ジンライム

 とは、ハードボイルド小説の金字塔『長いお別れ』に出てくる言葉だが、ギムレットというカクテルは酒カス共がジンを飲み続けているのを見かねた医者がライムジュースを割って飲めと言ったのが始まりとされている。故に、今でも酔い醒ましの一杯として飲まれている。どうもライムとは現代で例えるとウコンみたいな扱いだったのだろう。だから、レイたんにカクテルを飲もうと提案したのは、このライムで酒を割ればマシになるだろうとの思惑からだ。

 このギムレットと同じくジンとライムジュースを割ったカクテル、ジンライムが彼女との別れの酒だった。


 自分が彼女と一緒にいたのはセックスしたかった、という明確な理由があったのだけれども、レイたんが私と付き合っていた理由は最後までわからなかった。

 出会って半年ぐらいたった頃だったと思う。私の部屋にレイたんはあまり来なくなった。流し台には乾いた魔法瓶が置かれていた。

 レイたんは週に一回来れば良い方で、私の部屋に来ると相変わらず冷蔵庫を勝手に開けては酒を取り出す。

「マーくんも飲もうぜ」

 と言うものだから、私はシェーカーを取り出してギムレットを作った。この時はとにかくギムレット。私はひたすらギムレットを作っては飲んでいた。ジンとライムジュースをシェークするだけの定番カクテル。

「またギムレット?」

「これは俺の分」

 というのがこの時の定番のやり取りで、当然の如く私の酒は奪われたのだが、ここでは置いておく。

 この日も私は煙草の紫煙を燻らせ、煙で歪んだ視界でレイたんを見つめていた。相変わらず胸は育つ気配すら無い。

「私のこと本当に興味無いんだね」

「突然なにを言い出すかと思ったらそんなことかよ」

「だって、私がここに来なくなった理由を一切聞こうとしないじゃない」

「お前が来なければ、ゲボを掃除しなくて良いからな」

 と、珍しく意味ありげな会話をした気がした。言い訳では無いが、レイたんがこの部屋に来なくなってきた理由が気になっていなかったわけではない。

 これ、と声を出しながらレイたんは右拳を私の胸板に突き刺した。ドスッと芯に響いた。

「痛いな。何だよこれ?」

「ライブのチケット。私も出るの。買って」

「金を取るのか……」

「当たり前でしょ」

 レイたんの胸板に顔を当てた。痛い。骨が当たる。

「いくらなの?」

「五千円」

 はぁ、今月どうやって生きようか。と頭を悩ませながらレイたんの胸をまさぐって押し倒した。


 爆音が鳴り響く半地下のライブ会場の一番後ろの片隅で居心地悪く立っていた。

 音楽なんてわからない。しかし、元来の貧乏性が買わされたチケットを捨てることを拒んでしまった。

 気分は最悪であった。あのチケットは入場料で酒も頼まなければならなかった。無駄金がまた飛んでいく。気分は沈む。会場の熱気とは反対に気持ちは冷えていった。

 曲が終わったのか、舞台上のバンドが叫ぶ。そんな必要があるのかと私は呆れながら手にしたジンライムを軽く煽る。興奮した観客はもみくちゃになっており、女の乳房は歪んで潰れていた。

 私は安物の酒と偽物のライムジュースで喉を潤した。煙草が吸いたくなる。どうせバレねえだろと思って煙草を咥えて火をつけた。煙草を吸っていたら、舞台上のバンドの演奏が終わりはけていく。入れ替りで次のバンドの準備を始める。

「あ、○○くん?久しぶりじゃん」

「お久しぶりです。久斗さん」

 声を掛けてくれたのは、レイたんと初めて出会った飲み会に参加していた友人の先輩だった。この業界では珍しく人間が出来ている、という友人の言葉通りのイケメンだった。

「まさか、○○くんとライブ会場で会うとは思わなかったよ」

「え~と、△△さんにチケットを貰いまして……」

 と、社交辞令を交わしながら煙草を背中に隠した。

「ああ、△△なら次出て来るよ」

 と、久斗さんは言った。思わず舞台を見る。レイたんが舞台の中心に陣取っていた。

 いつも通りの服装で、いつもと違う化粧をしていたレイたん。まるで男性ボーカルのような出立ちで軽くバンドメンバーを見回す。

 私は煙草を床に落として舞台上のレイたんを睨んだ。人垣の先に立つ彼女が手を上げると、ドラム演奏が始まった。

 バスドラムとスネアドラムの重低音。4小節それが続いて、レイたんが吠えた。歌ったと表現するにはレイたんの声は強すぎた。その声と共にドラム、ギター、ベースの音が重なる。会場全体が振動する。

 私は目が離せなかった。ライトを浴びてこの空間を支配するレイたんの姿に息をのんだ。

 ギターソロが始まった。レイたんが私を睨み返してきた気がした。ジンライムを飲み干してからレイたんを改めて睨んだ。


 ライブが終わり、私は楽屋に誘われた。しぶしぶ出向く。

 道化師の楽屋とは真逆だな、と私は思った。次に、半裸のレイたんを見て、絶壁だな、と思った。

 私が楽屋に入って挨拶をしなかったのは、私が礼儀知らずであることよりも、レイたんがえずいていたからだ。光輝く舞台の上で、誰よりも輝いていた人間の舞台裏は雑然としていて汚かった。

 正直、私はレイたんの様子は見慣れていた。酒の飲み過ぎか、酒が切れたのか。できれば後者であって欲しいと思いながら、私は

「お疲れ様でした」

 と、極めて平静な声を出して部屋の中央に歩いてレイたんを見下す。

 うぇ~うぇ~、とえずいている。蹴りたい。しかし、脚は片膝を着いて腕がレイたんの背中をさすっていた。

「酒が切れたのか」

 と、小声で聞いた。

 ぶるぶると首を振っている。

「あんたが○○か?」

 と、バンドメンバーの1人が言った。

「そうですが」

 と、答えてしまった。

「△△はいつもこうなるんですか?」

 と、思わず聞いていた。

 そうだよ

 と、誰かが答えた。

 酒を飲ませれば良いのに

 と、私は思ったので実行した。

 魔法瓶を取り出して中身をコップに注ぐ。中身は、ジンとライムジュースと氷を入れていた。

「ギムレット?」

 と、掠れた声がした。

「ジンライム。ギムレットとは違う。違う酒なんだ」

 と、私は答えてそれを飲ませた。

 

 ライブ以降、私はレイたんを避けるようになった。光輝く舞台に立つ人間は恐ろしかった。だから、バイトを増やして就活も真面目にやった。

 酒を断った今となっては、あの声も顔も思い出せないのだけれども、安寧を覚えた絶壁の胸だけは今でも鮮明に思い出せる。あの胸だけは最後まで愛していたからだと思う。

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カクテル・バディ あきかん @Gomibako

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