⑦

 アガヅマは眉間にしわが寄るくらいきつく眼を伏せて、細長い息を吐いた。それからゆっくりと、でも浅いところで呼吸を三度して、「昔」と掠れた声で言う。

「どんな字を書くのかって、訊かれたからな」

「字? スペルじゃなくて漢字?」

「そう」とアガヅマは妙に幼い語調とともに、苦笑した。「ヒノメの、古い字で」

「信じられない」

 彼の話が、じゃない。漢字での表記に興味を示す人間がいたってことがだ。

 この国が独自の文字と文化を持っていたのは百四十年も前だ。ヘルティアが攻めてきたとき、隣国のタルヴィングと同盟を結んで先端技術を分けてもらったかわりに、気がつけば言語も習慣もすっかりタルヴィング色に染まっていたって話だ。百四十年前なんて僕たちの親はおろか祖父母だって生まれていない時代の出来事だから、ヒノメの独自文化なんて言われなきゃ思い出せないくらいに存在は薄い。

 それにしたって、同盟って名前の属領になり果てた挙句ヘルティアとの戦争にはいまだに決着がついていないんだから、ヒノメは組む相手を間違ったと思う。

 でも、まだ辛うじてヒノメ独自の文化や、ヒノメ由来の名称は残っている。漢字だって、公式文書では遣う必要がなくなっただけだ。書ける人は一定数存在するし、ヒノメの血統を誇る人たちは子供の出生届に漢字を併記したりもしている。僕だって一応、自分の名前くらいは漢字で書ける。

 だから、彼女やアガヅマが漢字をたしなんでいたって不思議じゃない。でも、それにしたって、わざわざ名前の字を尋ねるなんて、ずいぶんと熱心な愛国者だ。

「俺だけ教えるのはフェアじゃないからお前も教えろって言ったら、訊き出すのに三日かかった。しかも、呼ぶなって条件までついてきた」

「どうして?」

おのれの神って尊大な名前が恥ずかしいって。それなら俺はどうなる? が妻だぞ?」

「奥さんが喜びそうだね」

「あいつも、おんなじこと言いやがった」

 くそっ、とアガヅマは忌々しげに唾棄した。まるで、つい数日前に揶揄われた、といわんばかりの反応だ。きっと彼は理解とは別のところで、彼女が半年経っても帰って来ていない、とい事実を否定しているのだ。

「ひょっとして、この基地の全員に名前の字を訊いて歩いたのかな」

「さあ? 知るかよ、そんなこと」

 ウソだ。彼はきっと、彼女が仲間の名前を収集していたかどうかを知っている。でも、その事実を僕に知られたくないのだろう。たぶん、自分がそれほど彼女に執着していたと、思われたくないのだ。こんなにもわかりやすいのに。

「君だけってわけじゃないけど、この基地の人たちって、ひねくれてるよね。名前も性格も」

「司令の趣味だろう。アツジだって字は簡単だが読み難い」

 頷いた。アツジは僕の同室者だ。初めて部屋のネームプレートを見たとき、正直に言えばなんて読めばいいのかわからなかった。彼の性格だってお世辞にも素直とは言えない。この基地に配属されて以来ずっと、地上でも空でもアツジと組んでいるけれど、彼の捉えどころのない話し方にはいまだに惑わされる。

「僕は小鳥が遊ぶって書くんだけどさ、そういえば、字を訊かれたことってないかもしれない。鷹がいなければ鳥は自由に遊べるから、タカナシなんだって。みんな、どうしてか僕のことは……」

「小鳥遊」

 口元を緩めたアガヅマが僕を、タカナシ、と──バンシーという飛行機の愛称ではなく、人間の名前で呼んだ。

 そんなこと初めてだったから、驚いて彼の顔を見た。笑うところかな? って思ったからだ。けれど、彼は真剣だった。少なくとも、そう見える表情だった。

「今、自由か?」

「どういう意味?」

「あんたにとっての鷹は、誰だ?」

 アガヅマの揶揄めいた抑揚が表情を裏切っている。彼の眼光に近しい険しさで、僕の喉を圧迫する。

 答えられずに、僕は指に挟んだままの煙草に視線を落とした。薄く煙が上がっている。墜落する飛行機の軌跡みたいに頼りなくて、美しい螺旋が見える。

「バンシー」

 今度は僕が駆る飛行機の、僕に馴染んだ名前で呼ばれた。

 それなのに、アガヅマは僕を見ていなかった。顔を伏せて新しい煙草に火を着けるところだ。一瞬だけ揺らいだ炎の朱に、嫌なものを思い出しそうになる。

 アガヅマの吐く煙が、朝霧みたいな不思議な色をしていた。彼女の──ニケのマークⅠと同じ色だ。そう思いたいだけかもしれない。

「バンシーは死を告げる妖精、だったか」

 独り言の抑揚だったけれど、僕は頷いた。アガヅマには、俯いただけだと思われたかもしれない。スニーカーの先に落ちた灰は、コンクリートと同じ色で擬装する。

「胸にキスをすれば三つの願いが叶うって伝説もあるよ」

 言い訳みたいに、囁いた。そして小さな声で、笑う。だって僕もアガヅマも信じていないし、きっとニケだって信じていなかった。

 アガヅマは笑わなかった。ひゅう、と喉を鳴らして彼は煙を吐く。高高度から仲間の死を見下ろしていた雲に似た紫煙が備品室の電球を濁らせる。

 今日は風が強かった。

 でも彼女なら、きっときれいに飛べただろう。エンジンに頼り切って必死にならなくても、風の声を聴いて翼を立てて、美しく。

 そう思って、彼女の軌跡を思い描いてしまった自分自身に舌打ちをして、僕は煙草を床に落とした。スニーカーで踏みにじる。

「片付けとけよ」アガヅマは自分のことを棚に上げて「ここは禁煙だ」と嘯く。

 そのまま僕を押し退けて部屋を出ようとする彼を、「アガヅマ」と呼びとめる。

「ん?」と顔だけで振り返った彼の口元で煙草の火が蛍みたい瞬いたのには気づかないふりをした。

「ニケが好きだった?」

 アガヅマは顔を戻して煙を吐く。一回だけ、でもかなり長い時間をかけて。古い記憶を探っているようにも、言い訳を考えているようにも、言葉を探しているようにも思える沈黙が混ざっていた。

 彼は煙草を挟んだ手を伸ばして壁のスイッチを切った。電気が消えて漆黒になる。

 いきなりだったから目がついていかない。

「好きじゃない」

 ぼんやりと明るい方向から彼の声がした。天国の入り口みたいだ。

「どっちかっていうと、嫌いだった。あいつは、人の気持ちを知ってて知らないふりをするのが巧かったからな」

 子でもだって見抜けるウソだ。当時の二人を見ていれば、わかる。

 ああ、でも、そうじゃないのか、と僕は息を吐く。二人の間にあったのは好きとか嫌いとかじゃなくて、執着と信頼だったのかもしれない。

 だから僕は「そう」と頷いた。頷いてあげなきゃいけない気がしたからだ。


 格納庫の中を見たくなかったから、裏口から宿舎へ戻った。部屋ではアツジが本を読んでいた。ベッドで寝そべった広い背中に、声をかけようかな? と一秒だけ思ったけれど、結局やめた。余計なことを口走りそうな予感がしたからだ。

 壁に向き合うようにベッドに寝転んだ。冷えたシーツは少し湿っぽい臭いがした。雲に潜ったときのコックピットに似ている。頼りなくて、でも神サマってやつの手で包まれているような妙な安堵感を覚える。

 深く吸い込んで、目を閉じる。

 アルコールも薬も飲んでないのに酔い心地がした。脳だけが取り出されて空に浮かび上がるイメージだ。

 自由にどこまでも飛んでいけるんだと錯覚する。燃料だって気にしない。きっと、天国にだって行きつける。

 僕は考えることをやめて夢の中を飛ぶ。できるかぎり滑らかに、エンジンを切っても浮かんでいられるくらい風を読んで、美しく飛びたい。今なら、できる気がした。

 たぶん、彼女が飛ぶ空だから。昔、彼女がそうやって飛んだ空だからだ。

 夢だとわかっているのに泣きたくなった。排気ガスの匂いが混ざった空気の甘さが懐かしくて、嬉しくて、とても嫌な夢を見る予感がした。

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