、黒い点が二つ見えた──単発機と双発機の二機編成だ。

『引き受ける』

 単発機のほうが、墜落みたいな速度で下りてくる。その尾翼に見慣れたマークがあった。味方機だ。

「エスコートが遅いよ」

 でも、よろしく、と言って僕は離脱する。

 バックミラーの中で、敵機が零れたインクみたいな黒煙を引いて海面に呑み込まれていった。首を捻って後方上空を確認すれば、よたよたと飛ぶ最後の一機がいた。たぶん僕が主翼を撃った奴だ。

 味方の二機が悠々と追いかけていく。それを見送らず、僕は顔を前に戻す。じっくりと舵を引いて高度を上げた。

 はは、と掠れた笑いが漏れた。ざまあみろ、と無線に拾われないくらいの声量で囁く。

 森の向こうに、灰白色の滑走路がみえていた。僕はそれを、太古に滅びた巨大生物の背骨みたいだと考える。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る