Utopia believer

平山芙蓉

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 しとしとと降る雨が、窓を濡らす。空は掃除をサボったツケのような雲で塞がれていて、太陽は欠片も見えない。ただでさえ年がら年中薄暗い上司の部屋は、さらに数段階、明度が落ちていた。おまけに、プリントアウトしたコピー用紙が、焼かれた蛸の足みたく、端が曲がってしまうくらい、湿気も酷い。


 首を絞めつけるネクタイを緩めて、ローテーブルの一番上に置かれた紙を手に取る。文書の左上には、少女の写真が載っていた。光を通さない真っ黒の髪と、対照的な雪原のように白い肌。瞳はカメラの向こう側に人がいることを意識しているのか、真っ直ぐに据えられている。写真の横に、名前が書いてあった。ここ数日、あらゆるメディア媒体で目にした名前と顔だ。


「どうして今更、こいつのプロフィールなんて持ってきたんです?」


 机の向こうで立ったままの上司に、僕は質問する。部屋へ呼んだくせに、彼はこの書類に目を通せと命令したきり、お気に入りのジッポライタの手入れをしていた。現在時刻は十三時。絶賛、勤務時間中。良いご身分だ。


「お前はよく知ってると、思ったんだがなぁ」片目を細めて、慎重にフリントを穴へ入れながら続ける。「始末しろ」


「そんなこと、状況を見れば分かります。僕が言いたいのは……」


「どしてうちが、一枚噛むのかって話か?」


 食い気味に答えた上司の言葉に、僕は辟易する。ライタの手入れは終わったらしく、ようやく彼は僕へ視線を向けた。鸚鵡おうむのように飛び出た眼球と、焦げたカラメルみたいな瞳には、何も映っていない。僕も、部屋の様子でさえも。


「上が取ってきたんだよ、国の仕事を、な」彼はライタを手にした指で、ピンと上階をさす。


「まあ、それだけのことをしたのは分かりますが……」


「別に、処分できるのなら、誰でも良かったんだろうよ。でもな、うちは破格の金額を提示してまで、取ってきたんだ」


 上司は口を閉ざすと、片方の眉を吊り上げ、無言の質問を僕に投げてきた。感情の籠っていない、筋肉を作業的に動かしているだけみたいな表情だ。彼の元で働いて、もう五年になるけれど、未だに慣れない。


「……国相手に貸しを作るためですか」


「成功すれば、信頼もついてくる」僕の答にさほどの興味はなかったらしく、視線は既に、ライタのキャップを弄ぶ手に注がれていた。「これから、ああいう馬鹿な真似事をする輩をどうにかする役割だって、回ってくるってことだ。それにな、国のお墨付きって文言を得られるのは、この界隈じゃ対外的にも良い」


 心底自分が、単なるプレイヤーで良かったと思った。諸々の策略やら政治まで考えていたらきっと、僕はこの仕事をすぐに辞めていたに違いない。


「それで、潜伏場所の見当は付いているんですか?」僕は書類をテーブルの上に戻して聞いた。


「お前なら調べるまでもないだろ?」


「善は急げ、ってことですね」あからさまな皮肉に、気付かないフリをして立ち上がる。


「慌てて掴もうとして、尻尾をすり抜けるなんてことがないようにな」


「そんなことにはなりませんよ」


 そう言い棄てて、部屋のドアへと歩いて行く。上司はそれ以上、何も言わなかった。けれど、ライタへ向けられていたあの視線が、僕の背中をじっとりと濡らすほど、注がれているのだけは犇々と感じられた。


 正直に言えば、気が進まない。なまじっか彼女のことを知ってしまっているからだ。それは、連日の報道で飽きるほど見聞きしているという意味合いだけではない。もっと僕のプライベートな部分に関わっている。もしかすると、会社も上司も、そのことを理解して仕事を振ってきたのだろうか? 有り得ない話ではない。上司の口振からして、十中八九当たっている。巷を取り巻く陰謀論を信じるより、根拠としては適切だ。


 もちろん、そんな僕の事情や背景なんてものは、車の飾りと同じで仕事をする上では何ら関係はない。人間である以前に、僕は会社の道具であり、更に大きな社会の枠組みの、ほんの小さな部品なのだ。そこに葛藤や言い訳なんて単語を附随させるのは、ケーキにチリソースをかけるみたく馬鹿げているし、認められない。


 ドアノブに手をかけて部屋を出ようとした時、上司におい、と呼び止められた。


「しくじるなよ」


 短く伝えてくると、彼はスーツの胸ポケットから煙草の箱を取り出し、一本咥えて火を点けた。吐き出した煙は、深海を漂う海月のように天井を泳いでいる。外の雨音が、一層強くなった。


 気の利いたことでも言ってやろうとしたけれど、口を噤んでおく。


 預言者めいたその瞳の前では、どんな言葉も無駄になるだろうと、予感があったからだ。


 後ろ手にドアを閉めて、息を吸う。


 脳裏にはまだ、あの少女の顔があった。


 写真になかった、彼女の笑顔が。



 夕方になると、雨は小降りになった。それでも、分厚い雲は依然として、独裁国家の首相のように街を覆っており、いつまた降り出すのか、という不安は拭えない。


 駅の改札を出ても、人混みのせいであまり解放感はなかった。蒸し暑い空気で噴き出た汗のせいで、シャツが肌に張り付いて不快だ。この調子なら、傘を差す必要なんてないだろう、と判断して、僕は雨に濡れながら待ち合わせ場所を目指して歩く。


 北へと向かうと、五分もしないうちに繁華街へ足を踏み入れた。立っている人間も、大半以上が待ち合わせという雰囲気はなく、獲物を狙う爬虫類めいた、ぎらつく思惑の透けたキャッチばかりになる。そいつらが傘を差しているせいで、道幅は昼間に通るよりも格段に狭い。蟻の巣だってもうちょっと、往来に適した造になっているだろう。


 騒がしい大通を何とか抜けて横道に入る。背の高い雑居ビルたちに挟まれた路地だけど、キャッチがいない分、かえって歩きやすい。代わりに、溝から漏れる臭が酷く、丸一日でもここにいれば、服に染み付いてしまいそうだ。


 目的のビルは、路地の突き当りにあった。この辺り一帯の土地開発の際に建てられた、僕の倍くらいの年月を重ねたビルダ。五階より上がアパートで、その下には飲食店や怪しい店がテナントとして入っている。外観はお世辞にも綺麗とは言えない。でも、テナント部分の至るところから突き出た看板の光が、どこか不思議な妖艶さを放っていた。今なら誘蛾灯に惑わされる虫の気持ちが、少し分かる。


 腕時計で時間を確認すると、針は待ち合わせよりもかなり早い時刻を指していた。これには自分でも、驚きやら呆れやらを覚えた。体感では丁度良い時間のつもりだったからだ。


「浮かれているのか……」


 口の中で小さく独り言ちて、来た道を振り返る。待ち合わせ相手――、あの少女の姿は、どこにもいない。


 連絡をしたのは、僕の方からだった。大学時代に使っていた携帯のアドレス帳で、彼女の連絡先を見つけ、電話をかけた。指名手配中だというのに、番号は変わっていなかった。変わっていなかったのは、番号だけじゃない。落ち着いた中に幼さの残る声も、笑みの雑じった喋り方も、凍土で発見された花のように、変化がなかった。


 電話での会話は数分だったのに、僕は自分が変わってしまったことを実感した。少なくとも、彼女の隣を歩いていた頃の自分はもういないのだ、と。自分の理想とする世界を作るなんて思想を、素敵だと思えないし、ましてや実行に移してしまった彼女に対して、正直に馬鹿だという感想を抱いている。


 彼女からすれば、そんな僕こそ愚鈍の象徴なのだろう。自らを信じずに、世界の言いなりになり、その枠組みの中で起こったことに、一喜一憂する。彼女と出会ったのが当時の僕だったら、見向きもされなかったに違いない。


 だけど、現実というルールブックに則る以上、このゲームでの僕の在り方は、至って普通のことだ。大通を歩く通行人たちも、僕の勤務先の同僚たちも、遅かれ早かれ、その生き方をしなければならないと気付き、自分というローカルルールを棄て去る。そして、誰かの作ったその仕組みを、受け入れられない人間から、弾劾されていく。


 彼女だって例外ではない。


 懐のホルダに入れたピストルを、スーツの上からそっと撫でる。僕からの誘いにやってくるなんて、本気で思っていない。もしも僕が相手の立場なら、罠だと考えるだろう。そもそも、電話にさえ出ない。だから、自分でもこんなやり方は、目を瞑ってホームランを打とうとするようなものだと理解している。


 それでも、僕は彼女にもう一度だけ会って話をしたかった。


 たとえ、どれほど明け透けな結末だっとしても。



 時間になるまで、ビルの前で煙草を吸ってから、ビルの中にあるバーへ入った。カウンターに八席ほどと、テーブル席が二つだけの小じんまりした店だ。暖色系の間接照明がいくつか灯っているだけで、陽が沈んだ直後のような薄暗さに包まれている。まだ早い時間だから、客はそれほどいない。入っている客は全員が男だ。


 カウンターにいるマスターが、人数を聞いてきたので、待ち合わせだと答え、カウンター席へ座る。テーブル席の方が良かったけれど、全て埋まっていたから仕方ない。


 ウィスキーをロックで頼み、それを飲みながらしばらくするとドアの開く音がした。マスターは顔をそちらへ少し向けただけで、何も言わなかった。振り返らなくても、僕は彼女が来たのだ、と察する。


「久しぶりだね」


 隣のスツールに座った彼女は、そんな挨拶をくれた。僕は何も言わず、ウィスキーを一息に飲んだ。


「そんなに待てなかったの?」


「遅い方が悪い」僕は空になったグラスをマスター側へ差し出し、同じものをオーダーする。彼女が頼んだのは、カンパリソーダだった。


 僕たちはそのまま、会話もなくお酒が出てくるのを待つ。その間、僕は視線を目の前に置かれたボトルへ注いでいた。隣に目を遣りたくなかった。彼女をきちんと目にすれば、自分の中にある何か重要な決心が、幼児の組み立てた積み木の城みたいに、容易く瓦解してしまいそうだったからだ。


 彼女もまた、僕の方を見ている気配はない。でもそれは、僕と同じ気持ち故ではないはずだ。理由に見当は付いている。ただ、そのことにも僕は気付かないフリをした。


 頼んだものが揃ってから、僕たちは乾杯の一言も発さずに口を付けた。甘い思い出も、苦い記憶も、二人の言葉にはならない。あるのはお互いを取り巻く、現状という名の理不尽めいた渦だけだった。


「何故来たんだ?」脈絡もなく、僕は彼女に話しかけた。


「さあ……、なんでだろう?」彼女はグラスに口を付ける。「もしかしたら、明日が最後になるかもしれない、って思ったからかも」


「まだやるつもりなの?」荒くなりそうな声を、僕は奥歯を噛み締めて堪えた。「そんなことをしたって、誰も得をしない。君に感謝だってしやしない。何の意味があるんだ?」


「変わったね、あなたは」


「君が何も分かっていないだけだ」


「そう、分からないわ。私はあなたのように、世界を自分の中に受け入れられないの」彼女はカウンターの上で、グラスを弄びながら続ける。「今の世界は、私たちを屈服させて、従わせているだけでしょう? 私の意見なんて、全く真面目に聞いてくれない。それなのに、俺たちに従え、なんて、馬鹿げているわ」


「だから人を殺して、世直しをしようと?」僕はグラスをきつく握った。


「世直しなんて、大層なことは思ってないわ」彼女は息を漏らして笑う。「私はこの世界で、私のためだけに生きたいの」


「理解しがたい」


「そうね……、昔のあなたになら、まだ少しは分かってもらえると思うわ」


 紅い液体の入ったグラスが視界の端で傾いた。僕は黙ったまま、何も言えなかった。


 そうさ。


 僕だって君の理想に、希望を抱いたことがあった。認めなければならない、歴史の一幕だ。でも、そんな理想を叶えたいとか、叶えるために隣を歩きたいとまでは、思えなかった。今も昔も、そこだけは変わらない。理想と呼ばれるもののほとんどが悉く叶わないというオーソドックスな理屈を、僕は知っているからだ。


「もう行くわ」彼女はスツールから腰を上げて、立ち上がる。グラスの底には、まだ飲み物が残ったままだった。


「今ならまだ、話を付けられる」僕はピストルをスーツの上から撫でた。「僕だって、この仕事に就いて多少の権限を得た」


「素敵なお誘いね」彼女はそよ風のように笑った。「でも、遠慮しておくわ。私の琴線を揺らすには値しないもの」


「そうか……」


「ありがとう。今夜は会えて良かった。次があるのなら……、そうね、新しくなった世界で会いましょう」


 カウンターの上に、一杯分より少し多いくらいのお金だけが置かれた。彼女の足音は聞こえない。撃つなら今がチャンスだ、という声が、頭の中で姦しく反響する。だけど、ドアの開閉の音が静かに聞こえてくるまで、僕は何もできなかった。


 迷子センターを訪れた子どものように所在なさげな紙幣を、こちらへと引き寄せ、懐へ入れる。どうせ経費で落ちたのだから、ここくらいは奢りだと言ってあげても良かったかもしれない。もちろん、もう彼女は既に出て行った後だし、それを言う機会もないのだけれど。どうせなら、お金じゃなくて『さよなら』とか『バイバイ』とか、あっても悪くない挨拶を残してくれれば良かったのに。


 独りでウィスキーを飲みながら、時間が過ぎるのを待った。客の誰かの笑う声が響く。酔っているせいか、そいつの声量は大きく、嫌でも耳に届いてくる。話の内容は、タイムリーなことに、彼女を批判するものだった。警察がどうとか、世間がどうとか、聞き流そうとしても拾ってしまうくらいに、もっともらしい意見だ。


 僕は心の中でそいつに向かって、捕まえるチャンスならあったぞ、と教えてやる。


 そして、彼女の顔とそいつの声が頭の中で重なり、滑稽な気分を覚えてしまう。


 結局、僕もそいつも同じだ。正しいことを口では言えても、手はずっと後ろで組んだまま。自分で手を下さないくせに、他人の落ち度や、叩いて舞った埃を見て嘲笑する。そうやって否定のレッテルを貼ってしまうのは、僕たちよりも彼女の方が強いと、知っているからだ。きっと、僕の瞳には蜃気楼のように映る理想が、彼女の網膜には遥か彼方であったとしても、確かな風景として焼き付いている。僕は理想をそんな風には見れない。見たくないとさえ、願っている。比べてしまえば、どちらが強いかなんて、火を見るよりも明らかだ。


 それでも、彼女のような生き方を認めてしまえば、泥を被った純粋だった頃の僕に、今の僕が弱い人間だと蔑まれるような恐怖がある。人間は他の誰でもなく、自分自身にそう判断されることが恐ろしい。


 だから本心を世界の物差に当て嵌める。そこからずれていないか、ずれた奴はいないか、と一喜一憂しながら生きていく。それが、正しく生きることの意味だと、信じながら。


 十分ほど経っただろうか。耳に付けた小型の通信機に、コールが入った。


『トロイ1、聞こえるか?』


 粗い紙やすりのような音質の声が、鼓膜を擦る。上司の声だ。マスターに訝しがられないよう、小さな声で短く応答した。


『目標を射殺した。ご苦労。あとはゆっくり楽しんでくれ』


 通信はそれだけだった。


 僕の役割も終わり。


 上司に頭を下げて、僕はこの作戦に組み込まれた。シンプルな囮作戦というわけだ。運の要素が強いから、駄目元だったけれど案外、すんなりと許可が下りた。彼女を始末するのに切羽詰まっていてやけくそだったのか、端から僕に期待などしていなかったのか。理由は様々考えられるけれど、多分どちらもなのだろう。


 耳から通信機を取り外し、ポケットへしまってから、チェックを済ませる。マスターは何も言わなかったけれど、接客用の笑みには硝子に付いた細かな傷のように、ぎこちなさが滲んでいた。


 店を後にして、通へ出る。


 小降りだった雨は、本格的に傘を要する強さになっていた。


 大通りの方へ目を遣ると、そちらに走っていく一台のゴミ収集車の姿があった。僕の仕事場で、遺体の回収をする際に使用される車両だ。辺りを見回しても、近くに上司の姿はない。射殺と聞いたけれど、雨で濡れる街には、血の跡も火薬の残り香もなかった。


 あるのはただ、いつもの雨の日と同じ、湿った空気の匂だけだった。

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Utopia believer 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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