第15話 感動は破滅を呼ぶ

ロドリゴはさゆりが書いた原稿を机の上の左端に置いたまま、中央には便せんを広げていた。


便せんはもう既にほとんど文字で埋め尽くされている。


宛て先は、さゆりの父親だ。


彼は自分の熱烈な支援者であり、ロドリゴの数少ない友人でもあるから、手紙は何度もやり取りしたことがあった。


ロドリゴは自分が書いた手紙を最後にさっと目を通すと、納得したように頷いて、封筒に丁寧に入れ封をした。


これで、彼もさゆりのために何かしら考え行動するだろう。




ロドリゴにとってさゆりの物語は面白くも物足りないものだった。


物語の展開は平凡なものでどこかで読んだような既視感がある。


それでも最後まで読み切れたのは、ヤマネコの軽快な仕草と王女様のミステリアスな雰囲気が気に入ったからなのだろう。


内容は平凡な一方で、表現はわかりやすく童話としての読みやすさがあるところは好感が持てた。


そこに読者への配慮を感じられ、彼女の優しさが散りばめられているように感じる。




彼女はこの物語をロドリゴへの特別仕様オーダーメイドといっていたが、とんでもない。


確実に「読者」を意識して書いていることは明らかだった。


おそらく、もっと多くの人に読んでもらいたいのであろう。




ロドリゴはそう思うと口元が緩んだ。


彼女の純粋な向上心がほほえましく思えたからだ。


原稿はもうすでに添削をしており、万年筆で書きこみを行ってある。


ロドリゴはもう一度その原稿を机の中央におくと、ぱらぱらと紙をめくり、眺め始めた。


ロドリゴが考えなければいけないことは、残り一つとなっている。




乙女の名前である、〇〇と書いてある箇所だ。


名付けの作業は自分の小説でも、あまり得意ではない。


だからこそ、ロドリゴはこの元の物語の登場人物たちに、名前を付けなかったのだ。


「吟遊詩人」「乙女」「村長」


…まあ、「ヤマネコ貴族」だけは唯一名前らしい代名詞をつけたとは思う。


ロドリゴにとって、「ヤマネコ貴族」が化け物仲間として親近感があるからだろうか。


そう思うと筆者というものは、自分の好きな登場人物に肩入れする傾向があるのかもしれない。




さゆりも同じようにこの乙女こと「王女様」に自分を重ねているのだろう。


彼女は名家の生まれでであるから、王女様のように心を閉ざす場面も多かったのだろう。


だから、きっと彼女は王女様に名付けをしたいのだ。


もしくは愛する者からは代名詞ではなく、名前でよばれたいという、女性ならではの「憧れ」があるからかもしれない。




さて、頼まれたからにはこのまま名前を付けないわけにはいかない。


ロドリゴは万年筆を手で揺らしながら、貧乏ゆすりをし始めた。


彼の執筆が思うようにいかないときの癖である。


その時、ふと見た原稿用紙の裏になにか文字が書いてあるのに気付いた。


さゆりが考えをまとめている時、思わずメモしたものかもしれない。


ロドリゴは何気なく、紙を裏返した。




メモは今まさに考えていた王女様の名前が一覧になったものだった。


彼女なりに一生懸命考えたようで、カタカナの名前がひとしきり羅列してある。


メアリー、マーガレット、エリザベス、キャサリン…


なるほど、ありきたりな名前ばかりだ。




たしかに日本生まれの彼女にしてみると、この名付けは困難な作業なのかもしれない。


彼女は難航したようで、ほとんどの名前の上にはバツ印が書かれていた。


どれもしっくりこなかったのであろう。




しかし一方で、バツが付いていない名前も数個ほど残っていた。


きっとこれらの名前に彼女は好感触を得たはずだ。


ロドリゴはどれどれ、とひとつずつ残った名前らを吟味し始めた。




この中からそのまま名付けをしようとは思わないが、少なくとも彼女が好む傾向はわかるだろう。


しかし、すべて読み終わる前にロドリゴはある名前に釘付けになった。


ロドリゴの鼓動がやけに大きく響き、耳の奥でこだましていた。


多くの人は聞きなれないだろうその珍しい名前は、まるで特別に、そして奇妙に、浮き上がっているかのように見えた。




その名は―【エルメ】




突然、ロドリゴの脳内に鮮やかな記憶が蘇ってきた。


同時に頭が刺されたように痛み、視界はまばゆい光に包まれる。


記憶の映像は、激しい熱を帯びていて、極彩色に近い色どりをしていた。


あまりに美しく、明るい色合いで、ロドリゴは吐き気を催した。




そしていよいよ我慢できないと思った時、喉の底から突き上げてきたのは、まさかの嗚咽であった。




ロドリゴはその瞬間、嗚咽とともに自分が涙していたことに初めて気づいた。


そして果てしなく長い間、今この瞬間まで泣くことが無かったことにも、同時に初めて気づいたのである。


彼は他人の涙を食らうばかりであった。


それは、彼の中の「化け物」が本能的に行ったものだ。


彼の中の「化け物」は知っている。


彼の弱点、それは「自分の涙」であると。




!」




彼は自分の言葉だと思えないほど、乱暴な物言いで毒づいた。


それはまぎれもなく「化け物」の言葉だった。


ロドリゴはその自分の様子に驚きながらも、すばやく自分が泣いている理由を整理した。




(・・・・【エルメ】、だ)




それは彼が一番思い出したい思い出の少女の名前であり、彼の心をゆさぶる唯一の存在だった。


どうしてさゆりがこの名を知っているか定かではないが、おそらくカタカナを組み合わせているうちに偶然たどり着いた名前なのだろう。


そう思うと、ロドリゴはどこかさゆりに運命らしきものを感じた。




【エルメ】はさゆりの物語とロドリゴの記憶の中に蘇ったのだ。




【エルメ】の存在はこの童話を「ロドリゴの特別仕様オーダーメイドの物語」へと変貌させた。


この物語はロドリゴの思い出とともに色づけられ、塗り替えられたのだ。




(エルメは無邪気ながらも悩んでいたあの時の乙女であり、王女だ。


獣でありながら心を保とうと歌を生み出すヤマネコは、俺だ)




【エルメ】という王女の名前だけで、この物語は最初とまるで違った印象をもたらしていた。


それは失われたパズルのピースが、やっと見つかったようだった。


ピースが吸い付くように全体にはまった感覚に、驚きながらも安堵を覚える。


はまっていて、もう崩せない。崩したくないのだ。


ロドリゴは自分の大切な過去と、それを想起させたこの物語を重ねて、たしかに感動していた。




そして、感動をきっかけに、ロドリゴは心が解放されたのを感じた。


清々しい風が心を吹き抜けている。


ロドリゴは今まで閉じ込められ苦しんでいた心が、感動することができるようになったと歓喜の声を上げていることを感じた。


いままで鈍く反応するだけだった感情は、むき出しになった心から放射線状に外へと放たれ、流れていく。


ロドリゴはやっと深く呼吸ができるような感覚になった。


そう思った瞬間、ロドリゴの口に流れてくる【涙】が入った。


口の中に塩気が広がる。


ロドリゴは自分の涙が、こんなにも暖かく感じるとは思っていなかった。




しかし、同時にロドリゴはこれが危険なものであると感じていた。




その予感は次の瞬間、確信に変わった。


嗚咽とともに喉の奥から激しく突き出る痛みが、激しくロドリゴを苦しめたのだ。


ロドリゴはあまりの痛さに前かがみになり悶えた。


そして、【涙】を呑み込んだその口から、今度は咳とともに血が吐き出された。


口を押えていたロドリゴの右手のうえに、ぬめりとした血液がてらてらと赤く光っていた。


ロドリゴは息を荒くしながらその手を見つめ、この【涙】は自分を死に導くものだとわかった。




そう悟った時、ロドリゴは一つの幻想を垣間見た。




霧のような幻想の中で、一つの百合のつぼみが花弁を緩ませるように開花した。


その百合の中から、現れたのはさゆりだった。


そしてそのさゆりは、ゆったりと、されどはっきり意思のある動きで、ロドリゴの喉元にまっすぐ万年筆のペン先を突き付けた。


そのペン先は鋭く冷たく銀色に光り、今か今かとその喉へと迫っている。


そして、百合の香りをまとった幻想のさゆりは言う。




「先生、感動したのなら私を認めてくださいな。


もうあなたの時代は終わろうとしています。


次は私が、あなたを超えて見せましょう」




ロドリゴは迫られるそのペン先の迫力にじりじりと後ずさりをした。


ロドリゴは驕っていた。


他人ひとを感動させることはあっても、自分は他人ひとから感動させられることはないだろうという驕りだ。


それは自分はだれも越えることができない「文豪の鬼才」だ、という自負から来ていた。


しかも、その代名詞は自分の「不老不死」によって積み重ねられた経験がある限り揺るぎないものだと思っていた。


この経験豊富な自分を超えられる小説家なんているはずがない。


そう高をくくっていた。




だが、その驕りは今砕かれたのだった。


美しい若い百合のつぼみによって、それは見事に粉々となった。


そしてその百合は今柔らかく開き、気高く咲いていた。


ロドリゴは幻想の中のさゆりを眩しく感じ、目を細めた。


さゆりは新たな小説家が開花した姿を、確かにロドリゴに見せつけたのだ。


そして、その「花」は間違いなく、ロドリゴが昔自ら蒔いた物語から開花したものだった。




(…俺は俺の中の化け物を殺すべく、無意識に刺客の種を蒔いていたというのだろうか)




ロドリゴは乾いた笑いで自嘲をしながら、幻想を振り払った。


ロドリゴは現実に戻ろうと、血の付いた手のひらを見つめた。


まだ胸はキリキリと痛んでいた。


そして、すべての体を観察し終わらないうちに、またも抑えきれない咳が彼を襲った。


痛さに耐えようと、体が自然と強ばる姿勢になる。




ロドリゴはじんわりと自分の体が恐怖で包まれるのを感じた。


冷汗が止まらなかった。


あんなにも死を待ち望んでいたのに、いざ目の前に現れると「生きたい」と思うなんて。


自分はいつからこんな自分勝手エゴイストだったのだろうか。


永遠に生きる自分を仙人のようにすべてを俯瞰していると勘違いしていた。


ロドリゴは心を閉じ込められた影響で、感情がわからなくなった、ただの年寄りに過ぎなかったのだと自覚した。

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