第5話 変動

第5話「変動」

五郎が賢治にDM(ドリームマシーン)の話を持ち出すため、少し離れたところまで二人で出かける計画が立てられた。その一日が始まったのは、どこか曇った日の朝だった。五郎は深い静寂に包まれた自室で、時計の針が刻む微かな音を聞きながら、これからの展開を冷静に計算していた。その表情には、家族を思いやる優しさと、医師としての冷徹な決断の狭間で揺れ動く微妙な感情が交錯していた。


賢治は、いつも通り無気力に日々を過ごしていたが、その日は五郎の提案に、少しだけ外の世界に目を向けることとなった。彼の頭の中では、現実と夢幻の境界が曖昧になりつつあり、時折、過去の記憶が突然浮かび上がるような感覚に苛まれていた。五郎が提案する「外出」という行為そのものも、彼にとっては非現実的なもので、遠い異世界の出来事のように感じられていた。


五郎が車のキーを手に取り、玄関で靴を履く音が家の中に響き渡ると、賢治はその音に微かに反応し、ゆっくりと玄関に向かって足を動かした。彼の動きには、どこかしら無意識的な力が働いており、体は動いているものの、心はどこか遠くに漂っていたようだった。玄関のドアが開くと、冷たい風が二人の顔に触れ、その瞬間、五郎の脳裏には、これから話す内容がどれほど賢治に影響を与えるかという懸念が浮かんだ。


「今日は少し遠出するんだよ、賢治。息抜きにもなるだろうし、色々と話したいことがあるんだ。」五郎の言葉は優しいが、その奥底には、医師としての意図が見え隠れしていた。彼の目は、賢治の反応を細かく観察し、微かな変化をも見逃さないように集中していた。


賢治は頷くこともなく、ただ黙って靴を履き、五郎の後について外へ出た。外の風景は、どこかぼんやりとしており、霧がかかったように視界が不明瞭だった。それは、賢治の心象風景と奇妙に重なり合い、現実感をますます希薄にしていった。


車のエンジンが静かに始動し、五郎はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。街を離れ、少しずつ郊外へと向かうにつれて、風景は次第に変わり、建物の数も減っていった。窓から見える景色が次第に田畑や山々に変わり、自然の豊かさが広がっていく中で、五郎は慎重に賢治に話しかけるタイミングを計っていた。賢治の精神状態を考慮し、言葉を選び、慎重にその内容を組み立てる必要があった。


「賢治、最近どうだい?心の調子は。」五郎はあくまで自然な調子で問いかけた。だが、その言葉には、医師としての分析的な視点が潜んでいた。賢治の反応を引き出すための第一歩であった。


賢治は、少し間を置いてから、ぼそりと「…普通だよ。」と答えた。その言葉には何の感情もこもっておらず、ただ状況に対する形式的な反応でしかなかった。


五郎はその答えを予期していたかのように、次の話題へと静かに移った。「最近、病院と共同で新しい機械のテストを行っているんだ。名前はDM(ドリームマシーン)。夢の中で自分の心を整理したり、感情を制御したりすることができるんだ。まだ試験段階だけど、君のようなケースには効果が期待できるかもしれないと思ってね。」


賢治は、その言葉を聞いても、特に興味を示さなかった。彼にとって「夢」や「感情の制御」という概念は、あまりに抽象的で遠いものだった。日々の生活の中で、自分が何を感じているのかさえ理解できない彼にとって、それらを意図的に操作することは想像の範囲を超えていたのだ。


「…ふーん。」と短く返すだけで、再び窓の外に視線を戻す。そこに広がる風景は、静かに流れていく田舎の景色だったが、その静寂が逆に彼の内面の不安を強調するかのようだった。


五郎は一瞬の沈黙を保ったが、彼の表情には微かな焦りが見え隠れしていた。賢治の無関心な反応は予想通りではあったが、同時にそれは、彼が思っていたよりも深刻な状態にあることを示唆していた。


「実はね、その機械を使って、君に試してみたいことがあるんだ。」五郎はさらに踏み込んだ提案を試みた。彼の声には、慎重に計算された抑揚があり、賢治の関心を引き出そうとしていた。「夢の中で、自分の過去や感情を見つめ直すことができるかもしれない。君が今感じていること、それを整理して、少しでも心が軽くなるなら…試してみる価値はあるんじゃないかと思うんだ。」


賢治は再びぼんやりと外の風景を眺めながら、五郎の言葉を耳にしていた。だが、それが彼の心にどれほど響いているかは、五郎には全くわからなかった。賢治の顔には、微かな感情の動きすら見られなかった。


しばらく車を走らせた後、二人は郊外の静かな湖畔に到着した。五郎が提案した場所は、かつて彼自身が何度も訪れた場所であり、自然の中で心を落ち着けるには最適な場所だと考えていた。湖の水面は穏やかで、風にそよぐ木々の葉の音が、静寂の中に響いていた。


「ここで少し休もうか。」五郎は車を停め、二人で湖畔のベンチに腰を下ろした。しばらくの間、二人は何も話さず、ただその場の空気を感じていた。


五郎は、賢治の側に座りながら、彼の顔を観察していた。賢治の表情には依然として無表情が漂っていたが、その内面では何かが変わり始めているのではないかという微かな期待が、五郎の心に浮かんでいた。彼の提案は、賢治にとっては一見無関心なものに映っているかもしれないが、その背後には彼が抱える苦悩を解決するための一歩が隠されていると信じていた。


しかし、賢治の心の中で渦巻いているものは、言葉では表現しがたいほど複雑で、深いものであった。彼が感じているのは、単なる虚無感ではなかった。そこには、抑えきれない感情の波があり、それは時に自分自身を飲み込んでしまうほどの勢いを持っていた。だが、その波をどう処理していいのか、賢治には全く分からなかった。



賢治は静かに湖畔のベンチに腰掛けていた。その横に座る五郎の気配を感じながらも、彼は目を閉じ、自分の内面に意識を集中させていた。心の中では、無数の思考が錯綜し、波打つ感情の渦が収まることなく続いていた。遠くに見える山々や静かな水面の反映は、どこか現実の風景とは乖離していて、彼にとってはただの背景に過ぎなかった。


心の奥底で、賢治はこのまま五郎に何も言わずに過ごせればと淡い期待を抱いていたが、同時にそのような逃避行為が、さらに自分自身を追い詰めることをも理解していた。内なる葛藤が、彼の胸を重く締め付けていたのだ。


その時、五郎が静かに口を開いた。「賢治、お前の心の中で何が起きているのか、少し話してくれないか?誰も責めはしない。ただ、お前が少しでも楽になる手助けができれば、それで十分なんだ。」


その言葉は、表面的には優しいものだったが、賢治には何か鋭いものとして感じられた。それは、ずっと隠していた自分の内面に触れられるような感覚であり、彼はその瞬間に、言葉を選ぶことに恐れを感じた。


「俺の心の中…か…。」賢治はゆっくりと口を開きながら、言葉が自分の喉を詰まらせるような感覚に囚われていた。彼はどこから話せばよいのか、その始まりすら掴めなかった。言葉にすること自体が、今まで避けてきた行為だったからだ。


五郎はその静寂に耐え、賢治が話し始めるのをじっと待っていた。その間、二人の間には微かな風が流れ、木々のざわめきが遠くで聞こえていた。


賢治の目には、ぼんやりとした風景が広がっていたが、その焦点は全く合っていなかった。目の前の景色が消えていくような感覚を覚えながら、彼はついに言葉を紡ぎ出した。


「何も感じないんだよ、最近…何も。」その一言は、彼の心の中で長い間繰り返されていたテーマだった。虚無感に苛まれ、自分の存在が無意味に思える瞬間が、いつからか彼の日常の一部となっていた。何かを感じようとすればするほど、その感情がどこかへ逃げていくように思えた。


五郎は静かに耳を傾けていたが、その顔には若干の緊張が走った。「何も感じない、というのは辛いことだ。それは、心が何かを拒絶しているからかもしれないな。」彼は医師としての知識を総動員し、慎重に言葉を選んでいた。


「分からないんだ、五郎。感情が、どこか遠くに行ってしまったような感じがする。それに、頭の中がずっと霧がかかったみたいで、はっきり考えられないんだよ。何をすればいいのかも、どうしたらこの状態から抜け出せるのかも、全く分からないんだ。」


賢治は続けた。「たまに、昔のことが突然フラッシュバックするんだ。特に何もしてない時に、急に思い出が頭の中に押し寄せてくる。それは、良い思い出の時もあれば、辛い時の記憶もあるんだ。だけど、そのどれもが、自分とは関係ない誰かの記憶みたいで、自分の中にしっかりとした存在感がないんだ。」


その言葉を聞きながら、五郎は賢治の心の中で起きていることを少しずつ理解していた。それは、典型的な解離症状の一つだった。感情や記憶が断片的になり、自分自身を感じることができなくなる。五郎はそのことを頭の中で分析しながら、慎重に次の言葉を選んだ。


「賢治、その感覚は、長い間続いているのか?」五郎の質問には、微かな疑念が含まれていた。賢治がこうした状態に陥るまでに何があったのか、それを探るための第一歩だった。


賢治は一瞬、黙り込んだ。自分の中で何が起きているのかを明確に説明することは、彼にとって非常に難しかった。だが、その一方で、五郎の問いかけは彼の心に何かを触発させたように感じた。


「いつからか分からないけど、ずっとこうなんだと思う。少なくとも、何ヶ月も前から…もしかしたらもっと前からかもしれない。」


五郎は、その答えに対して慎重に頷きながら、さらに踏み込んだ。「それが、最近になってひどくなってきたと感じるのか?」


「そうだな…。特に最近は、何をするのも億劫になってきた。何を食べても美味しいと思えないし、何を見ても心が動かない。普通のことが、どんどん遠くなっていく感じがするんだ。」


その言葉を聞いた五郎は、賢治の状態が予想以上に深刻であることを確信した。感情の麻痺、記憶の解離、そして日常生活への無関心――これらは、単なるストレスや疲労では説明できないほどの深刻な心理的問題を示していた。


「その感覚をどうにかしたいと思っているか?」五郎は問いかけた。その質問には、賢治が自分の状態をどう捉えているかを確認するための意図が込められていた。


賢治は一瞬、戸惑ったように口を閉ざした。彼自身、その答えが何であるのか、明確に理解していなかった。しかし、内心では、何かを変えたいという欲求が微かに存在していることを自覚していた。


「どうにかできるなら…そうしたいとは思ってる。でも、何をすればいいのか、どうしたらいいのかが全然分からないんだよ。今まで、何をやってもダメだったから。」


その言葉には、深い絶望感が滲んでいた。彼がどれだけ自分の状態と戦ってきたか、そしてその戦いがどれほど無力に感じられたかが、五郎には手に取るように分かった。


「賢治、その気持ちは痛いほど分かる。自分で何かを変えようと努力しても、うまくいかないことが多いんだ。でも、今は一人でその戦いを続ける必要はない。俺が手助けできることがあるかもしれない。」五郎の声は、温かさと共に、どこか強い決意が感じられるものだった。


「そのために、今提案したDMのことを試してみないかと思っているんだ。お前が感じていることや、思い出している記憶、それらを少しずつ整理していくための手助けになるかもしれない。」


賢治は、五郎の言葉を静かに聞きながら、DMという未知の機械に対する抵抗感と、今の状況を打破したいという欲求の狭間で揺れていた。


「DMって、夢の中で自分を見つめ直すんだろう?でも、夢の中で自分を理解するなんて、現実ではできないことを夢でできるのか?そんなことが本当に可能なのか?」


その問いかけには、純粋な疑問と、どこか諦めにも似た感情が入り混じっていた。彼は、夢の中で自分を理解するというコンセプトが現実離れしているように感じていたが、それでも何かを変


えたいという一縷の望みがあった。


五郎は静かに頷いた。「確かに、夢の中で自分を理解するなんて、すぐにできるものじゃない。でも、その夢の中で少しずつ自分の感情や記憶に触れていくことで、現実の中で感じられなかったものが見えてくることもあるんだ。それに、今のまま何も感じないままでいるよりも、少しでも変化があるなら、その方がいいんじゃないか?」


賢治はその言葉を聞いて、しばらく考え込んだ。五郎が言うことには、確かに一理ある。



賢治は静かに、しかし確固たる意思をもって五郎の申し出に対して首を横に振った。それは、まるで内なる深淵から引き出された答えのようであり、五郎がどんなに言葉を尽くしてもその意志は変わらないだろうという冷然たる確信を伴っていた。湖畔を取り巻く薄闇の中で、その断り方にはかすかな哀感が漂っていたものの、それは同時に何かしらの決意を宿していた。


「悪いけど、今はまだ…」賢治の言葉は、途切れがちに、慎重に選ばれた言葉の断片として投げ出された。まるで一つ一つが、彼の心の重さをそのまま映し出しているかのように、慎重な選択とともに発せられている。それは言葉というより、むしろ彼自身の存在そのものを表現する行為だった。


「まだ、自分の中で整理がついてないんだ。」賢治の言葉は、五郎にとっては予想外だった。五郎は、彼がこのまま自分の提案を受け入れるとどこかで期待していたのかもしれない。だが、その期待は今や打ち砕かれ、代わりに無言の重さが五郎の胸を圧迫していた。彼の中には、不安と悔しさが渦巻いていた。なぜなら、自分の手を差し伸べたにもかかわらず、賢治がそれを受け取らなかったからだ。


五郎は、自分の感情を抑えようとするかのようにゆっくりと息を吸い込み、そして再び吐き出した。その一連の動作は、まるで湖畔の風と一体化しているかのようだった。しかし、その内面では激しい葛藤が渦巻いていた。賢治の決断に対して、彼は反論すべきか、それとも理解を示すべきか、その境界線上で揺れ動いていた。賢治の拒絶に対して、自分が何をすべきかという問いが心の中で浮かんでは消えていく。


「分かったよ、賢治。」五郎は、力なくそう言った。しかし、その声色には諦念とともに、どこか冷静さが感じられた。彼は賢治の選択を尊重しようとする姿勢を見せたが、その一方で、心の奥底では悔しさが拭えなかった。その悔しさは、単なる提案が受け入れられなかったことによるものではなく、賢治を助けることができないという無力感から生じていた。


「ただ、もしお前が話したくなった時には、いつでも俺に言ってくれ。」五郎の言葉には、友としての深い思いやりが感じられた。だが、その言葉の背後には、何かしらの焦燥感が潜んでいるようにも感じられた。彼は、賢治が今のままでは危険だという直感を抱いていたからだ。


賢治は五郎の言葉に軽く頷いたが、その表情には依然として何かしらの迷いが見え隠れしていた。五郎はその迷いを敏感に察知しつつも、それ以上追及することを避けた。自分が無理に賢治を説得しようとすれば、逆に彼を遠ざけてしまう可能性があるということを理解していたからだ。


二人の間には再び沈黙が訪れた。その沈黙は、ただの言葉の欠如ではなく、何かしらの深い感情がそこに漂っているかのようだった。湖畔の風が木々の間を通り過ぎ、遠くで鳥の鳴き声が微かに聞こえる。だが、それらの音は、今の二人にとってはほとんど感じられないものでしかなかった。


賢治の心の中では、自分の選択に対する迷いや葛藤が渦巻いていた。五郎の提案を受け入れることが、自分にとって本当に必要なことなのか、それとも今はまだその時ではないのか――その問いが、彼の中で堂々巡りを続けていた。しかし、彼がはっきりと感じていたことは、自分自身の心の中でまだ解決できていない何かがあるということだった。それを解決しない限り、どんな手段を取っても根本的な解決にはならないのではないか、そう思えてならなかった。


五郎は悔しさを滲ませながらも、賢治の心情を理解しようとしていた。その姿勢は、賢治に対する深い思いやりと共感を示していたが、同時に彼自身の無力感にも向き合わなければならなかった。それは、友としての役割を果たすことができないという苦しみであり、彼の中での葛藤が色濃く表れていた。


「俺ができることは、まだあるかもしれない。」五郎は心の中でそう呟きながら、自分が今すべきことを見つけようとしていた。彼は賢治を見つめ、その沈黙の中で何かしらの答えを探していた。だが、その答えは一向に見つからず、ただ虚無感だけが彼を支配していた。


竹山との関係もまた、五郎の中で微妙な変化を迎えていた。竹山は賢治にとって、ある種の心の支えであり、同時に複雑な感情を引き起こす存在でもあった。五郎は竹山のことをどこかで気にかけつつも、それを口にすることはなかった。それは、彼自身の中で竹山との関係性がまだはっきりとした形を成していないからだった。


竹山は、賢治にとって重要な存在である一方で、五郎自身の心の中ではある種の不安を呼び起こす存在でもあった。竹山が賢治に与える影響が、自分自身にどのように影響を与えるのか、その答えが見えなかったからだ。しかし、五郎はその不安を自分自身で処理しようと試みていた。


賢治と五郎、そして竹山の三者の関係性は、微妙なバランスの上に成り立っていた。どちらか一方に傾けば、そのバランスは崩れ、関係が壊れてしまう可能性があった。それを五郎は無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。そのため、彼は竹山との関係について深く考えないようにしていた。だが、心のどこかで竹山に対する感情が揺れ動いていることは確かだった。


竹山との関係性に変化が現れたのは、賢治との会話が終わった後だった。五郎は竹山のことを考えながら、彼との距離感が微妙に変化していることに気づいた。それは、単なる友情を超えた何かであり、自分でも説明がつかない感情だった。竹山が賢治に与える影響が、自分にも波及しているのではないかと感じ始めていた。


その感情は、どこかで嫉妬に似たものでありながらも、同時に尊敬や共感とも言える複雑な感情が入り混じっていた。五郎はその感情に戸惑いながらも、それを完全に無視することができなかった。竹山が賢治にとって重要な存在であることを理解しつつも、五郎自身がその影響をどのように受け止めるべきかが分からなかったのだ。


五郎は、その感情に対して正面から向き合うことを避け、ただ竹山との関係をこれまで通りに保とうと努めていた。しかし、心の中では何かが少しずつ変わりつつあることを感じていた。それは、竹山との関係がこれまでのようには続かないのではないかという漠然とした予感だった。


五郎の中で竹山に対する感情が変化し始めた瞬間、彼の中で何かが崩れ始めていた。それは、賢治との関係が影響していることに違いなかった。



賢治の心中には、いつの間にか積もり積もっていた重い霧のような不安が、ふとした瞬間に薄くなり、遠くへと流れ去っていく感覚が広がっていた。五郎との会話を通じて、自分の中に絡みついていた迷いが少しずつ解け、身体の中を自由に巡る風のように軽やかな感覚が戻りつつあった。それはあたかも、張りつめた静寂の湖面にさざ波が立ち、心の奥深くで眠っていた感情が呼び覚まされるような瞬間であった。すべてがその瞬間の中で、流動的でありながらも、どこか確かな手応えを持ち始めていた。


五郎の提案を断ったことによって、心の中に新たな静けさが生まれた。その静けさは、あたかも嵐が去った後の青空のように広がり、賢治を包み込んでいた。断ったという決断そのものは、ただの拒絶の行為ではなかった。それはむしろ、自分の中で何かを整理し、解放するための必要なプロセスだったのだ。自分自身との対話が未だに続いている中で、この小さな休息のようなひとときは、賢治にとって一種の気晴らしになっていた。やはり、何かを無理に進めることは、逆に自分を追い詰めることに繋がるのだろう。五郎に対して一旦距離を取ることで、賢治は自分の心の整理を試みる余裕を得たのだ。


道端に咲き誇る紫陽花の花々が、ほのかな香りを漂わせているのが鼻腔に感じられる。夕暮れの薄明かりに照らされたその淡い色合いは、疲れ切った心に染み入るような柔らかさで、まるで日常の一部に溶け込んでいるかのように自然であった。賢治の足元にカサコソと落ち葉が集まり、風に煽られて舞い上がる瞬間に、何かしらの安心感を感じた。それは、この瞬間が自分にとって一時的な休息であることを思い起こさせた。


五郎は少し先を歩いていたが、賢治がその背中を見つめると、どこか安定したリズムで歩を進めるその姿が、心地よい安心感を醸し出していた。二人の間に言葉はなかったが、その静寂が妙に心地よいものであることを賢治は感じていた。言葉を交わさなくとも、互いに理解し合うことができる関係性がそこにあった。五郎との間に存在する沈黙が、むしろ二人の絆を強くしているように感じられた。それは、彼らが言葉を超えて共有する何かであり、賢治にとっては貴重なものであった。


車までの道のりは、これまでとは異なる感覚に満ちていた。賢治の心中に漂っていた重苦しい感情が、まるで霧が晴れるように次第に薄れ、清々しい風が心の中に吹き込んでくるような感覚があった。それは、五郎と過ごした時間がもたらしたものかもしれない。五郎の言葉が心に響き、彼の真摯な姿勢が賢治に安心感を与えていたのだ。自分が何かを選び取るための猶予が与えられたことが、賢治にとって救いだった。


薄曇りの空が、夕刻にかけて徐々に晴れ渡り、橙色に染まる西の空が見えていた。遠くの山々のシルエットが、夕日の輝きに溶け込み、静かな景色を作り上げていた。自然と人との境界線が曖昧になり、賢治の心もまた、外界との一体感を感じ始めていた。心の中で蠢いていた何かが、今では静かに眠りについているかのようだった。賢治は、自然の中に身を委ねることで、自己の存在を再認識していた。


五郎が運転席に向かい、ドアを開けた音が静かに響いた。賢治も同じように助手席に座り、シートベルトを締めると、車内にはほのかなレザーの匂いが漂ってきた。それは長年使い込まれた車特有の香りであり、賢治にとってはどこか懐かしい感覚を呼び起こさせた。その香りが、車内という閉ざされた空間の中で、二人を再び繋ぎ止めているような気がした。


エンジンが静かに掛かり、車はゆっくりと動き始めた。夕暮れ時の道路は、まだわずかな光を湛えており、その光がフロントガラスを通して車内に差し込んでいた。その光が賢治の顔を柔らかく照らし、彼はふと窓の外に目を向けた。木々の影が、街路灯に照らされて揺らめき、その影がまるで水面に映る波紋のように移り変わっていく様子が、賢治の心を和ませた。静かな夜の帳がゆっくりと降りてくる中で、その光景はどこか幻想的であり、現実とは思えないほど美しかった。


五郎は、無言のまま運転を続けていたが、その表情にはどこか満足げな微笑みが浮かんでいた。それは、賢治との時間を経て、彼自身も何かしらの達成感を感じていたのかもしれない。二人は言葉を交わさずとも、その瞬間の共有が、彼らの関係をより深いものにしていた。それは、何かを強制することなく、自然と流れる時間の中で形作られるものであり、彼らの間に芽生えた信頼が、より一層強固なものになっていくように感じられた。


車が静かに走り続ける中で、賢治の心は次第に落ち着きを取り戻していった。助手席に座るその体は、まるで車の一部となり、外の景色と共に流れていくような感覚に包まれていた。遠くの街の明かりが徐々に近づき、その光が闇夜を照らし出していた。その光景は、賢治にとって一種の安らぎを与えるものであり、彼はその光の中で自分の心の中に広がる静寂を感じていた。


車が家路に向かうその道中、賢治は自分の中に溜まっていた思いが、少しずつ解放されていくのを感じていた。五郎との会話が、自分にとってどれほど大きな影響を与えたのかを、彼は改めて実感していた。自分の中で整理しきれていなかった感情や思考が、少しずつ形を成し始めていたのだ。その形はまだぼんやりとしていたが、それでも確かに存在していることを賢治は感じていた。


車内の静かな空間が、彼にとっては一種の瞑想の場となっていた。五郎の運転するリズムに合わせて、彼の心もまた静かに整っていくような感覚があった。車のエンジン音が、低く響き渡る中で、賢治の思考は次第に深くなっていった。その深みの中で、彼は自分自身と対話しながら、これからのことを少しずつ考え始めていた。

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あなたの死前喘鳴の記憶。 @StudioAMONE

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