第20話 雨脚
突然、現れた英之助の鋭い表情に気圧されたまま、小三郎は動けなかった。
「籐七から頼まれて来たのだろう。でなければ、自分のことでせいいっぱいなお前がここに来るはずがないからな」
つき放した云い方に愕然とする。しかし、小三郎はすぐに首を振って、
「ご、誤解だ。俺は、お前のためを思って……」
云いわけをしたが、聞いてくれる様子はなかった。
「俺を信じることの出来なかったお前が俺のためを思ってここに来たというのか。どうでもいいことだが、お前に振られてから、俺がどんな思いでいたか知らないだろう。籐七の言葉を受け入れ、俺の気持ちは踏みにじる。そんなお前に惚れていた俺はどうかしていたと今は思っているよ」
まるで人が変わってしまったように、ひどい言葉ばかり吐き出す。
小三郎は信じられない思いで相手を見つめた。
英之助は突然立ち上がると、吐き捨てた。
「お前の顔を見るのもいやな心持ちだ。俺は自分の意思でここにいる。邪魔をするな」
「ま、待ってくれっ、英之助っ」
「まだ、なにかあるのか?」
こちらも見ようともせず、怒りを押し殺した低い声がした。
小三郎はごくりとつばを飲んで云った。
「し、しあわせか?」
「なに?」
英之助が不快そうに顔をこちらに向けた。
「今のお前はしあわせか?」
「……お前にこたえる義理はない」
冷たく吐き捨てられた言葉に何も云えなかった。
知らなかった。
ここまで憎まれているとは思いもよらなかった。
小三郎は無意識に英之助に追いすがろうとした。しかし、立ち上がった時、急にめまいがし、ふらりと壁に手を突いた。ずるずるとその場にしゃがみ込む。
「英之助、待ってくれ。話がしたくてここまで来たんだ。もう、俺とは話もしてくれないのか?」
情けない姿をさらして、英之助に手を伸ばした。しかし、英之助は能面のような顔で自分を見下ろしていた。
「安川と契りを交わした」
「え――?」
「あの男は芯から俺を愛してくれている。裏切ることはしたくない」
頭から冷水を浴びたような、そんな衝撃があった。
――契りを交わした。
はっきりと云い渡された言葉によって、すでにふたりは一線を越えていたのだと知った。
「……も、申しわけない」
小三郎はがくりと膝をついた。
「はっきり云ってくれて良かった。今、お前に云われてようやく気がついた。俺は、ほんとうにお前の気持ちを踏みにじるところだったんだな、困らせてほんとうにごめん」
英之助は無言だった。
「これだけは信じてくれ、俺は、お前のしあわせを願っている」
顔を上げると、背中が見えた。遠ざかる背中は、あの日のうな垂れた背中ではなかった。
前を向いて決断している男の背中であった。
自分の役目は終わった。英之助のそばにいるのは自分ではなかった。
またたきをした小三郎の目から涙が滑り落ちた。
それから、組長屋を出て自分の長屋には戻らず、小三郎は江戸屋敷を出た。そのままうろうろと居酒屋をまわり、気がつくと飯台に顔をうつぶせ、盃を持って目を閉じていた。
どんなに酒を飲んでも頭に浮ぶのは、安川と英之助であった。
小三郎は、安川に激しく嫉妬した。
今、あの男は、かつて自分がされていたように、英之助に愛されているのだ。あの日を思い出すたび、身体が熱くなる。しかし、それらすべて安川のものなのだ。
英之助のぬくもりから手を離したのは自分だ。いまさらその手を取り戻したいと願っても聞き入れてはくれまい。むしろ、呆れられ、けいべつされるに決まっている。あの冷ややかな目を忘れることはできない。
盃を傾けて酒を続けて飲んだ。出された酒は水で薄めてあって酔いが回るのも早かった。
ひじを突いて銚子を傾けたが、一滴も出ない。銚子を放り投げ、空っぽの盃を眺めてから立ち上がった。足元がふらついて、飯台に手をつく。人払いをしたので誰も助けてはくれなかった。
勘定を払って外へ出ると雨が降っていた。激しい
頬を濡らす雨に涙が混じっていたことに、小三郎は気が付かなかった。
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