第16話 「良心」という液体
だが、ロドリゴは混乱しながらもその思考を止めることにした。
なるべく冷静さを取り戻そうと試みる。
今は一刻も自分の体に何が起こっているのか、見極めなければいけないのだ。
そう思うとロドリゴは深呼吸をし、すぐに気持ちを落ち着かせることにした。
そして台所から空の小瓶を見つけると、その小瓶に涙を入れ始めた。
小さな雫が少しずつ小瓶を満たす。
こうやって涙を口に入れない限りは安全なようだった。
小瓶をすっかり満たし終わるころには、ロドリゴの涙も落ち着いていた。
それを確認すると、ロドリゴは紙と万年筆を取り出し、わかっている事実を書き出した。
それはロドリゴが受けた呪いの内容を整理し、今自分に起きている出来事を分析するために必要なことだった。
この呪いの重要な
多くの場合、不老不死とは「心抜きの儀式」後に、能力として与えられるものだ。
ロドリゴの知る限り、それ以外に不老不死を得るにはかなりの苦労が必要になる。
賢者の石などの入手困難な「聖なるもの」を使う必要があるからだ。
しかしこの呪いを受けたとき、ロドリゴは「聖なるもの」が使われたようには見えなかったことを覚えている。
ロドリゴは薄々このことは気づいていたが、今までわざわざ解明しようとは思わなかった。
たどり着くであろうその呪いの真相は、直視したくない現実であることが、なんとなくわかっていたからだ。
そう、あの魔法使いがロドリゴにかけた不老不死の「呪い」の言葉はきっと闇の魔法使いの「心抜きの儀式」の言葉なのだろう。
ロドリゴは、おそらくあの時「心抜きの儀式」を強制的に受け、知らないうちに「闇の魔法使い」になってしまったのだ。
ロドリゴはその事実に頭を抱えた。
闇の魔法使いは、ロドリゴにとって一番なりたくない悪の存在そのものだったからだ。
(…しかも、俺は無自覚に魔法を使っていた可能性がある。
今までずっと魔法を使って物語を書いていたのだ。
昔から不思議で仕方なかった。
俺が書く物語を読む人々はなぜ必ず涙するのか。
俺が選び紡ぐ言葉たちは、人の感情に響きすぎるのだ。
きっとそれはその言葉たちが魔法を帯びていたからなのだろう。
そうでなければ、このような言葉の違う異国で、多くの名作を打ち出せなかったはずだ。
そう納得する自分もいる…)
だがロドリゴはまだ真の闇の魔法使いのように、完全に良心を抜かれたのではないと同時に思った。
ロドリゴにはまだ倫理観があったからだ。
(あの呪いを受けたとき、俺からは何も出るものはなかった。
「心を抜いた」のであればあいつと同じように「良心」という液体が体から出てくるはずだ。
だから、きっと俺はあいつに心を閉じ込められたのだろう。
だからこそ、おれは「化け物」でありながら「人間」であろうと必死に足掻いていた。
俺は「化け物」にも「人間」にもなり切れない、中途半端な存在なのだ)
ロドリゴはだんだんと冴えわたってくる頭を全力で働かせた。
それにつられて、万年筆を持つ手も素早く動く。
ロドリゴはおそらく重要な秘密が隠れているであろう記憶を蘇らせていた。
かつてロドリゴが殺人のために、古い枯れた井戸に梯子をかけてその底へと降りて行ったあの時。
薄暗い、あの湿気った土に刺さっている蓋をされたひとつの小瓶があった。
少年のロドリゴはそれを拾うと、小瓶についた土を軽く払い、遠くに見える光に透かした。
そうやって冷静に観察していたことを、今でもありありと覚えている。
それは間違いなくあの闇の魔法使いの「良心」だった。
(そういえば、あいつの良心は「水に近い液体」だった。
あの液体の香りはすこし塩気がある、なんとも生き物らしい匂いをしていたことを覚えている。
透明で、塩気がある、自分から出てくる良心という名の「液体」…)
ロドリゴはそう言われて思いつくものは、一つしかない。
(…あれはきっと【涙】だったんだ。
闇の魔法使いが「良心」と呼ぶもの。
それは【涙】として外に出されるのだ。
だから、俺は泣いた。
閉じ込められていた心が感動することで解放されたからだ。
その心にあった「良心」は、闇の魔法使いのこの体に居続けることができない。
俺の「良心」は今さっき【涙】として体の外に出されたのだ。
そして、この体は、一度出した涙を再び体へと戻せない。
「良心」を呑むと、拒否反応のように闇の魔法使いの体は死への準備を始めるからだ。
この【涙】は俺にとって、俺を死に至らしめる唯一の弱点になった)
ロドリゴはあらかた書き終わると、万年筆を置いた。
そして、自分の手元にある涙が入った小瓶を見つめた。
この小瓶に入っているものは間違いなくロドリゴの「良心」であった。
ロドリゴはその小瓶をしっかりと蓋をした。
漏れないことを確認しようと、何度も小瓶を揺らす。
たぷんたぷんと小瓶の中の水が揺れるのを、ロドリゴは静かに眺めた。
(まさか、俺も「心抜き」をしてしまったとは…)
ロドリゴは静かに深く長い息を漏らした。
座りながら、顔を上げ天井を仰ぐ。
ロドリゴがいま確かに感じていたものは清々しさだった。
この意外な感情に、自分でも驚きを隠せなかった。
その上、閉塞的に感じていた人間になり切れない、やるせない思いもどこかに行ってしまったようだった。
もしかしたら、あれは心が閉じ込められていたからこそ、あった感情なのかもしれない。
ロドリゴは同時に万能感を感じていた。
今ならどんなこともできる気がした。
それは良心と引き換えに、強力な魔法を使えるようになった証なのかもしれなかった。
ロドリゴは空腹でないのにもかかわらず、誰かの涙を食べたい気持ちに駆られていた。
それは彼の倫理観で抑えていた凶暴な化け物が、狩りに行けと急かしているからなのだろう。
しかし、ロドリゴはそれをしようとはしなかった。
彼はまだ体が「心抜き」の状態に慣れきっていなかったからだ。
凶暴な化け物が彼の脳を完全に支配するまでは、まだ時間がかかるようだった。
彼の中にはほとんど惰性ともいえるような倫理観だけがわずかに残っていた。
そして彼には人間としてやらないといけないことがあった。
彼の心を解放したこの物語のことだ。
ロドリゴは「化け物」になった今でもこの物語を捨てることができない。
そんなことしたら、やっと思い出せたエルメの存在も、捨て去ってしまうような気がしてならないからだ。
いまやエルメはロドリゴに残された唯一の生きる理由だった。
彼女の思い出だけが彼の永遠の人生を色づけていた。
そしてこのエルメの物語のためなら、ロドリゴはきっとなんでもやる。
たとえそれが、歪んだ形のものであったとしても。
真の闇の魔法使いになったロドリゴはもう立ち止まらないだろう。
しかしそうなる前に、ロドリゴはこの物語のために「人間」として、さゆりとの約束を守らないといけなかった。
(手紙を渡さなければいけない。俺が、「人間」を完全に失う前に)
彼の中にある惰性の倫理観が、化け物に支配されないように必死に抵抗していた。
ロドリゴの頭が割れんばかりに痛くなる。
ロドリゴは頭痛に苦しみながら、さゆり宛ての簡単な手紙をしたためることにした。
化け物の自分がこんなことをしたくない、と喚いているのを感じたがロドリゴは無視することにした。
(手紙さえ渡してしまえば、楽になるのだ…あと少し耐えなければ…)
そして、書き終わるとその便せんをいつもの鞄に入れた。
そしてロドリゴは苦痛で息が荒くなるのを感じながら、急いで支度を進めた。
鞄にはほかにさゆりの物語の原稿と、「良心」が入った小瓶、さゆりの父あての手紙、万年筆やその他の雑多なものを次々と入れていった。
すべて鞄に入れ終えると、ロドリゴはその鞄と小さなランプをもち、外に広がる闇夜の中に飛び出したのである。
今夜は新月だった。
小さなランプでは、周りを広く照らすことはできない。
ロドリゴの姿は、闇へと溶けていった。
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