第29話 ありがとう

「ニノ! 逃げろ‼」


 後頭部押さえながら、シイバが叫ぶ。だが、その時はもうすでに『幻影鏡』は私に向けてその短剣を振りかぶっていた。


『幻影鏡』が勝利の笑みを浮かべる。だが、それが彼女の隙であった。


 ――決めたのだ。もう逃げはしないと。


 キッと『幻影鏡』を睨みつけると、彼女の動きがピタリと止まった。その隙を逃さず、私は思い切り『幻影鏡』の頬を叩いた。


 その瞬間、バチン! と電気が走ったような音がした。しかも私の平手打ちの勢いで『幻影鏡』は持っていた短剣ごと吹っ飛ばされる。


「なっ⁉」


 この行動に『幻影鏡』だけでなく、シイバも驚いた。


 何が起こったかなんて私にもわからない。ただ、感じているのは『幻影鏡』に対しての怒りだけ。私だっていつまでもやられっぱなしは嫌なのだ。


「お母さんの姿でシイバを傷つけて……もう、許さないんだから」


 怒り口調で地面に転がる『幻影鏡』を睨みつける。今の攻撃が効いたのか、『幻影鏡』はお母さんから元の姿に戻っている。


「な、生意気な……!」


 私に叩かれた頬に手を当てながら、『幻影鏡』は怒りでフルフルと震えていた。だが、すぐにハッと振り向くと、今度はシイバが彼女に牙を向けていた。


「悪いな。俺もこいつも……やられたらやり返すタイプなんでね」


 シイバの不敵な笑みに『幻影鏡』は肩をすくみ上げる。彼の右手には『幻影鏡』が持っていた透明な短剣があった。それをシイバはためらうことなく彼女の胸元に突き刺した。


『幻影鏡』のつんざくような悲鳴に思わず耳をふさぐ。それでも目を逸らさずにいると、シイバが突き刺した透明な短剣は濃い紫色へと変色し、そのままパリンと音を立てて割れた。


「ああ……うちの妖力が……」


 震えながらシイバに手を伸ばす『幻影鏡』だが、力が入らないのか、その場でゆっくりと背中から倒れて行った。


「お、おのれ……半妖のくせして……」


『幻影鏡』は鋭い眼差しでシイバを睨みつけるが、これまでの余裕さのかけらもない。彼女にはもう力が残されていないようだ。『影呑み』のように体が輝きだし、光の粒子が空へと昇っていった。もうすぐ、彼女は消えてしまう。


「……『幻影鏡』」


 倒れた『幻影鏡』を見下ろすと、恨めしそうな顔でジロッと見られた。

 彼女はお母さんのことも、きっと私のことも憎んでいる。その気持ちは私だって同じだ。それでも私は、彼女にひとつだけ感謝していることがあった。


「ありがとう……お母さんに会えたみたいで嬉しかった」


 いきなり礼を言う私に『幻影鏡』は驚いたように目を見開いた。


「『あやかし』のうちに感謝するなんて……とんだお人好しだね」


「うん……でも、きっとお母さんも同じことをしたと思うから」


「わからない小娘だね。感謝したって、うちはあんたら母娘おやこのことは許さないよ」


「でも……」と続ける『幻影鏡』は最後の力を振り絞るように自分の体を起こし上げた。


「うちも最後くらい、一矢報いたいねえ」


 と、静かに『幻影鏡』が笑むと地面に落ちていた彼女の鏡が急に光り出した。

 鏡が光ると同時に『幻影鏡』の体も淡く光ると、彼女は再びお母さんの姿に変わった。


 しかし、お母さんの姿になったところでもう彼女は透明になっており、いつ消滅してもおかしくない。それなのに、どうして彼女は残されたわずかな妖力でお母さんの姿になったのだろう。


 彼女の行動の意図がわからず、自然と顔が強張る。そんな私に『幻影鏡』は優しく頬に手を添える。


「――さよなら、ニノ」


 消える間際、『幻影鏡』は目を細め、歯を見せて笑った。その笑顔はお母さんそのもので、私はハッと息を呑んだ。


「お母さん!」


 だが、私が叫んだ時はもう遅く、光の粒子となった『幻影鏡』の体は風に流されて消えてしまった。それはまるで、お母さんの魂が成仏したようにも見えて、私は悲しさのあまりその場で膝を落とした。


 ――その瞬間、ずっと私の中で押さえ込んでいた何かが音を立てて壊れた。


 これまで、ひたすら考えないようにしていた。お母さんが亡くなったこと。お母さんがいなくなった悲しみ。ぽっかりと胸が開いたような喪失感。全部全部誤魔化し続けていた。


 私が悲しんでいたら伯父さんにも伯母さんにも迷惑をかけてしまうし、天国にいるお父さんとお母さんもきっと心配する。だからこれまで泣かないで頑張って生きようと思っていた。思っていたのに、お母さんのあんな眩しい笑顔を見せつけられたら私も耐えられなかった。


「お母さん……お母さん……」


 彼女を求めるように、何度も何度も彼女の名前を呼ぶ。呼んだってお母さんはもうこの世にはいない。わかっている。わかっているのに、どうしてこんなに悲しくて、淋しくて、心苦しいのだろう。


「……ニノ……」


 うなだれていると頭上からシイバの声が聞こえた。恐る恐る顔を上げると、シイバが悲痛そうな表情で私を見つめていた。

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