第21話 決意
小三郎が、英之助と安川に意見してから、二人の噂は収集のつかないところまできていた。籐七の姿をあれからいちども見ない。善兵衛の話では、暇を出されたと聞く。
籐七は、英之助のことを思って行動しただけなのだ。
彼に罪はなく、籐七がいなくなってからは、噂も野放し状態となっている。
「若旦那さま、最近、帰りが遅いようですが、どこかお寄りに?」
「うん」
小三郎はその日も遅くに帰って来た。
善兵衛は着付けを手伝いながら、心配そうに云った。
「供もつけずにゆかれるので、旦那さまが心配しておられます」
「ああ、そうだな……。これからは気をつけるよ」
最近の小三郎はいつもうわの空だ。善兵衛は心配で仕方がなかった。
「若旦那さま、お痩せになられましたな」
「なんだって?」
小三郎が、ふと表情を変えた。
善兵衛はここぞとばかりに、強く云った。
「お痩せになったと云ったのです。きちんと朝晩食べていますか?」
「食べているよ、俺は前よりふとったと思っていたのだけどね」
「ふとったですって?」
善兵衛は驚いて問い返した。
「この細腕をごらんなさい」
小三郎の生白い腕を突き上げて、責め立てた。
「これでは女の腕じゃないですか」
「失礼なことを云う
くすくす笑って、取り合わない。
「一体なにがあったんですか? 最近、柾木さまはいらっしゃらないし」
「絶交したんだ。柾木の話はよしてくれないか」
善兵衛は、はっとした顔をして黙った。
黙々と着付けを手伝いながら、何度も窺うように顔を見ている。しかし、小三郎はなにも云わなかった。
小三郎の心も善兵衛には申し訳ないという気持ちであった。だが、すべてを打ち明けるわけにはいかない。
今、小三郎の頭の中は、以前に知り合った浪人のことでいっぱいだった。
毎晩、遅くなっていたのは、市中にある居酒屋を一軒ずつ歩いていたからである。
それが今夜、ついに見つけた。
居酒屋で酒と飯を食べ終えた浪人は、小三郎を見るなり逃げ出そうとした。
小三郎は慌てて彼を追いかけた。
「違うんです、待ってください。貴方を探していたんです」
小三郎の真剣な声に、浪人は振り返った。
「
「貴方を捕らえようなんて思っているのではないんです。剣を教えてほしいんです」
突然の申し出に浪人は呆れた顔をした。
「は? 剣を教えるだって? まさかっ」
「貴方ですよね、紙入れを盗ったのは」
浪人は口を真横に結んだ。小三郎は、それを肯定と受け取った。
「俺はあの日、酔っていました。俺はよほどのまぬけか、それとも貴方が相当の使い手なのか、賭けてみることにしたのです」
「確かに紙入れを盗ったのは俺です。貴方は酔っていましたからね」
「懐が痛いとかそんなことを云うために探していたのではないんです、剣を教わりたいだけなんです」
切実に頼むと、浪人はけげんな顔をした。
「聞いてもいいでしょうか」
「はい」
「誰かを傷つけるための剣でしょうか」
小三郎はゆるゆると首を振った。
「誓って云います。そうではありません、強くなりたいんです」
「だったら、道場で鍛えたらいい」
「先ほども云ったでしょう、俺は強くなりたい」
「わけが分からないな」
浪人がため息をついた。
「ひとりですればいいでしょう。山にこもって木を相手に叩いたり、獣相手に戦ったりするだけでも、いい修行になりますよ」
「俺は真剣です」
「分かっている。だからやめといた方がいいと云っているんです」
「え?」
「なにがあったのか知らないが、貴方は戦闘向きの体じゃない」
「……強くなりたいんです」
一歩も引かない小三郎に、浪人はもういちどため息をついた。
「道場はどこです……?」
「承知してくれるのですか?」
「早とちりをしてはいけない。流派は?」
小三郎は、直心陰流の堀内道場であることを伝えた。
浪人はしばらく思案していたが、おもむろに顔を上げた。
「俺は見てのとおり金がない。
「それはもちろんっ」
小三郎はあまりのうれしさに、にっこりとほほ笑んだ。
「ありがとう」
小三郎の笑みを見て、浪人は照れたように頭を掻いた。
「いやだなぁ」
「え?」
「貴方の笑顔はほんとうにとろけそうだ」
浪人がおかしなことを云っている。小三郎は怪訝な顔をした。
その顔を見て浪人が苦笑した。
「気になさらないで。それより、むちゃはなさらないで下さいよ。しかし貴方、前より痩せましたな」
小三郎は周りが痩せた痩せたと云っているが、自分はそうは思っていないので不思議そうな顔をした。
「そうでしょうか? 俺は前よりもっとふとったような心持ちでいるのですがね」
「それは気のせいでしょうね」
浪人は仕方なさそうに笑うと、自分の方は時間があるので、そちらにあわせると云った。
小三郎は前々から思案していたのだろう、すぐに答えた。
「藩庁に届けて、暇を貰います」
「幾日ほど貰えそうですか?」
「十日」
「……結構です」
浪人は深く頷いた。小三郎の顔が生き生きとしだす。やる気でみなぎっているのか、こぶしを握りしめた。
「ではすぐに、と云いたいところですが、家の者に断ってから参ります」
小三郎の言葉を聞いて、浪人は笑顔になった。
「それがいいですな」
時と場所を指定してもらい、二人は分かれた。
浪人が見えなくなってから、小三郎は静かに目を閉じた。
それから空を見上げた時、なにかを決意したような目つきをしていた。
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