第30話 行ってきます

 せめて泣くものかと決めていたのに、一度涙がこぼれたら壊れた蛇口のようにずっと流れ出ていた。


「シイバ……ごめん……こんな情けなくて、弱くて、本当にごめん……」


 この申し訳なさに涙を流しながら、何度もシイバに謝る。だが、シイバは私を軽蔑することなく、小さく息をついてゆっくりと私の前にしゃがみ込んだ。


「……安心しろ。お前が弱くないこと……俺がわかってるから」


 そう言ってシイバは泣きじゃくる私をそっと優しく抱きしめた。


「……シイバ?」


 何が起こったのかわからず、体が固まる。それでもシイバはまるで赤ちゃんをあやすようにポンポンと私の背中を叩いた。


「お前が泣いていた時……琴子がこうしていたから」


 ――こうしてニノに『大丈夫だよ』とか『大好きだよ』って教えてあげるの。


 不意にコトコトが見せてくれたお母さんの記憶が頭に過る。


 あの時と同じだ。優しさも、温もりも、お母さんが私に与えてくれた「愛情」とまったく同じだ。


 そう感じた途端、あれだけ流れ出ていた涙がさらに溢れ、私はすがりつくようにシイバに抱きついた。


 大粒の涙を流しながら泣き喚く私に、シイバは呆れたように小声で文句を垂らした。


「なんだよ琴子の奴……全然泣き止まねえじゃん……」


 だが、その表情はお母さんの記憶で見た時のような、優しくて、穏やかなものだった。


 そんなシイバの優しさに包まれながら、私は悲しみが治まるまでずっと彼の胸の中で泣いていた。




 翌日の朝のこと。 いつもより早く家を出た私とシイバは『幻影鏡』のことを報告しに蛇神様がいる泉の祠に来ていた。


「――そう。それは二人共大変だったね」


 一部始終を聞いた蛇神様は「ふむ」と深く頷くと、私たちに優しく微笑んだ。


「お疲れ様。シイバの調子も戻ったみたいだし、ニノも元気になったようで安心したよ」


「はは……心配かけてごめんなさい」


 本当、蛇神様には足を向けて寝ることができないくらい色々慰めてもらった。あそこで彼が元気づけてくれなかったら、今だって立ち直っていなかったかもしれない。


「それにしてもあの『幻影鏡』に平手打ちとは……琴子みたいなことをするね」


「え? お母さんもあんな感じだったんですか?」


「噂によるとね。怒ったら怖かったらしいから、血は争えないね。でも、ニノも琴子と似たようなことができるということは、君の神力も強くなってきたのかもしれないね」


 そう言ってクスリと蛇神様は笑う。神力が強くなる……自覚はさっぱりないが、これからもう少しは『あやかし』に対抗できるようになるのだろうか。


 自分の手を見つめながらそんなことを考えていると、蛇神様は「期待しているよ」と微笑んだ。


 その横でシイバはジトッとした目で蛇神様を見つめている。


「というか、俺がやられるならもっとわかりやすく言ってくれよ。あんな中途半端な言い方しやがって……」


 顔をしかめるシイバに蛇神様は「まあまあ」となだめる。


 確か前に蛇神様は「黒い影があるから気をつけて」と言っていた。蛇神様いわく、その「黒い影」とは不吉なことの兆しで、今回で言うとシイバが『幻影鏡』に妖力を取られてしまうことを意味していたらしい。蛇神様は「未来を暗示することが得意」と言っていたが、こういうことだったのだろう。


「私ができるのは未来予知ではないからね。吉か凶か……おみくじみたいなものさ。でも、警戒くらいはできただろう?」


 蛇神様の言葉にシイバは苛立つように「チッ」と舌打ちをする。ごもっともなことを言われているが、彼自身は腑に落ちていないようだ。


 そんな彼を微笑ましそうに見た後、蛇神様は持ち前の赤い瞳で私を見つめ、澄ました顔でこう告げた。


「でも、これだけは言えるよ。この先どんな困難があろうとも、君たちの未来は明るい。それは忘れないで」


 その言葉に私は一瞬大きく目を見開いたが、すぐに「はい」と頷いた。


「ほら、そろそろ行きなさい。学校に間に合わなくなるよ」


「あ、本当だ……行ってきます、蛇神様」


「うん、行ってらっしゃい」


 目を細めながら手を振る蛇神様に会釈しつつ、私はシイバを連れて泉の祠を後にした。


「あー……かったり~……」


 頭の上で腕を組むシイバは今日も今日とて気怠そうだ。だが、いつもなら「そんなこと言わないの」と言ってしまうところでも、彼の覚悟や優しさに触れた今ならむしろ隣にいてくれることを感謝したくなった。


「……行こう、シイバ」


 口角を上げながらシイバに手を伸ばす。

 いきなり手を伸ばす私にシイバはぽかんとしたが、すぐに破顔し、私の手を取った。


 その時、あれだけ穏やかだった風が強く吹き、私の二つに結んだ髪を靡かせた。


 ――ニノ。


 風に混ざって誰かが私を呼ぶ。一瞬ではあったがその声は女の人で、とても懐かしい感じがした。


 ――行ってきます。お母さん。


 その声に応えるように、私は飛び切りの笑顔で空を仰いだ。


 神社の木々を揺らすほどの強い風は、新たな門出に立つ私の背中をそっと押した。


(終)

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半妖稲荷あやかし怪記 葛来奈都 @kazura72

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