第4話 変わる風景

第4話「変わる風景」

清子は、竹山雅治からの電話を受けるたびに胸の奥底で疼く感情に飲み込まれることを感じていた。その感情は単純な罪悪感だけではなく、彼女が人生の軸をどこかで見失い、漂うままにいたことを思い知らされる瞬間だった。雅治との不倫関係において彼女は一時的な逃避を見出したが、その代償として、家庭という名の檻から自ら飛び出し、戻ることができなくなったことに気づいていた。


携帯電話を握りしめ、雅治の名前が表示されるたびに、彼女の心は過去と現在の狭間で揺れる。受け入れるべき現実と、逃れたい欲望、どちらを選ぶべきか。そのどちらも彼女にとって正解ではなかった。彼女は電話に出ることを一瞬ためらったが、結局は指が自動的に画面をタップし、通話を開始させた。


「清子さん、元気ですか?」

電話の向こうから聞こえてくる竹山の声は、いつもと変わらない穏やかさを持っていた。その声は彼女にとって、ひとときの安息であり、同時に重たい枷でもあった。彼の言葉は常に優しいが、その優しさが彼女の内面を徐々に蝕んでいくのを彼女は感じていた。


「元気かどうか……正直、自分でもわからないわ」

清子は答えながら、自分の声がどこか遠くから聞こえるような感覚を覚えた。自分が今、誰と話しているのか、その意味を考えると息苦しくなる。雅治の存在は、彼女の心の中で現実逃避の象徴だった。だが、それは同時に彼女を現実に引き戻すための鏡でもあった。


電話越しに続く会話は、どこか形式的で表面的だったが、その裏に流れる感情の波動は深いところで繋がっていた。竹山は、いつものように清子を気遣い、彼女の悲しみを分かち合おうとする。だが、その気遣いは彼女にとって、皮肉にも痛烈な現実の一端を思い出させるものだった。


「賢治くん、大丈夫? 彼、きっと今は混乱してるんだろうね」

竹山の言葉に、清子は少し考えてから答えた。賢治のことは、今や彼女にとって最大の懸念であり、同時に手に負えない問題でもあった。彼女は息子を守るべき母親でありながら、彼に何もしてあげられない自分を感じていた。


「ええ、賢治は……少し変わってしまったわ。事故以来、あまり話さないし、学校でもうまくやっていけていないみたい」

言葉を絞り出すようにして話す清子の声は、どこか無力感に満ちていた。母親としての自責の念が彼女の心を重くしていたが、それを表に出すことはできなかった。竹山に対してさえ、彼女はその本当の感情をさらけ出すことができない。彼女の心の奥底には、深く根付いた「母親としての失格感」があった。


竹山は慰めの言葉を続けたが、それは清子の耳にはもはや届いていなかった。彼女の内面では、賢治のこと、亡くなった夫のこと、自分の不倫関係すべてが渦巻き、頭の中で無秩序に混ざり合っていた。彼女は、電話を耳に当てたままぼんやりと壁を見つめ、自分の置かれた立場を再認識しようとしたが、どれもぼやけて見えるような感覚に陥っていた。


自分の選択が間違っていたのか。それとも、これが運命というものなのか。清子は、心の奥底に押し込めてきたその疑問に答えを見つけることができなかった。彼女が求めていたのは、ただ一時的な逃避ではなく、もっと根本的な心の平穏だった。だが、雅治との関係はそれを与えてくれるものではなく、むしろその平穏を奪い去ってしまうものだった。


「清子さん……大丈夫か?」

竹山の声が、彼女の思考を中断させた。彼は、彼女が今何を考えているのかを察したのかもしれない。だが、彼にはその深層にまで到達する手段はなかった。彼はただ、表面的な言葉で彼女を慰めようとすることしかできなかった。


「大丈夫よ、心配しないで。少し疲れているだけ」

そう答える清子の声は、どこか虚ろだった。彼女自身が、その言葉に何の意味も持たないことを知っていたが、それでもそう言わなければならないのが彼女の役割だった。不倫関係における清子の立場は、常に自己欺瞞と矛盾に満ちていた。それでも、彼女はその関係を続けている。それは彼女にとって、現実から逃れるための唯一の手段だったからだ。


だが、その逃避行も限界に達していることを、清子は薄々感じていた。時間が経つにつれ、彼女の心の中で膨れ上がっていく罪悪感と、自己否定の感情は、次第に彼女の心を蝕んでいった。そして、その蝕みは、彼女の生活のあらゆる部分に影響を及ぼし始めていた。雅治との関係がどれほど彼女にとって一時的な安らぎを与えてくれるものであっても、それが真の解決にはならないことを、彼女は知っていた。


竹山雅治との会話が終わり、清子はふと息をついた。電話を切った後の静寂が、彼女の耳に心地よく響いた。それは、現実の喧騒から一時的に解放される瞬間だった。しかし、その静寂もまた、彼女にとっては耐えがたいものだった。静けさの中で、彼女は自分自身と向き合わざるを得なくなる。現実逃避の手段がない状態で、彼女は直視しなければならない。それは、自分が犯した過ちであり、その過ちの結果として訪れた今の生活だった。


清子は、深くため息をついた。彼女の心は重く沈んでいた。



竹山雅治は、常に自分の周囲に張り巡らされた精緻な構造を見据えていた。彼の生き方は、どこか機械的でありながらも一貫して目的志向であった。大手企業の若手エリートとしての顔は、彼にとって一種の仮面であり、その背後には深い計算が隠されていた。彼はただの出世を目指す男ではなく、もっと深いところで、人間という存在そのものを支配しようとしているような意識を抱いていた。


彼の計画は、何も今日から始まったわけではない。長年にわたり、彼は周囲の人間を観察し、その脆弱な部分を探りながら、彼自身の野心を遂行するための道筋を練り上げていた。清子との関係も、まさにその一環であった。彼女に対して抱いていた感情が単なる愛情や情欲ではなく、より冷徹な計算に基づいたものであることは、彼自身も自覚していた。


彼は清子と話をするたびに、その背後にある夫である仁の影を意識していた。仁という男の存在は、竹山にとって障害であり、同時に自分の計画を進行させるための駒に過ぎなかった。竹山は仁を超えることを、あるいは仁そのものに取って代わることを、いつの日からか漠然と夢見ていた。そして、今やその野望が現実のものとして具体化しつつあることに、彼はある種の興奮すら感じていた。


竹山の表の顔は、会社内での順調なキャリアパスの象徴であった。大手企業において、彼はその才能と成果をもって評価されており、次期部長としての昇進話が周囲でささやかれるほどに、彼の地位は揺るぎないものとなっていた。彼の昇進は社内の誰もが予測していたが、その背景に隠された竹山の「裏の顔」を知る者はほとんどいなかった。


竹山が最年少で部長に昇進するという話題は、社内ではしばしば取り沙汰されたが、彼自身はそれを冷静に受け止めていた。昇進そのものが彼の最終的な目的ではなかったからだ。むしろ、昇進は彼のさらなる野心を実現するための足がかりに過ぎなかった。そして、その野心とは、単なる出世や成功ではなく、人間の精神そのものを掌握することに他ならなかった。


竹山は、会社が病院と共同で進めていた「DM(ドリームマシーン)」のプロジェクトに関心を寄せていた。それは、人間の夢を直接操作し、潜在意識にアクセスすることを目指したものであり、彼にとってまさに理想的なツールであった。このプロジェクトが成功すれば、人間の思考や感情に影響を与えることが可能となり、竹山はそれを利用して自らの地位をさらに強固なものにするつもりであった。


「DMの試験運用は、賢治で行うことにするか」

竹山は一人、自宅のデスクで資料を見つめながらつぶやいた。賢治――彼は清子の息子であり、仁の子供でもあった。その存在は、竹山にとって非常に興味深いものであった。賢治は、竹山が計画する「新しい父親像」を実現するための鍵となる存在だった。仁に取って代わるだけでなく、賢治の精神そのものを自分の手中に収めることができれば、清子との関係もまた、完全に自分の支配下に置くことができるだろう。


彼の頭の中には、すでに計画が練られていた。賢治を「DM」の試験運用のデータ収集対象とし、その結果を社内で評価させることで、竹山自身の昇進に利用する――そして、その過程で賢治の精神に干渉し、彼の父親としての立場を徐々に築き上げる。竹山の野心は、こうして複雑な計算の下で動いていた。


竹山の表の顔は、周囲に対して完璧なビジネスマンとして映っていた。彼はいつも冷静沈着で、理性的な判断を下し、会社のために最善の選択を行う人間として知られていた。その態度は、同僚や上司からの信頼を集め、彼のキャリアを順調に進めるための重要な要素となっていた。しかし、その裏には、他者を操ることへの強い欲望が隠されていた。


「DM」の開発に関わる会議では、彼はあくまで冷静にプロジェクトの進行状況を確認し、データの収集方法や解析手法についても的確な指示を出していた。しかし、その裏では、彼自身がこのプロジェクトをどのように自分の利益に利用するかを常に考えていた。彼にとって、「DM」は単なる技術開発ではなく、自己実現のための手段であり、それを使って周囲の人間を支配することが最終的な目的であった。


竹山は、清子との関係もまた、この支配の一環として捉えていた。清子は感情的に脆弱な存在であり、彼女を巧みに操作することは決して難しいことではなかった。彼女が夫である仁との間に感じている距離感や孤独を利用し、竹山は彼女にとっての「新しい存在」としての立場を築いていった。清子が竹山に対して抱く感情は、愛情というよりも依存に近いものであり、彼はそれを利用して自分の思い通りに彼女を導くことができると確信していた。


竹山の裏の顔は、彼の本質を物語っていた。彼は、周囲の人間を観察し、その弱点を見つけ出しては、それを利用して自らの利益を追求することを何よりも得意としていた。彼の冷徹な計算と戦略的思考は、他者に対して一切の感情移入を許さなかった。清子に対する感情も、彼にとっては単なる駒に過ぎず、その駒をどのように動かすかが彼の最大の関心事だった。


「賢治の精神状態を操作すれば、彼は完全に私のコントロール下に置ける」

竹山は、DMの試験運用を通じて、賢治の意識に干渉する計画を着実に進めていた。彼は賢治が抱える感情的な混乱や、父親の喪失感を巧みに利用し、それをもって彼の潜在意識にアクセスしようとしていた。それによって、賢治の思考や感情を操り、自分が彼にとっての「新しい父親」としての地位を確立しようというのが、竹山の最終的な目的だった。


竹山の計画は、周到であった。彼は、仁に取って代わるという単純な願望に留まらず、さらにその先を見据えていた。賢治という存在を通じて、彼は自分の人生を完全にコントロールすることを目指していた。彼が求めているのは、単なる家庭の支配ではなく、人間という存在そのものに対する支配権だった。


そのためには、「DM」のプロジェクトを成功させ、賢治をその実験台として利用することが必要不可欠だった。竹山は、このプロジェクトがもたらす可能性に興奮しつつも、その裏で冷徹な計算を続けていた。



竹山雅治の精緻な計画は、単なる昇進や私的な利益の追求にとどまらず、彼の意識と欲望が深く絡み合う複雑な網の中で展開していた。彼の行動は、まるで一大シンフォニーの指揮者のように、周囲の人間や出来事を巧妙に操りながら進行していた。その計画の中心には、彼の有用な駒として位置づけた清子と彼女の家族があった。


飯島五郎、清子の父であり、著名な精神科医師としての彼の存在は、竹山にとって計画の中で極めて重要な役割を果たしていた。五郎はその専門的な知識と経験によって、精神科領域における最先端の治療法や技術にアクセスできる立場にあった。このような立場の五郎が、竹山の計画において重要な鍵を握っていることは、竹山自身もよく理解していた。


竹山は、まず清子との関係を利用して彼女の家族に近づくことを決定した。彼の目論見は、清子を通じて五郎との関係を構築し、その立場を巧妙に利用して賢治の精神状態に干渉することにあった。清子が竹山に対して抱く感情的な依存を逆手に取り、彼女の家族の中で影響力を持つ五郎を自らの計画に引き込むことで、竹山はさらなる地位の確立を狙っていた。


竹山は清子との関係を進展させると同時に、五郎との接触を持つための巧妙な計画を練り上げた。清子を通じて、彼は五郎に対する「友人としての相談」という形で接触し、賢治の精神的な問題を取り上げることにした。これによって、五郎に対して自らの意図を自然に伝え、賢治の状態に関する情報を得るとともに、五郎の協力を取り付けるという二重の目的を果たそうとしていた。


竹山は、まず清子に対して自らの意図を明かさずに、賢治の精神的な状態についての「相談」を持ちかけることに決めた。彼の目的は、賢治の精神状態を五郎に診てもらうことで、その後のDMプロジェクトの実施に向けた土台を築くことにあった。竹山は清子に対して、「賢治の心のケアをしっかり行うために、専門的なアドバイスが必要だ」と説得し、五郎に対するアプローチを促した。


「清子さん、賢治の状態について、どうしても専門的な意見が必要な気がするんだ。私も少し心配になってきたし、あなたのお父さんである飯島先生に相談してみるのはどうかな?」

竹山は清子に対して、あくまで心配する友人の立場からこの提案を行った。その表情には、真摯な関心とともに、巧妙に隠された計算が見え隠れしていた。清子は、竹山の言葉に不安とともに納得し、彼の提案を受け入れる決意を固めた。


清子は竹山の提案を真剣に受け止め、五郎との接触を試みることにした。彼女は父に対して賢治の状態について相談し、竹山が心配していることを伝えた。五郎は最初は軽く受け流していたが、娘の懇願と竹山の存在が重なり合うことで、次第にこの問題に対する真剣な対応を始めた。


五郎は、自身の専門知識を生かす形で賢治の状態を診断することになった。この段階で、竹山の計画は次第に具体化し、彼の意図を実現するための基盤が整いつつあった。五郎は竹山からの情報をもとに、賢治の精神状態を評価し、その上で「DM」の利用を提案することになった。


「賢治君の精神状態を詳しく評価するためには、DMのような先進的な医療機器が役立つかもしれません」と五郎は竹山に対して話した。この発言には、彼自身の専門的な知識とともに、竹山が企てている計画に対する潜在的な同意が含まれていた。五郎は、「DM」が政府機関で既に利用されていることを知っており、その効果についても理解していたが、その内容が非公開であったため、彼自身もこの機会を利用して新たな知見を得ることに興奮を覚えていた。


竹山は、五郎が「DM」の試験運用に賢治を参加させることを決定するよう、巧妙に仕向けた。竹山にとって、「DM」は単なる医療機器ではなく、自らの計画を実現するための重要なツールであった。このプロジェクトが成功すれば、賢治の精神に干渉することができ、またその結果を利用して自らの地位を強化することができると信じていた。


五郎は、竹山の提案を受け入れ、賢治に対して「DM」の利用を進めることを決定した。彼自身がこのプロジェクトに関与することで、先進的な医療技術の導入に貢献することができると同時に、自身の専門的な地位も高めることができると考えた。竹山にとっては、五郎がこの計画に参加することで、賢治の精神状態に対する干渉が可能となり、自らの計画が一層現実味を帯びることとなった。


竹山は、五郎が賢治に対して「DM」を使用することを決定した後も、その結果を慎重に監視し続けた。彼は、自らの計画が着実に進行していることに満足しながらも、その結果がどのように展開するかを見極めるために、冷静に状況を見守る姿勢を崩さなかった。


「DM」の試験運用が開始されると、竹山はその進行状況を細かく把握し、賢治の精神状態に対する影響を評価した。竹山にとって、賢治の精神状態の変化は、彼の計画がどれほど成功しているかを示す重要な指標であり、その結果が彼の地位や影響力に大きな影響を与えると考えていた。


五郎にとっても、「DM」の利用は新たな挑戦であり、彼自身の専門的なキャリアにとって重要な意味を持っていた。彼はこのプロジェクトを通じて、精神科領域における最先端の技術を導入し、またその結果をもって自己の地位を高めることができると考えていた。五郎は竹山と協力しながら、賢治の精神状態に対する干渉を進め、その成果を評価することに専念していた。


竹山の計画は、こうして着実に進行し、賢治の精神状態に対する影響を通じて、彼自身の地位と影響力を確立するための道筋を着々と整えていた。その背後には、竹山の冷徹な計算と戦略的思考があり、彼の意図が如何に巧妙に周囲に働きかけていたかが示されていた。



賢治が父親の記憶を追い求める日々が続く中で、彼の心は次第に暗い雲に包まれていった。精神的な苦痛と孤独感が日々の生活に色濃く影を落とし、彼の内面は微細な亀裂を生じつつあった。父親の失踪とその影響によって引き起こされた感情の波は、賢治の心の奥深くで静かに広がり、確実に彼を蝕んでいった。


清子の実家に引っ越した後、賢治の心の中にあったわずかな希望の光は、時間とともに次第に曇り、霧に包まれていった。彼は日々の生活を営みながらも、心の中で抑えきれない混乱と無力感に苛まれていた。記憶の断片は不確かで、現実と幻覚の境界が曖昧になっていく感覚が、彼の精神を徐々に蝕んでいた。


賢治の視界は、ますますぼんやりとしたものとなり、世界が彼にとって無意味なものに変わりつつあった。学校でのいじめや冷淡な視線、社会からの疎外感は、彼の心に深い傷を残し、彼の精神的なバランスを崩壊させていった。毎日のように襲いかかる孤独と絶望は、彼の心に影を落とし、内面の安寧を奪っていった。


賢治の部屋に閉じこもる時間が長くなるにつれ、彼の精神状態はますます不安定になり、心の奥底に潜む虚無感が表面化していった。彼は自己の存在価値について考えることが増え、何のために生きているのか、どうして自分がここにいるのかが次第に理解できなくなっていた。思考の奥深くで、漠然とした不安と恐怖が渦巻き、彼の内面は次第に疲弊していった。


ある日、賢治はリモート授業中に外の風景を無表情に眺めていた。講師の声が耳に入ることはあっても、その内容に対する理解力は失われており、授業に対する関心や集中力は皆無だった。視線を外に向けることで、自分の心の中に漂う漠然とした感情から逃れようとしていたが、その無為な行為は彼の心をますます深い穴に押し込む結果となった。


賢治は家の外の風景をぼんやりと見つめながら、その景色が彼の心に与える影響を全く感じることができなかった。彼の思考は夢の中で漂っているようで、現実世界との接触が次第に薄れていった。外の風景がただの景色であることを彼は知っていたが、その風景が彼の心に何の意味も持たないことを痛感していた。心の中で、彼の存在そのものが意味を持たないように感じられた。


土曜日には、賢治は父親と過ごした思い出の場所である日土町に向かう決意をした。彼の心には、そこに残された記憶を掘り起こし、失われた過去を取り戻すことで、心の平穏を取り戻そうという淡い期待があった。しかし、その期待は次第に消え去り、彼が訪れた場所ではただの空虚が広がっているだけだった。


賢治が日土町に到着すると、そこにはかつての思い出が色濃く残る風景が広がっていた。しかし、記憶の断片を繋ぎ合わせる試みは、彼にとって虚しいものでしかなかった。風景は変わらずに存在しているが、その風景と彼の心の中に残された記憶との間には、埋めようのない深い溝が存在していた。彼の心は、その溝を埋めることができず、恐怖と絶望に満ちていた。


帰りのバスが来る時間が迫る中、賢治は一旦の落ち着きを取り戻すために、その場にぼんやりと立ち尽くしていた。心の中で漂う不安と恐怖は、彼の精神を圧迫し、再び自分自身を取り戻すことができるのかという問いに対する答えを見つけることができなかった。結局、彼は急いで下町に降り、帰りのバスに間に合わせるために焦燥感に駆られながら実家に帰ることとなった。


日曜日には、賢治は実家にあるアルバムや写真を探し回り、父親の痕跡を追い求める作業を続けた。彼の手はアルバムのページをめくり、写真の中の過去の瞬間を一つ一つ追いかけるが、それらの思い出は次第に曖昧で遠いものに感じられた。写真の中の父親の笑顔や楽しそうな姿は、賢治の心に深い感慨を呼び起こすことはあったが、その感情の奥には依然として漠然とした喪失感が渦巻いていた。


賢治は、自分自身の内面を見つめ直すために、生活の中で微細な変化を加えながらも、その心の中で抱える虚無感や不安と戦い続けていた。彼の精神状態は、次第にうつ病の兆候を示し始め、その影響は彼の日常生活にも明らかに表れていた。彼は自己の存在意義を見失い、日々の生活がただの儀式のように感じられるようになっていた。


心の奥底にある不安や恐怖は、彼が自分自身と向き合う際に常に付きまとい、その影響は彼の全体的な精神的な健康に暗い影を落としていた。賢治は、失われた過去と向き合うことで、心の平穏を取り戻そうとする試みを続けるが、その試みは次第に彼をますます深い絶望へと導いていく結果となっていた。


このようにして、賢治の精神状態は、彼が抱える内面的な葛藤とともに、さらに深刻な段階へと進展していった。彼の心は、過去の記憶と現在の現実との間で揺れ動き、その結果、彼自身の存在の意義を問い続けることとなった。彼の内面に広がる暗い雲は、日々の生活の中で次第に濃くなり、彼の心を蝕んでいく様子がそこにあった。

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