⑤
煙草を落として踏み消す。後でアガヅマに怒られるかもしれないけれど、格納庫を覗いてまでバケツに吸殻を入れる気にはなれなかった。
最後の紫煙を腹の底から吐いて、ゆっくりと壁から背を離す。
見上げた空は相変わらずの荒れ模様で、高いところにある雲と低いところのが別の方向に流れている。鳥だって飛んでいない。
司令棟のほうから整備士が一人歩いてきた。手にファイルを持っている。
「入らないんですか?」整備士がファイルで肩を叩きながら首を傾げた。「アガヅマさんならもう戻ってますよ」
「ああ、うん」僕は曖昧に頷いた。「なんか、変な幻が見えて」
整備士は首を伸ばして格納庫を覗くと、「ああ」と納得顔だ。肩からファイルをおろして数字がたくさん印字されたページをめくる。
「まだ飛べる機体があるなんて思ってませんでしたよ。部品だって製造中止のものばっかりだ。俺、アレの現物見るの初めてなんです。学校にはエンジン部分しかなくて」
タカナシさんは? と訊かれて、僕はやっぱり曖昧に「うん」と頷いた。無難な返答を考えて、でもそんな必要なんてないんだって気付くのに一呼吸もかかる。
墜ちていった仲間が、僕の思考回路の一部まで道連れにしたのかもしれない。
「昔、アレに乗ってた人がいたよ。あんな色じゃなかったけど」
「へえ、マークⅠに? ここの基地の人ですか?」
「半年くらい前だけど」
「今は?」
僕は足元でくたばっている吸殻に目を落とす。
彼はその視線を正確に読み取ったらしい。「ああ」って唸ると、もうなにも言わずにファイルを閉じた。
敏い奴は嫌いじゃない。
彼に続いて、僕も格納庫に入る。雨の朝みたいに冷えた空気の匂いがした。
なのに、そこにある赤は空に対して失礼なくらい愚鈍で汚れている。
深く、でも音をたてないように慎重に呼吸をした。怯えている子猫と同じだ。カウルまで赤く塗られた脚からそろりと視線を上げていく。
胴の両側にエンジンを抱えた、時代遅れのマークⅠ。
キャノピのラインが艶めかしく整備士たちを誘っている。隣町のバーにときどき現れる商売女の口紅みたいだ。機体の愛称にちなんで描かれるパーソナルマークは、見えなかった。僕が機体の右側に立っているからだ。
見たいな、と思ったけれど、同じくらい見たくないとも思った。
だって、もし彼女と同じだったら──。
想像しただけで、喉に石でも詰まったように息が上がった。
同じマークだったら、どうするだろう?
僕は自分の手を見た。機銃を撃つ手だ。ひょっとしたら衝動に負けた僕の手が勝手にそのマークに銃弾を撃ち込んでしまうかもしれない。それが『彼女』への礼儀だと錯覚した子どもみたいに。
整備士たちの声がやけに遠くから聞こえる。本当は飛行機一機分の距離しかないけれど、天井が高いから無駄に反響して遠く聞こえるんだ。
「このパーツ、マニュアルと違うぞ?」
「もう製造されてないんでマークⅡのを流用したらしいですよ」
「大丈夫なのか?」
「アガヅマさんが大丈夫だって言ってたから大丈夫だと」
思いますよ、と続く声が、ガッ、とキャノピに被弾したような物凄い音に掻き消えた。
敵襲か、と全員が体をこわばらせて外をうかがう。
沈黙が五秒。
でも、いつまで待っても警報はおろか、爆撃機のエンジン音や戦車の走行音だってしない。さらに三秒も耳を澄ませたけれど聞こえたのは風と遊ぶ雲の唸りだけだった。滑走路には影の一つも動いていない。
整備士たちと顔を見合わせて、「なんだったんだ?」と首を傾げる。
音っていうのは聞こえた一瞬が勝負だ。後から確かめようと思っても、もう本当に音が存在したのかなんて誰にも証明できないんだから。
幻聴だったのかも、って思い始めたとき、扉の開く音がした。
格納庫の奥、まったく無警戒の方向だったから息を呑む。整備士の一人は「ひっ」なんて情けない悲鳴まで上げた。
整備士たちの控室や倉庫に続く扉を開けたところに、誰が立っていた。
体の線の細さにドキリとしたけれど、瞬き一つで落ち着いた。落胆した、って言ったほうが正しいのかもしれない。とにかく冷静にはなった。
女性だ。制服の襟に飛行資格を持っていることを示すバッジがあった。でも前髪が顎まで伸びている。髪で視界を遮るなんて、到底パイロットのすることじゃない。
「あ」と彼女が半歩下がる。入ってきたことを咎められたと思ったのか、どうしてこんなに注目されているのかわからないのか、そのどちらにも見える表情だ。
「ああ」整備士が安堵の息を吐いた。「コレのパイロットですよ」
僕は答えなかった。頷きさえしなかった。ただ、視界から血色の機体を追いだして、彼女の長い髪と制服のスカートから伸びた白い足を順に見る。
大丈夫、落ち着いていられる。
薄く唇を開けて空気を吸い込んだ彼女が声を発する前に、僕から訊く。
「アガヅマは、裏?」
「え?」と目を見張った彼女が首を振った。追随した髪が別の生き物みたいにうねる。「下に」
それだけで十分だった。
僕はもう一言だって彼女に喋らせないように視線と呼吸の配分に注意を払って、彼女の隣をすり抜ける。
「あの、わたし……」
背中から声がしたけれど、ちょうど激しい炸裂音がしたから消えてくれた。さっき格納庫で聞こえた音だ。今はもう、正体がわかる。
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