第22話 修行




 湯治とうじに行くという名目で許可をもらい、すぐに上屋敷を出た。

 浪人の名前は、赤西と云った。

 赤西と示し合わせて山に入った。道場の方にも休暇を届けた。



 幼い頃から道場には通っていたが、槍も剣も人よりすぐれているわけではない。一方、英之助は皆伝を授かっていた。

 英之助より強くなりたい。気持ちだけでも負けたくない。

 そう思って、修行に励んだ。


 他人の意見に惑わされ、自分の弱さに苦しめられた。

 英之助までも巻き込んで、多大な迷惑もかけてしまった。


 小三郎は日々、木刀を握り、枯れた老木を相手に何度も打ち込んだ。

 赤西の修行は厳しく迷いがなかった。筋が一本通っていて、油断と隙のない動作をきっちりと基礎から教えてくれた。




「どうして物盗りなんて」


 野草と獣を捕って食事をしているとき、二人はよく話をした。


「魔が差したとしか云いようがない」


 日が落ちると、森の中は闇しかない。

 おこした火はほとんど消えかけていたが、ぼんやりと相手の顔が見えた。

 赤西の深いあたたかみのある声は、小三郎の心に沁みてくる。

 赤西の性格上、人の物を盗むようにはとうてい見えなかった。しかし、召し抱えられていた頃も、同じように魔が差してしまったと打ち明けてくれた。


「貴方のように隙だらけだとつい、手を出してしまいたくなるのです」

「隙だらけですか、俺は……」


 小三郎が苦笑すると、赤西は、


「これは失敬」


 と、云って笑った。


「これを機会に強くなりたいですね」


 小三郎がそう云うと、赤西はまぶしそうに目を細めた。


「貴方は強いですよ」

「そうでしょうか」

「ええ。私を見つけた執念となにか目的があってそれを叶えようとしているまなざし。人はなかなか実行できないものです」

「ありがとう」


 小三郎は心からお礼を云った。

 赤西は小三郎の笑顔を見ていたが、急に顔をしかめた。


「妙な噂を耳にしたのですが……」

「妙な噂とは?」

「はい」


 赤西は云いにくそうに、ほんとうのことだとは思えないのですが、と前もって断って云った。


「貴方と山に入る以前の話ですよ。小三郎どのが、次期家老の男にもてあそばれ、ひどい仕打ちをされたという噂です」

「なんですか、それ」


 小三郎はぷっと吹き出した。


「貴方には聞かせられないが、まったく恥ずかしい内容です。貴方はこうして私と山にこもっているのに、地上では根も歯もない噂が飛び交い、貴方が柾木という男の悪口あっこうを云ってまわっているというのです」

「はあ……」


 小三郎は驚いたような、怒っていいのか分からない、という顔をした。


「江戸の人は噂好きですから」

「すぐに消えますよ」


 赤西はいたましそうな顔をして、誰かに云われたら、そんなはずはないときっぱり伝えておきますと云った。


 小三郎は笑って、ありがとう、ともういちど云った。

 そうして山にこもってから、あっという間に十日が過ぎた。




 木戸が閉まるまでに、山を下りなければならない。

 短い期間ではあるが、みっちりと修行をした小三郎は、前より筋肉も硬くなり、肌もずいぶん焼けて黒くなっていた。


「わたしは強くなったでしょうか」


 頬はこけ顔中髭だらけになり、切り込むような鋭い目つきの小三郎が見つめると、赤西は一瞬、息を呑んだ。


「――ええ。貴方の噂など消し飛んでしまうくらい、立派になられた」

「そうですか」


 小三郎はほほ笑んで、


「これでは湯治に行ったなどという云い訳もすぐにばれてしまいますね」


 と、冗談を云って笑わせた。


「赤西殿、お世話になりました」


 赤西は、頭を下げる小三郎をじっと見つめたが、なにも応えなかった。


「道中お気をつけて。貴殿のご武運をお祈りしております」


 赤西は、小三郎の渡した金を路銀にして、江戸を出て仕官してもらえる藩を探しに行くと云った。


「さいごにいい思い出ができました」


 旅支度をととのえた赤西が頭を下げた。


「こちらこそ、貴方のおかげで自信がつきました」


 小三郎がそう云うと、赤西はもういちどなにか云いたそうな顔をしたが、なにも云うわず、


「では、失礼いたします」


 と、だけ云った。


 小三郎は彼の姿が見えなくなるまで見送っていたが、くるりと背を向けて山を下りた。





 山を下りた小三郎は、その恰好で江戸屋敷に戻るわけには行かず湯屋へ行って、身支度をさっぱりさせた。

 長屋へ戻ると、小三郎のあまりの様相の違いに家人は仰天した。

 着流しに着替えるとき、腰まわりも前より細くなっていた。

 硬く引きしまった体つきと、以前とは様相の違う目つきに、家人は心配の色を隠さなかった。

 それから、小三郎はすぐさま部屋にこもり、英之助に手紙を書いた。



 はたし状であった。



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