第16話 しんじつ



 あの日、英之助と別れてから、いちども姿を見ていない。


 幾日が過ぎたのか、数えるのもやめてしまった。しかし、夜になると思い出さずにはいられない。

 小三郎は、夜着にくるまって天井を仰いだ。

 暗闇の中、最後に会った英之助の顔を思い浮かべる。彼の哀切のことばが頭にこびりついて離れない。


 お前の気持ちは、よく分かった――。


 自分の気持ち。

 小三郎は、今になって自分の気持ちとは一体なんだったのか、と思った。

 なぜ、彼にその言葉を云わせてしまったのか。


 あの日、英之助は自分を貫こうとした。

 あの時、小三郎の頭をよぎったのは、自分ではない者にも同じことをしたという事実であった。身悶えするほど怒りが湧いてくる。自分がこれほど嫉妬深い男であったことを知らなかった。

 巧みな技法とあまい睦言。

 小三郎の恥じらいをうまくあしらい、十六の頃に出会った男たちと比べていたのであろうか。


 小三郎は頭を抱えた。嗚咽が漏れる。

 もう、会えないのだ。自分から手を離した。手を伸ばしてももう届かない。

 小三郎は、肩を震わせいつまでも涙を流していた。




 明くる日の夜、小三郎は、英之助がよく飲みに行くという居酒屋へ行ってみた。

 小三郎と袂を分けてから、安川と英之助の噂がにわかに沸き起こったからだ。

 家老の息子と小姓組の男という組み合わせは話題になりやすく、しんじつがまったく見えないほど、入り乱れて聞こえてきた。

 二人の様子を少しでも窺えば、なにか分かるかもしれない、というのが小三郎の云いわけであった。


 河岸かしにある居酒屋にはのき行燈あんどんの出ている店が多くあった。

 夜の七ツ半(午後五時)を過ぎると、ぽつりぽつりと行燈の光が黄色く灯り出す。

 目当ての店に近づくと人のざわめく声がした。

 縄暖簾をくぐり中を見渡すと、広い土間の四隅に椅子と飯台が置いてある。奥には小座敷があり、襷掛けした女が数人、立ち動いているのがみえた。

 繁盛しているらしく客層は主に町人であった。

 武士の姿はちらほらで、和気あいあいとした雰囲気だった。

 英之助と安川はいないらしい。すばやく目でたしかめてから安堵した。

 店の女が寄って来て、席へ案内してくれるという。小三郎は小座敷でもいいかと聞くと、女は首を傾げた。


「ひとりじゃ、むつかしいか」

「いえ、そうじゃないんですけど、この時分に二人連れのお武家さまがいらして小座敷をお使いになるんです」

「毎日か?」

「毎日じゃありませんよ、三日にいちどくらいです。一昨日いらっしゃらなかったから、今夜あたり来ると思いまして」

「そうか」


 小三郎は迷った。すると、店の隅から声をかけられた。


「こちらへいらっしゃい。俺もひとりだからさみしくってね、貴方がおいやじゃなければどうぞ」


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