④

 廊下は相変わらず暗かったけれど、窓から伸びる太陽の手が痛いくらいに僕を包んでくれた。

 階段をおりる途中の踊り場でアツジが待っていた。煙草を咥えているけれど火はついていない。とても珍しいことだ、彼が誰かを待っていることも煙草に火をつけていないことも。

「ウンリュウの具合は?」

 僕は少し歩調を緩めて訊く。

 アツジは制服の胸ポケットから煙草のパッケージを僕に差し出しながら曖昧に頷いた。

「ダメかもな」

「え」思わず伸ばした指が止まる。「尾翼だけじゃなかった?」

「損傷の程度は関係ない。そろそろマークⅢに乗り換えないかって司令に打診されてたんだ」

「ああ、そういうこと」

 僕は唇の端で笑って煙草を貰った。アツジのライターを二人で共有して火をつける。

「先輩として、なんかアドバイスは?」

 アツジがニッと唇をつり上げた。

 彼のほうが僕よりも長く空にいるけれど、マークⅢにかんしていえば僕が先輩だ。でも、大きな問題がある。

「僕はマークⅡに乗ったことがないから、アドバイスのしようがないよ」

 アツジはきっとその答えを予想していたんだろう。黙って頷くと煙を吐いた。

 一階の談話室には他のパイロットがいたから、どちらからともなく外へ出て壁にもたれる。

 風が生温かく湿っているから雨が降るのかもしれない。

 灰皿を探したけれど見当たらなかった。僕はまだフライトスーツを着ていたから携帯灰皿だって持っていない。

 仕方がないから、灰は風の中に紛れ込ませることにする。

 フライトスーツにはたくさんのポケットがあるのに、煙草はともかく灰皿を仕込むべきスペースが確保されていないっていうのは理不尽だ。

「情報局の人間だ」

 アツジが急に呟いた。ふわりと上がった煙を睨む彼の瞳が、ほの暗く揺らいでいる。

「さっきの?」

「所属バッジがなかっただろう」

 頷きながら、よくあの短時間で気がついたな、と素直に感心した。さすが、ナンバー・ワンだ。

「今さら」アツジが煙と一緒に吐き捨てた。「ニケ、か」

 僕は黙って雲を仰ぐ。

 地上とは逆向きに風が吹いているのがわかった。かなり速い。高度によって雲の流れる向きが違うから、ひいき目に見たって四機も帰ってこられたのは上等だと思う。

 彼女なら、と考えて、やめた。もういない人間の飛び方を考えるなんてナンセンスだ。

「僕は」誰かに聞かれるのを恐れる声音で、囁く。「ニケに憧れてた」

「たいていのパイロットはそうだ」アツジは煙と一緒に笑う。

「君は違った」

「俺だって最初は憧れてたさ」

「どうして嫌いになったの?」

「あいつは壁だ」風に乗った灰が滑走路のほうへ飛んでいった。「手が届かない場所にあるくせに俺たちを遮る、絶対に越えられない壁だ。壊すか、勝手に壊れてくれるかしないことには、俺たちがその向こうを見ることはない」

 うん、と僕は声を出さずに頷いた。

「ニケは、凄かった」

「現在進行形だ」

「過去形だよ」

「まだ、誰もあいつを超えてない」

「いずれ超えるよ」

「あいつは亡霊だ」

「彼女はもう、いない」

 アツジが吐いた煙が雲に手を伸ばして、でも嫉妬深い風にあっさりと消された。

 僕は灰を落として、呟いた。

「今さら、だよ」

 彼は答えなかったけれど、それでよかった。僕を惑わせるなにかさえ言わなきゃ、それでいい。

 煙草を足でもみ消して、僕は宿舎に戻る。背中から煙草の匂いが追いかけてきたけれど振り返らなかった。

 たぶん、怖かったんだ。


 シャワーを浴びて制服に着替えてから、格納庫に行った。

 途中で立ち寄ったエプロンには燃料が漏れだしたままの仲間の機体だけが取り残されていて、着陸する前に見えた血色の機体は見当たらなかった。

 あんな目立つものをどこにやったんだろう? と思っていたら二号格納庫の左側、つまりバンシー僕の機体の隣にうずくまっていた。

 幻覚じゃないかなと思って、幻であってほしいとも願って、格納庫には入らずに壁にもたれて煙草を咥えた。

 吸い終わるまでに、あの機体が紫煙みたいに風に乗ってどこかにいっていればいいのにって思う。妥協するなら灰が残っていたっていい。

 隣の格納庫からは溶接の音がしていたから、きっとアレスは明日にでも飛べるようになるだろう。ちょっとくらいの損傷なら数時間で直してしまえるのが飛行機の、そして整備士たちの凄いところだ。

 人間はそうはいかない。

 たった一発の弾だってあたりどころによっては、というか大抵は、病院よりも天国にいる。運よく生きていたって飛べるようになる確率は低いし、空に戻れないことに絶望して自殺してしまった仲間も結構いる。

 そう考えれば、ニケは幸せだったのかもしれない。彼女は出撃して、それっきりだ。

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