①②③④⑤⑥⑦
①
有料老人ホーム「みんなの家」は、今日も戦争のような慌ただしさです。職員のお兄さん、お姉さんは、休む暇もなく働いています。
「みんなの家」に住む人達は、車椅子で生活したり、病気があって元の家では暮らせなかったり、それぞれの事情を抱えています。それでも、皆、毎日楽しく暮らしています。職員のお兄さんやお姉さんが働いてくれるお蔭です。そんな皆のお蔭で、職員のお兄さんやお姉さんも、仕事が忙しくても笑顔を忘れずにいられます。
「冬子さん……フユちゃん!」
職員のお姉さんが、杖をついた小柄なおばあちゃんを呼び止めました。フユちゃんと呼ばれたおばあちゃんは、くるりと振り返り、にこっとお姉さんに笑いかけました。
「お姉さん、心配しないでね。すぐに帰ってきますから」
お姉さんはフユちゃんを止めようとしましたが、車椅子の人が前を通った際に、フユちゃんは「みんなの家」から出てしまいました。
②
フユちゃんは、春風をたくさん吸い込みました。
今日は久しぶりに良い天気です。
フユちゃんは、自分が「みんなの家」に来た日のことを思い出しました。あの日も、こんな風に良く晴れた春の日だったのです。
戦争でお父様やお母様と離れ離れになってしまったフユちゃんは、しばらくの間、教会でお世話になっていました。
フユちゃんの他にも、お父さんやお母さんと離れ離れになってしまった小さい子ども達が何人もいました。教会の人達は、フユちゃんみたいな人にも優しくしてくれましたが、食べ物が少なくて貧しい生活に苛立つようでもありました。
教会の生活は、長いような短いような、不思議な感じでした。生まれて初めて、お父様やお母様と離れていたせいだ、とフユちゃんは思っています。
良く晴れた春の日、「みんなの家」の職員のお姉さんがフユちゃんを迎えに来てくれました。足が悪く、杖をついていたフユちゃんを、「みんなの家」のお姉さんは嫌がらずに寄り添って歩いてくれました。教会の人達は、フユちゃんが歩くのが遅いからと、先に行って待っていました。そういうものだと、フユちゃんも納得しようとしていました。でも、違ったみたいです。「みんなの家」のお姉さんがフユちゃんのペースで歩いてくれるのが、フユちゃんは嬉しかったのです。
「みんなの家」に住む人は、フユちゃんのように足が悪くて杖を使う人もいれば、自分で歩ける人もいます。ただ、皆さん体が弱く、職員のお兄さんやお姉さんのお手伝いがなければ生活できません。それなので、皆さんは職員のお兄さんやお姉さんに大変感謝しています。 皆さんは、職員のお兄さんやお姉さんがいないところで額を寄せて相談しました。どうすれば、お兄さんやお姉さんにお礼ができるのか。そこで、フユちゃんが立候補しました。
「わたしが外に出て、贈り物を買ってきます!」
③
フユちゃんがいなくなったことで、「みんなの家」は大騒ぎです。
「どうしよう。私が冬子さんを止められなかったから」
若い職員の秋穂さんは、真っ青な顔になってしまいました。フユちゃんが目の前にいたのに止めることができず、離設を許してしまったからです。
「秋穂さん、自分を責めてはなりません。まずは、職員で話し合いましょう」
「みんなの家」の施設長、春美さんが、職員を集めて会議を始めます。
「じゃあ、情報を共有しましょう。離設されたのは、市川冬子様。要介護二。身の回りのことはほとんど自分でできますが、認知症と記憶障害があり、ひとりで生活するのが難しい状況です。本来なら、『何々さん』と呼ばなくてはなりませんが、冬子さんは『フユちゃん』と呼ばれないと、自分が呼ばれたと認識できません。それなので、職員の皆さんにも『フユちゃん』呼びをお願いしています。
「だから、先程」
秋穂さんは思い出しました。冬子さん、と呼んでも振り向かなかったけれど、フユちゃんと呼べば振り向いてくれました。
「冬子さん……フユちゃんは戦前の生まれで、子どもの頃に空襲から逃げる際に転んで怪我をしてしまい、片足が不自由になってしまいました。リハビリのお蔭でかなり歩けるようになりましたが、今も杖が必要です。それに……これが一番重要なのですが」
絶対に外部に漏らさないで、と釘を刺し、春美さんが声を小さくします。
「冬子さんは子どもの頃の記憶しかありません。冬子さんは自分のことを少女だと思っており、「みんなの家」は児童養護施設、入所者様は体の弱い子達、という認識です」
やっぱり。秋穂さんは、自分の感じ方が間違っていなかったと思いました。
④
フユちゃんは、すぐに困ってしまいました。フユちゃんはこの辺りの生まれではありません。地図を持たず、土地勘もなく、どこにお店があるのか、全くわかりません。とりあえず、閑静な住宅街を歩きます。
「みんなの家」の近所を、お兄さんやお姉さんと一緒に散歩したとき、フユちゃんは生まれ故郷と全然違うと思ってしまいました。
フユちゃんが生まれたのは、教会が多い坂道の港町です。潮風が吹き、汽笛と波の音と、人々の賑やかな活気ある町でした。ところが、戦争が始まり、故郷の町は空襲に見舞われてしまいました。フユちゃんが足を悪くしたのも、防空壕を目指して逃げている最中に坂道で転び、大怪我をしてしまったからです。
戦争中の出来事は、思い出したくないくらい悲惨な記憶です。いつも思い出さないようにしているのに、何もない瞬間に思い出し、そのたびにフユちゃんは苦しくなります。苦しくなったとき、「みんなの家」のお兄さんやお姉さんがすぐにかけつけて「フユちゃん、大丈夫ですよ」となだめてくれます。でも今は、お兄さんもお姉さんもいません。
「大丈夫。フユちゃんは大丈夫ですよ」
フユちゃんは自分で自分をなだめます。お兄さんやお姉さんが、フユちゃんにしてくれたように。
時間がどれだけ経ったのか、フユちゃんにはわかりません。お日様がまだ南の空にいるみたいなので、あまり時間は経っていないのかもしれません。
フユちゃんの近くを通った車が、急に止まりました。
「こんなところで、どうしたの!」
運転席から降りてきたのは、フユちゃんのお母様より歳を取ったおばさんです。知らない人のはずなのに、どこか懐かしい感じがします。
「仕方ないわ」
おばさんは溜息をつき、しゃがみこんでフユちゃんと目を合わせ
⑤
てくれました。その眼差しもまた、フユちゃんのお母様に似ていました。
「ところで、冬子さんのご家族様にご連絡は?」
秋穂さんに訊かれ、施設長の春美さんは首を横に振りました。
「電話をかけたのだけど、つながらないの。娘さんはお花屋さんをやっているから、もしかしたら配達の最中なのかもしれない」
「冬子さん、お子さんがいらっしゃるんですか!? てっきり、あの人は姪御さんなのかと……」
「あ、いや、姪でもあるんだけど」
春美さんは歯切れ悪く、読んでおいて、と分厚いファイルを事務所から出しました。
「そろそろ、冬子さんを探しに行きましょう。秋穂さんは、それを読み終えたら出発してちょうだいな」
「春美さん……ごめんなさい。皆さんの足を引っ張ってばかりで」
「そんなこと、ないわ。秋穂さんがすぐに冬子さんの離設に気づいたから、初動が早くできたのよ。秋穂さんも、介護というチームの一員なのよ。これからも、よろしくね」
春美さんにフォローされても、秋穂さんのしぼんだ気持ちは戻りません。でも、泣いている場合ではありません。フユちゃんの情報が載ったファイルを確認して、皆の役に立てるように努力することに決めました。
市川冬子様――フユちゃんは、二十歳で結婚し、一男三女をもうけました。そして、末っ子の三女を、子どものいない兄夫婦の養子に出したのです。フユちゃんは夫にも、三人の子どもにも先立たれ、存命の血縁者は、養子に出した三女の千夏さんだけになってしまいました。
千夏と名乗ったお花屋さんのおばさんは、フユちゃんを車に乗せ
⑥
てくれました。
「少し、うちで休んでいきなさいよ。顔色が悪いわよ」
「おば様、お心遣い痛み入ります」
「ずいぶん難しい言葉を使うのね」
おばさんの車に乗せてもらって着いたのは、小さなお花屋さんでした。色とりどりのお花に迎えられ、フユちゃんは思わず笑顔になってしまいます。
「ここ、座って。お茶でも飲んでいきなさい」
「おば様、ありがとうございます」
小さなテーブルに杖を立てかけ、フユちゃんは椅子に腰を下ろしました。
「おば様、このお花はいくらなの? わたし、贈り物を探しているの。『みんなの家』のお兄さんやお姉さんにお世話になっているから、そのお礼に贈り物をしましょう、と皆でお話ししたのよ。それで、わたしが代表して贈り物を探すことにしたの」
おばさんは静かにフユちゃんの話を聞き、少し考えてから口を開きました。
「贈り物、良いわね。やりましょう。ここの花、好きなだけ使ってちょうだい。素敵な花籠をつくりましょう」
「おば様、花束のお代は?」
「お代は要らないわ。おばちゃんは、あなたのまっすぐな感謝の気持ちに心を打たれました。協力させてちょうだい」
おばさんは、フユちゃんのお母さんと眼差しが似ていますが、さばさばとした喋り方は似ていません。でも、優しい人です。
フユちゃんは、おばさんと大きな花籠をつくり、ワゴン車の後ろの方に花籠を乗せました。「あら、お姉さん!」
出発してすぐ、道端にいた「みんなの家」のお姉さんを見つけました。
「お姉さん、ただいま。『みんなの家』の皆さんとおば様から、お花の贈り物です。お姉さん達、いつもありがとう!」
⑦
お姉さん――秋穂さんは、ただただ戸惑うばかり。見知らぬ車の助手席の窓が開いてフユちゃんが顔を覗かせたことも、突然お礼を言われたことも、運転席から降りてきた女性のことも。
「お久しぶりです。市川冬子の家族の、千夏です」
「あ、あなたが」
例の、養子に出された娘さん。秋穂さんにとって、そんな認識の人。
「『みんなの家』から電話があったのに、着信に気づかなくて申し訳ありません。ちょうど、配達のために車を運転していたところだったので」
「ですよね。お忙しいところ、申し訳ありません」
「こちらこそ、冬子がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
いつの間にかフユちゃんが車から降り、ワゴン車の後方のドアを開けようとします。千夏さんは「おうちに着いたら開けようね」と止めました。
「みんなの家」では、皆がフユちゃんの帰宅を待っていました。
入所者の皆さんは、大きな花籠を持ってきたフユちゃんを拍手で迎え、職員のお兄さんとお姉さんは何事かと驚いた後に大きな溜息をつきました。
「千夏さん、本当に申し訳ありませんでした。お花のお金もお支払いします」
施設長の春美さんは深く頭を下げました。
「お金なんて、要らないです。冬子の家族として、差し入れです」
千夏さんはフユちゃんを見て、目を細めます。
「冬子は大人になったことを忘れているのに、ここの人達に優しくしてもらったことは覚えているんです。冬子の人生は大変だったけど、今が幸せみたいです。これからもよろしくお願いします」
「みんなの家」は今日も大忙しです。でも、皆が皆に感謝する家で、皆は今日も幸せです。
フユちゃんからの贈り物 紺藤 香純 @21109123
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