冷蔵庫の女

ぬりや是々

冷蔵庫の女

 冷蔵庫の容量は、大きければ大きい方がいいかと私は思います。

 

 田舎に住んでいると買い出しの度に冷蔵庫はいっぱいになりますし、突然スイカを丸ごと頂く事もあります。夏の間は素麺のつゆも切らさずストックして、お中元に贈られたゼリーも冷やしておかなければなりません。

 母が他界してから家の冷蔵庫を管理している私としては、夏の電気代が心配ではありますが、麦茶も冷やしておかなければなりませんし、氷も必要です。

 でも、水道で冷ましていた薬缶の口から直接、浴びるように麦茶を飲む貴方の姿を眺めるのも、もちろん嫌いではありませんでした。

 


 畦道の向こう、杉の梢のその上の、入道雲みたいな白いシャツを追いかけて自転車を走らせた夏の日。部活帰り、隣り合わせの私の家にそのまま二台の自転車を停めました。

 私がよく冷えた麦茶をコップに注いで用意するより早く、貴方は薬缶を手にします。大きく口を開け、上を向いた貴方の喉元を溢れた麦茶と汗の雫が流れ落ち、私はいつもそれを横目で眺めていました。ごくごく、と音を立てて上下に動くあの喉仏に唇を寄せると、香ばしい麦茶の味がするのでしょうか、塩辛い汗の味がするのでしょうか。貴方のために入れた冷たい麦茶に口をつけ、私は思いました。冷蔵庫でよく冷やした麦茶。コップも貴方のように汗をかき、垂れた雫が私の指を濡らします。

 

 何時にする。と貴方が言います。

 私は少しとぼけて、何が。と返しました。


 その日が地区の夏祭りだと、私はもちろん知っていました。何日も前から約束はしていなくても、私は父に強請って新しい浴衣を用意していました。また夕方に、と勝手口から帰る貴方になるべく素っ気ない返事をして、私は麦茶をおかわりする素振り。冷蔵庫のドアを開け溢れる冷気に火照った頬を当てました。


 地区の子供は多くなく、家が隣同士という事もあって、私と貴方は幼い頃より兄妹のように育ちました。実際、貴方が私の家に上がり断りもなく冷蔵庫を開けても咎められないほどに、お互いが双方の家で身内と認識されていたと思います。

 私はそんな貴方のために時々、貴方の好きな飲み物やデザートなどを冷蔵庫に忍ばせていました。冷蔵庫を開けた貴方の目が、よく一緒に潜った雑木林の椚の木で、甲虫を見つけた時のようにキラキラと光るのを眺めるのが楽しみでした。

 瓶入りのラムネ、甘くて大きなプリン、浅く漬けた胡瓜。それらは貴方の目を輝かせ、同時に冷蔵庫の奥底に私が仕舞っている、見られたくない物から目を逸らさせます。貴方が冷蔵庫を開ける度、期待と心配が入り混じり落ち着かないものでしたが大概の場合、貴方は好物に目を奪われそういった心配は杞憂に終わるのでした。



 母の在命中はお願いしていた浴衣の着付けも私ひとりで行います。最初は貴方のお母さんに教わりながら、それも毎年行く夏祭りの度に上達し、その頃にはそれ程時間をかけなくてもひとりで着れるようになっていました。

 姿見の前で一回りして確認しながら、迎えに来た貴方が私を見た時の顔と言葉を想像します。その年の新しい浴衣は淡い薄浅葱色に赤い金魚の柄物。前の年に貴方が掬ってくれた二匹の赤い金魚は、残念ながら近所の猫か何かに盗られてしまいました。もし貴方が今年も金魚を掬ってくれるならきっと大切にしよう、そう思い選んだ柄でした。貴方はそれに気がついて金魚掬いの屋台の前で足を止め、私の方を向かないままに、やるか、と言ってくれるでしょうか。私は姿見の前でもう一度一回りし、袖の中では赤い金魚がふわりと泳ぎました。

 

 そうやって貴方の前でまた金魚を泳がせ、逸れるから、と今更のように私が言って差し出した手を、貴方が拒まなかった事に本当に安堵しました。カラン、コロンと私の履いた下駄と、夜祭りに集まる人達の下駄の音が合わさって薄暗くなった畦道に響きます。釣られたように鳴き出した蛙たちの合唱も夏の宵に響きました。

 地区の集会場の脇、保育園の運動場くらいの広場には赤と白との垂れ幕で飾られた櫓が組まれ、そこから伸びる万国旗や提灯に見惚れて躓きかけた私の手を、貴方が強く引き上げてくれました。貴方の腕は思いのほか太く、力強く、何年も触れなかったうちに女の私にはない若々しい力が備わっていた事を知りました。


 ありがとう。と私は俯きがちに口にします。

 あとで、りんご飴食べるか。と貴方がそっぽを向いて言いました。


 この年の夏祭りを私は忘れる事はないでしょう。貴方が齧ったりんご飴を冷蔵庫の光に翳して眺め、中学生最後の夏祭りとなったあの日の事を想います。


 浴衣が功を奏したのでしょうか。小さな夏祭りにも金魚掬いの屋台はやって来て、私が何かを言う前に貴方がそこで立ち止まりました。

 

 やっていくか。と貴方は言います。

 それと浴衣、いいと思う。そう続けました。


 貴方の様子は予想通りで、私の方を向くことはなく、水色の水槽の中で泳ぐ金魚を見るばかりでした。それでも見上げた貴方の耳たぶが、屋台の灯りに照らされて金魚みたいに赤くなっているのが見えたので、私も金魚のようにぱくぱくと口を動かし赤くなっていたことでしょう。

 貴方と私でポイを分け、貴方はその年も二匹の金魚を掬いました。私は一匹も取れず、おまけの金魚をくれるという店主にお礼を言って断りました。水を張ったビニール袋を掲げ、貴方の掬った小赤と黒出目金を見つめます。貴方が掬ってくれた金魚があれば私はそれで満足でした。

 歩く度にゆらゆら揺れる、二匹の金魚と袖の中の金魚を捕まえるように貴方が私の手を取りました。一度離れた手がまたこうして金魚を挟んで繋がれる。私はこれが夏の夜の気まぐれではない事を願いました。

 広場の隅の庭石に貴方と座り、焼きそばを食べ、瓶入りラムネを飲みながら高校受験の事や将来の事をぽつりぽつりと話します。街の進学校へ行くと言う貴方と、たとえ高校が離れることになっても、隣同士の私たちの家には垣根ひとつしかなく何も変わらないと誓いました。

 貴方が走って買って来てくれた小振りなりんご飴。はしたないと思われないように小さく舌を出して舐めていると貴方の視線を横顔に感じました。ひとくちだけ、と言って貴方が大きな口を開けます。小さな姫林檎は忽ちなくなってしまう、と焦った私が手を引くと、貴方の大きな熱い手がそれを掴みました。前歯でこ削ぐ様に紅色の飴を割り、甘い香りをさせてりんご飴が齧られ貴方の口に含まれました。この瞬間を氷に閉じ込めて冷蔵庫に仕舞っておけたらいいのにと、どれだけ願っても入れられるのはりんご飴だけです。

 その後、口をつけずに持ち帰ったりんご飴を丁寧に袋に詰め直し、私は冷蔵庫にそれを大切に仕舞ました。冷蔵庫の奥には毎年貴方に買ってもらったりんご飴が並んでいます。来年も、再来年も、この冷蔵庫がりんご飴でいっぱいになるようにと願いながら、それを袋の上から撫でました。もちろん掬ってもらった二匹の金魚も帰ってすぐ、丁寧に濡らしたキッチンペーパーにそっと包み冷凍室に仕舞います。

 貴方や、貴方との時間を丸ごと冷蔵庫に仕舞う事が出来れば、そう思いながら代わりにりんご飴や金魚を丁寧に仕舞い、そして時々取り出して私は夏の思い出をそっと撫でました。



 毎年変わらず訪れても、それは同じ夏ではない事を私はその年知りました。

 翌年の夏祭りの前、街の高校の夏期講習で忙しい貴方が数日振りに私の家を訪れ、お勝手場のテーブルでふたり、アイスを食べていた時です。胸のあたりが窮屈になった去年の薄浅葱色の浴衣に代え、新しい浴衣を用意して夏祭りに誘ってくれるのを待つ私に、貴方が口にした言葉であれ程騒がしかった蝉たちが静かになりました。

 それでもこの目で確かめるまではと、浴衣をひとりで着付けして、ひとりで下駄を鳴らして地区の夏祭りに行きました。出掛けに遅くなるかもしれないと伝えると、夏祭り後に寄合の席があり父も遅くなると言いました。

 貴方しか意識していなかった夏祭り。屋台の種類や店主の顔ぶれが去年と違っているのか分かりません。赤と白との垂れ幕で飾られた櫓と、そこから伸びる万国旗や提灯だけが同じに見えて、躓いても引き上げてくれる力強い手がないという事だけは分かります。

 夏祭りと言っても地区の小規模なものですし、場所もそれ程広い訳ではありません。知人や近所の人に度々声をかけられた私でしたが、徐々に焦る気持ちで随分おざなりな返事しかできていなかったと思います。貴方を見つけたのは、もう祭りの最後に差し掛かった打ち上げ花火の時でした。

 貴方は広場の人混みから離れた暗がりにいて、その横には街の高校で出会い、交際を始めたという貴方の恋人が白い浴衣を着て寄り添っていました。貴方と恋人を遠くから眺め、動けないでいるうちに小さな打ち上げ花火が上り始めます。その音以外、屋台の呼び込みも、下駄の音も、子供のはしゃぐ声も聞こえませんでした。もちろん貴方たちの声はこの距離では元々聞こえませんので、顔を寄せ微笑み合い話している口元の動きだけを私は見ていました。

 やがて、金魚のはいったビニール袋ごと私の手と繋がった貴方の手が恋人と繋がれ、私の舐めたりんご飴を齧った口が恋人と繋がるのを見て、まだ終わっていないはずの打ち上げ花火の音すらも聞こえなくなりました。

 

 私は破れた浴衣を着て、裸足のままアスファルトの夜道を歩いていました。その前の事はあまり覚えていません。誰か知らない男の人に声をかけられ、誘われるまま車に乗ったような気がします。何を話したのか、私がどう返事したのか。全部、厚い氷の向こう側の事のようでした。夜はすっかり更け、ぽつりぽつりと等間隔に照らす街灯と、虫の声だけが帰り道に連なっていました。

 隣の家の貴方の部屋の灯りはついておらず、帰っていないのか、眠ってしまったのか分かりません。寄合で遅くなると言っていた父もまだ戻っておらず、私の有様について説明しなくて済むことに息をつきました。

 私は喉が酷く乾いていて、お勝手場の冷蔵庫を開け、冷えた麦茶をポットからコップに注ぎ一気に飲み干しました。暗いお勝手場の中で夜道の街灯のように、ドアを開けた冷蔵庫の光だけが空のコップを持った私を照らします。その光の中、私はマーガリンや、バターや、カレールーの箱を床に落としながら退け、奥に並べた幾つかのりんご飴から貴方が齧った物を手に取りました。しっかり閉じたつもりでしたが、被せた透明の袋の口からは果汁か、溶けた飴の様な汁が漏れ少し手にべとつきます。そのベタベタした袋を破いて捨て、一年ぶりに取り出したりんご飴を冷蔵庫の光に翳して眺めます。そして私は貴方が齧った跡に口を合わせるように齧り付きました。息を止め、咀嚼せず、噛み砕き、飲み込みました。

 当然とうの昔にりんご飴は傷んでおり、私はすぐに吐き気を催し、流し台に頭を潜り込ますようにして嘔吐しました。貴方が買ってくれ、貴方が齧ったりんご飴が私の血肉にもならず、吐瀉物に変わってしまった事が悲しくて、私は嘔吐しながら泣きました。


 冷蔵庫の外からは、中に何が入っているのか分かりません。ドアを開けてもすぐ目立つところには、瓶入りラムネやプリン、浅く漬けた胡瓜があって貴方の目はそれに奪われます。暗く冷たい冷蔵庫の奥底。私がいることに貴方は気づかずドアは閉じられました。

 貴方が大学に進学するため町を出た後も、就職し、あの恋人と結婚したと聞いた後も、私は毎年浴衣を新調し、夏祭りの夜にはそれを着て、冷蔵庫の中の腐敗したりんご飴を撫でて過ごしました。



 貴方が子供を連れて、久しぶりに夏祭りの日に帰省すると貴方のお母さんから聞き、私はあの中学生最後の夏祭りで着た、薄浅葱色に金魚柄の浴衣によく似た物を見つけ用意しました。都合が合わずに遅れて来るという貴方の奥さんの代わりに、私が貴方の子供の左手を繋ぎました。右手は貴方が繋ぎ、子供を間に挟むと金魚を入れたビニール袋を下げて歩いたあの夜のようでした。


 久しぶり。と懐かしい貴方が言います。

 変わらないね。と貴方が笑って言いました。


 貴方によく似た子供にせがまれ、金魚掬いの水槽の前に三人で座りました。子供のポイはすぐに破れ、虚ろな輪でいつまでも金魚を追いかけています。店主にお金を渡し受け取ったポイを貴方と私で分け、それぞれ一匹ずつ掬いました。

 二匹の金魚をひとつの袋に入れてもらい、それを持った貴方の子どもがはしゃいで前を歩きます。私が掬った小赤と、貴方が掬った黒出目金が、ひとつの袋で身体を絡ませ合うようにゆらゆらと泳いでいます。それを眺めるこの子供には、貴方と知らない人の血しか入っていませんし、貴方が齧ったりんご飴は私の血肉にもなりませんでした。

 私は新しく買ってもらった赤いりんご飴に舌を這わせ、少し日焼けした貴方の顔にそれを向け言いました。


 齧って。と。



 貴方を誘ったのは私の方です。

 数年振りに家に上がり、亡くなった父と母の仏壇に手を合わせる貴方の白いシャツに私は頬を寄せました。はだけた薄浅葱色の浴衣は金魚掬いの屋台の水槽みたいで、その生温い水の中、小赤と黒出目金が肌を絡ませ合うようにゆらゆらと泳いでいます。前歯でこ削ぐように紅色の私を割り、甘い香りをさせて尖端が齧られ貴方の口に含まれました。ごくごく、と音を立てて上下に動く貴方の喉仏に唇を寄せると、懐かしい麦茶のような、塩辛い夏のような味がしました。この瞬間を氷に閉じ込めて冷蔵庫にしまっておけたらいいのにと、どれだけ願ってもこうしていられるのは今夜だけです。

 

 暗いお勝手場で冷蔵庫のドアを開け、中の冷気に火照った頬を当てながら、貴方のために冷たい麦茶を用意していました。冷蔵庫の光に照らされると、浅葱色の浴衣を羽織る私の肌に幾つも赤い金魚が泳いでいます。襟元をずらし、冷凍室に大切に仕舞ってあったあの日の小赤と黒出目金を取り出して、赤い金魚が泳いでいるような首筋や胸元を冷やしました。


 ごめん。お勝手場の入口で貴方が言います。

 間違いだった。と声が聞こえました。


 冷蔵庫が立てるブーン、といった音が煩くて私は耳を塞ぎます。貴方や、貴方との時間を丸ごと冷蔵庫に仕舞う事が出来れば、私はそう思いました。夏の夜の暗闇の中、煌々とした冷蔵庫の光に照らされて、赤と黒との小さな金魚が生き生きと泳ぎ回り、貴方がくれた幾つものりんご飴が紅く艷やかに輝いています。

 

 逸れるから、と今更のように私が言って差し出した手を、貴方が拒まなかった事に本当に安堵しました。夏祭りの帰りの夜道、私と貴方が繋いだ手を街灯が照らしたように、暗いお勝手場で冷蔵庫の光が繋がった手だけを照らしています。

 私は遂にこの瞬間を冷蔵庫に仕舞う事が出来たのです。

 開け放たれた冷蔵庫からは冷気が漏れ、私と貴方を冷やします。私は貴方の手の熱を上手く感じることが出来ません。手だけではなく、物が散乱するお勝手場も、私と貴方の身体も、真夏の夜だというのに冷え切ってまるで冷蔵庫の中にいるようでした。そうだとして、冷蔵庫の中にいるのは貴方なのでしょうか。それとも私なのでしょうか。

 

 そして、冷蔵庫のドアは閉じられ、夏の思い出と一緒に、暗く冷たいその中に大切に仕舞われました。



 冷蔵庫の容量は、大きければ大きい方がいいかと私は思います。私と貴方、そして私たちの夏が収まるくらいに。



 (了)

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