⑥
湿った土の匂いがする階段をおりて備品室の扉を開ける。裸電球が寝ぼけた光を放っていた。僕にとっては薄暗い。
アルミのバケツが僕の足元で跳ねた。穴が開いていないのが不思議なくらい側面がひしゃげている。炸裂音の正体だ。
そして部屋の中央には、アガヅマが立っていた。拳を握って、僕に背中を向けている。整備士たちを震え上がらせたのは、彼が鉄板入りの安全靴でバケツを蹴った音だ。
「備品に八つ当たり?」振り返りもしない彼に、僕はため息を吐く。「どうせなら、本人を蹴ればよかったのに」
「女を?」
「彼女に苛立ってるんだろ?」
「パイロットだぞ?」
「バケツより丈夫だと思うよ」
「バケツなら安い新品を入れりゃそれで終いだ。あんた、パイロットの養成に国がいくらかけてるかわかってるか?」
「少なくとも、君は人を本気で蹴ったりしないよ」
はっとアガヅマの背中が笑った。皺だらけの作業着のあちこちに黒いオイルでスタンプされた手形が散っている。整備士たちはみんな、作業着を手ぬぐいだと勘違いしているらしい。
僕は部屋には入らず、声だけをアガヅマに投げる。
「女性パイロットが嫌い?」
「前にもいただろ」
「じゃあ、機体の色が気に入らない? それともマークⅠだから?」
ようやくアガヅマが振り向いた。太陽光の届かない平和な薄暗さなのに、彼の目はゾッとするくらい鋭かった。
こんなに尖ったものは、地上じゃ珍しい。
でも、僕は彼のこういうところが意外と気に入っているんだ。空にある、凶暴な風とか敵の機首とかを思い出させてくれるから。
「アレは」アガヅマが唸った。「あいつの、後釜だ」
僕は口元を緩めて、声が震えないように注意して、囁く。
「あいつって、誰?」
アガヅマは細く息を吸って、でも言葉になりきらないため息で「ああ」と呻いた。空気に混ざっていた毒に喉をやられたみたいなひどい声だ。彼は頭を振ると、かわいそうなバケツを器用につま先で立たせて煙草に火をつける。
その手が震えていたことには、気づかないふりをした。かわりに、大きく息を吐く。話題をきりかえるよって合図だ。
安心したみたいにアガヅマは顔を上げた。
でも、ごめん、と僕は内心で彼の無防備な顔に謝る。そして切り込む。
「オノガミって、知ってる?」
アガヅマの唇から煙草が離れた。慌てて受け止めようとした素手に火が跳ねて「あつ」って悲鳴と舌打ちの中間の声を上げて、彼はそれを床に落とす。
跳ねて転がり、オイル缶にぶち当たった彼の煙草を、僕の手が拾う。彼がこんなに慌てるところなんて初めて見たから、つい笑ってしまった。
「アツジだって知らなかったのに、君は知ってるんだ」
なにを、とは言わなかった。アガヅマだって、なにを、とは言わない。僕が救出した煙草を取り返すことさえ忘れて、アガヅマはただ震えた呼吸を繰り返している。
オノガミ──ニケ。僕らにとっての彼女はずっと、彼女の飛行機の愛称と同じ名前だった。
そして、僕にとってそうであるように、彼にとっても彼女がいなくなったことは大きな傷なんだ。半年経ってもまだ癒えない、スパっと切れた治りやすいやつじゃなくて、普段は気づきもしないのに不意に存在を主張するように膿んだり痒くなったりする擦り傷とか打撲とかに近しい傷だ。
僕らは彼女の不在を認めていない。アツジの言葉を借りるなら、彼女は現在進行形の亡霊だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます