第108話 オジさん騎士は世界を滅ぼす陰謀に対抗したい 9-3



 もし逆に1クローネ銅貨が銀貨や金貨に変えられていたら、それをつかまされた者は大損することになる。


 商人たちは血眼ちまなこになって贋金にせがねを排除したに違いない。



 だがこの策の巧妙なところは、偽銅貨を手に入れれば手に入れるほどもうかってしまうところだ。


 労せず銀貨や金貨が手に入ることで、利にさとい商人達から理性を奪い去ってしまった。



 間もなくバザールは破綻はたんし、商人たちはまとめて路頭に迷うだろう。


 都市銀行はそれを支えきれず、食料の流通も止まる。


 そうなれば大量に抱え込んだ避難民ごと数十万ものたみが、丸裸で砂漠に放り出されるも同然だ。



 この生命をこばむ過酷な環境にカガラムが繁栄はんえいしてこられたのは、ひとえに経済あってのことなのだ。



生憎あいにく、巻き込まれるのはカガラムのたみだけでは済まないだろうな」


「なに? これ以上、なにが起きるという!?」



 〈ニースベルゲン〉に流通するすべての貨幣かへいは、霊印れいいんによって価値を保証されている。



 この貨幣かへい価値かち暴落ぼうらく

 異常なまでの物価上昇。


 食料の暴騰ぼうとうによる影響は、人々に狂乱とパニックを引き起こすだろう。



 それはオジにも想像できる話だった。



「狂乱はやがてこの商業都市が抱える流通という大動脈を通じ、巨大な津波となって〈ニースベルゲン〉全土へ広がるはずだ」


「バカな……全土、だと?」



 ファタルは、大陸全土を巻き込む途轍とてつもない規模の大不況――


 世界恐慌せかいきょうこうを引き起こす恐れさえあるというのだ。



 オジにはもはや想像を絶する事態と言えた。


 それでも貧しさというものが、どれほど多くの人から命を奪い、倫理観りんりかんを破壊してしまうかは肌感覚で理解できる。



 食料が買えなければ、人は死ぬ。


 生きていけないとなれば、人は自分の子供さえも売り飛ばすのだ。



「それも被害にうのは、おそらく数百万といった規模だろう」


「ど、どんな自然災害も、それほど多くの人を巻き込んだりはせん!

 それでは、まさに人災じんさいではないかっ」



 数百万……それはただの数字ではない。


 一人一人が違った顔を持ち、一人一人に名前があって、家族を持ち……笑いながら食卓を囲んでるはずの人たちなのだ。


 それがまとめて数百万もの規模で失われるというのか。



 たちまち視界がゆがし、眩暈めまいを起こしてしまう。


 もはや地面の存在さえあやふやに感じられるほどだ。


 かろうじて倒れずに済んだのは、会議机に両手を突いて身体を支えていたからだ。



 貧乏貴族の次男坊に過ぎないオジにさえ、その程度の良識と為政者いせいしゃとしての責任感はあるのだ。


 なのにまさかローエン大公は、自分が災禍さいか元凶げんきょうとなることに気がついていないのか?



 いや、とてもそうは思えない。


 軍閥ぐんばつ領袖りょうしゅうたるローエン大公に、その程度の想像力もないとはそのほうがしんがたい。



 なのに、たかが一戦。


 この戦争に勝ち、燃える水を独占するためだけに、そこまでやるというのか!



「帝国とて……ローエン大公とてっ、無傷ではいられんではないか!?」

「ニルス神札しんさつだよ」



 オジは予想外の方向から鈍器どんきなぐられたような衝撃に思わず顔を上げていた。



「旧来の貨幣かへいを使った取引をすべて禁じ、今後はニルス神札しんさつを使った取引だけを認めることにするんだ。

 同時に、今ある貨幣かへいをすべてニルス神札しんさつに交換してやるとれを出す。


 もちろん交換比率はイーブンとはいかない。

 そのとき物価が十倍なら、100クローネ銀貨を10クローネ神札しんさつに交換するとかな。

 そうすれば、元の貨幣かへい価値かちに無理やり引っ張り戻せる」


「待て、ファタル」


「ああ、かなり強引な手だってのはわかってるさ。

 違反する者が出たら斬首ざんしゅだとか、厳しい刑罰けいばつさなきゃいけなくなるだろう。


 これを全世界の都市で行えば、かねで世界を支配できてしまうわけだ」


「そのために、あえて?

 その世界せかい恐慌きょうこうを起こそうとでもいうのか!?」



 絶望につぶされそうになるのを、オジは危うく後ろ足で踏ん張って耐えた。



「だが待て! 待ってくれっ、それ以前の問題なのだ!

 ニルス神札しんさつは、ローエン大公が皇帝陛下の許可なく発行してるものなんだぞ」



 それが国外に出回るということは、ヤツを……あの卑劣漢ひれつかん国家こっか元首げんしゅと認めたも同然ではないか。


 その上、皇帝陛下の頭を跳び越し、世界を支配しようとでも!



 だが思考の片隅では、敗北を認めるほうが小さく抑えられるとわかっていた。



 それでも食い下がるのは、ファタルとて同じ思いと信じるからだ。


 なにせ商業都市であるカガラムが他国で発行される貨幣かへいを受け入れるということは、無条件降伏に等しい。


 それはこの都市にとって、死を意味する。



 ファタルにとって、カガラムとは見殺しにしていいような街だったのか!



「お前まで、ローエンなどに降伏する気なのか?」


「それを直接勧告されちまったんだよ。

 受け入れれば、たぶんこういう話になる」



 するどい視線が熱を帯び、ふたりは血走った瞳でにらう。


 それでも互いに怒りを向けるべき対象が、目の前の男でないことはわかっていた。



 ファタルとて、こんな勧告は即座にけてやりたかったはずだ。


 だがその瞬間、今度は世界せかい恐慌きょうこうへ続く破滅の道を歩むことになってしまう。



 なお悪辣あくらつなのは、その引き金を敵であるこちらにゆだねている点だ。


 ローエン大公は自領の民をも巻き込み、世界そのものを人質にとるような真似をしておきながら、引き金だけはこちらに引かせようとしている。



 やれるものならやってみろと言わんばかりに。



 正気を逸脱いつだつし、狂気の領域に踏み込んで圧力を加え、そのおぞましさをもってカガラムは追い詰められつつあった。



 ローエン大公はこちらの想像の上を行き、戦いではなく、経済によってこちらの急所にやいばを突き立てようとしていた。



 オジはそれを決して深慮遠謀しんりょえんぼう神算しんさん鬼謀きぼうなどとは呼びたくない。


 たみの命を、彼らにも幸せを願う気持ちがあることを、いや、存在そのものをあまりにもかろんじている。



 あの小男には邪智じゃち暴虐ぼうぎゃくという言葉こそが、ふさわしい。



「他に手はないのか、ファタル?

 ヤツにだけは……ヤツにだけは決して、たみの命をゆだねてはいかんのだ。

 まして、世界を治めさせるなどっ」


「あるぜ」



 そのときファタルが浮かべた笑みに、皮肉げなニュアンスはなかった。


 代わりに希望の光も、勝利の女神による寵愛ちょうあいも感じられない。



 まさに笑うしかないという、あきらめの笑みがぽっかりと浮かんでいた。



「いよいよ、俺がファラオになるしかないらしい」



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