第24話 刀
朝から出かけていた小三郎は、町木戸が閉まる直前(午後十時)に帰って来た。
善兵衛は、英之助に殴られて唇を腫らした小三郎を見るなり腰を抜かすほど驚いた。老いたその表情に涙が盛り上がる。
「若旦那さまっ。なにがあったのか私に話してください。なんでもいいので打ち明けてくださいっ。爺のお願いでございます」
すがりつく善兵衛を見ると、小三郎は小さく、すまないと云った。
「このまま休む。眠らせてくれ」
「若旦那さまっ」
小三郎はいちども振り返らず、寝間へ向かった。
善兵衛は追いかけて来てもういちど取りすがったが、小三郎はなにも答えなかった。
そのまま布団の上に横になると、泥のように寝入ってしまった。
朝、目を覚ますと口の中が腫れていた。
「いてて」
起き上がり頬を押さえた。
すぐに善兵衛が現れ、顔を見るなり水と氷を持って戻って来た。
頬の腫れに氷をあてながら、
「若旦那さま、このおけがはどうなさったのですか?」
と、けわしい顔で聞いた。
「ん? ああ、転んだ」
善兵衛はむっと口を曲げる。
「若旦那さま」
「うるさいな」
善兵衛は目を見開いて、わなわなと唇を震わせた。
小三郎は、善兵衛の絶望した顔を見て心が痛んだ。
「ああ、悪かった……。けんかしたんだ」
「誰とです?」
「酔っ払いだ。絡まれて気がついたら殴られていた」
「刀は」
「なんだ」
「刀はいかがされました」
善兵衛は刀が見当たらないことを気に病んでいた。
小三郎はのらりくらりと答えた。
「刀なら研ぎに出した」
「いつでございます」
「夕べだ。刀がないと気が抜けていかんな」
笑ったが、その目は笑っていない。
善兵衛の胸は張り裂けそうだった。
「どうして刀を研ぎに出したのですか?」
「刃こぼれしたのだ」
「なにを斬ったのです」
「なんでもいいだろ」
不機嫌な顔つきになる。
前の小三郎であれば、こんな顔はしなかった。
けわしい顔でどこかを睨みつけ、すっかり心が見えなくなった。
「もういい」
さっと手を払われる。
善兵衛はさらになにか云おうとしたが、小三郎の視線はすでに別の方向を見ていた。
なにを見ているのか分からないほどぼんやりとしていて、善兵衛は胸騒ぎがおさまらなかった。
お供いたしますという善兵衛をなだめすかし、小三郎はぶらりと長屋を出た。
柔らかい日差しが照りつける。眩しさに目を細めて歩き出すと、待ち伏せをしていたのだろう、安川が後から追いかけて来て、小三郎の前に立ちふさがった。
「どいてもらえまいか」
「どきません。柴山さん、貴方、頭がこわれてしまったのじゃないですか、どうして我々の邪魔をするのです。しあわせをぶち壊してうれしいのですか」
小三郎はぐっと奥歯を噛みしめた。
しあわせをぶち壊す気持ちなど毛頭ない。
「そなたには関係ない」
「関係あります。柾木さんは俺の――」
「黙れっ」
大声を上げてしまってから、小三郎は唇を噛み締めた。
安川はうろんな顔つきで、
「貴方はどうかしている。柾木さんは行きませんよ」
と云った。
安川の体を避けて小三郎は歩き始めた。安川はそれ以上追っては来なかった。
英之助は、はたし状を読んだのだろうか。それを安川に見せたのだな。
人のものを勝手に見せるなんて――。
瞬時に怒りが湧き起こったが、それはすぐに掻き消えた。
「それだけ仲がいいということだろうな」
ふっと笑うと、そのままあてもなく歩き始めた。
この目にさまざまな景色を焼き付けておこうと思っていた。
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