口数少ないクールな先輩に『月が綺麗ですね』と言ってみた結果……
安居院晃
口数少ないクールな先輩に『月が綺麗ですね』と言ってみた結果
夏と比べて昼の時間が短くなった十一月上旬。
夕暮れと夜の狭間の時刻。
「音月先輩。屋上の鍵を借りてきましたよ」
大半の生徒が帰路につき、自分たち以外に人の気配がなくなった第三校舎。その三階にある天文学部の部室にて。
扉を潜った俺──
とても綺麗な人だ。
艶やかな黒い長髪に、同色の大きな瞳。感情の機微が感じ取れない端正な顔立ちと、全身に纏うクールな雰囲気。自分の一つ上、十七歳とは思えないほどに落ち着いている。
宿題の紙面にシャーペンの先端を走らせている彼女の名は──
この天文部の部長だ。
「ご苦労様」
顔を上げた音月先輩は手元の紙面から俺に視線を移し、そんな労いの言葉をかけた後、再び手元のシャーペンを躍らせた。
「少し待って。もうちょっとで課題が終わるから」
「了解です。けど、珍しいですね」
「何が?」
こちらを見ることなく問い返した音月先輩に、俺は言った。
「いや、音月先輩。いつも課題は昼休憩の時に終わらせるって言ってたじゃないですか。なのに、放課後まで終わっていないなんて……明日は暴風雨にでもなるんですかね」
「君は私が天候を操れる能力者とでも思っているの?」
「思ってないですよ。言葉の綾ってやつです。それくらい意外ってこと。それで、今日は昼休憩の時忙しかったんですか?」
「まぁね……」
丁度そのタイミングで課題は全て終わったらしい。
シャーペンを置いてプリントをクリアファイルの中にしまった音月先輩は、やや憂鬱そうに溜め息を吐いて言った。
「今日は昼休憩の時に、中庭に呼び出されたんだ」
「告白ですか」
「うん。それも、五人」
「うわぁ」
それは課題をやる時間がなくなるわけだ。
昼休憩は五十分。昼食を取り、課題を終わらせれば五十分なんてあっという間に過ぎ去ってしまう。それなのに、告白×5が割り込んだ来たとは……同情してしまう。モテすぎるのも難儀なものだ。
「先輩、モテますもんね。これで告白は何人目ですか?」
「百を超えたあたりからは憶えてない」
「す、すげぇ……俺なんて告白されたことすらないですよ」
「羨ましいね」
「嫌味ですか?」
「そんなつもりはないよ。君も私の立場になってみたら、そう思えるはずだ」
「そんな時は未来永劫来そうにないです……」
自分で言ってて悲しくなりつつ、俺は持っていた鍵を音月先輩に手渡した。
「それにしても、どうしていきなり『月見するよ』なんて言い出したんですか?」
「別にいきなりじゃないよ。今日は年に一度のスーパームーンだからね。私たちは仮にも天文学部。活動記録も提出しないといけないから、前々から予定は立てていたんだ」
「共有してくださいよ」
「うっかり忘れてた」
ごめんね、とまるで謝罪の気持ちが籠っていない声音で言った音月先輩に、俺はハァ、と溜め息を吐いた。
今夜は放課後、屋上で月を観測するよ。
その割と重要な報せが俺の元に届いたのは全ての授業が終わり、俺が部室に到着した直後だった。今日は特に予定──主にバイト──を入れていなかったらよかったものの……最悪、音月先輩一人で月見をするところだった。危ない危ない。今日、バイトのシフトを入れなかった店長には感謝の念でいっぱいだ。
報連相はマジで大事。
音月先輩には、これをもっとよくわかってもらいたい。許すけど。
本当に……恋は惚れた者が負けだよ。
俺は心の中で呟きながら、先に教室を出た音月先輩の後を追った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
太陽が西に沈んだ暗い空は快晴だった。
天上で瞬く星々の光を阻害する雲は欠片もなく、正しく絶好の月見日和といえる。
ここは都会で光が多く、満天の星空というわけではない。それを観測するためには、光のない山奥に行かなくてはならない。
けれど……お目当ての満月を見るだけであれば、この街でも十分に事足りた。
「流石はスーパームーン……」
屋上の中央に敷いたシーツの上に横たわりながら頭上の月を見ていた俺は、小さな声で呟いた。
御大層な名前がつけられるだけあり、今日の満月は普段のそれとは違う。大きく、強い光を放ち、他の星々では比較にならないほどに輝いている。ウサギの形に例えられる海までハッキリと見えた。
きっと俺たち以外にも大勢の人が、今宵の月を見上げて物思いに耽っているのだろう。
「……」
ふと、満月から目を離した俺は横を見た。
正確には、俺の横で仰向けに横たわり、ジッと満月を見つめている音月先輩を。
とても綺麗な横顔だ。普段から整った顔立ちをしているとは思っているけれど、こうして至近距離から見るとより一層、彼女の美しさを実感できる。大勢の男女が憧れるのも納得な美貌を。
今は、今だけは、彼女の横顔は俺が独占している。
その事実を意識すると、俺の胸には高揚感が満ちた。
「……ん?」
「いや、何でもないです」
俺の視線に気が付いたらしい音月先輩が一文字で問うてくるが、俺は首を左右に振って返した。
彼女は俺と違い、今も満月を楽しんでいるらしい。瞳をいつも以上にキラキラと輝かせ、空に浮かぶ大きな宝石を堪能している。それこそ、瞬きを忘れてしまうほどに。
そんな彼女に比べて……俺は、既に月見に飽きてしまった。
元々、星や月が好きというわけではないのだ。大勢の男子と同じように、空を眺めるくらいならばゲームや漫画に熱中したい。何もせずに空を眺めるのは退屈だ、とすら思っている。
それでは何故、俺が天文学部に入部したのか。
単純で不純な動機だ。ただ単に、音月先輩に近付きたかったから。一目惚れした憧れの女性の傍にいたかったから、俺は元々入るつもりのなかった天文学部に入った。
これは音月先輩には言っていない。何故って……幻滅されると思っているから。
入部届を持っていた時には情熱的に星や月を語っていたくせに、その実全く興味なんてありませんでしたなんて、格好悪すぎる。この事実は、ずっと胸にしまっておく。
今度は気づかれないように、俺は横目で音月先輩を見やった。
俺は彼女が好きだけど……告白するつもりはない。今日も音月先輩は五人から告白されたらしいけれど、俺には彼らのように気持ちを伝える勇気がないのだ。
フラれた時が怖いからという恐怖心や、自分の心の内側を曝け出す恥ずかしさもある。
けれど一番の理由は、この先輩との心地良い時間を失いたくないから。
部室での時間。今の関係性。
これらが一変してしまうのが、嫌なのだ。
この気持ちはまだ、曝け出さない。
ただその反面。伝えてしまいたいという気持ちもある。この想いを知ってほしいという欲求は、確かに存在した。
……今なら、誤魔化すこともできるな。
不意に俺の脳裏に浮かんだ、とある作戦。
いつもの俺ならば危険な橋を渡るような真似はしない。
俺はスリルよりも安全を求める。馬鹿なことはしない。
だけど、今夜の俺は少しタガが外れていた。
憧れの先輩と二人きりで月見をしているという状況に浮かれていた。
だから、つい──言ってしまった。
「月……綺麗ですね。先輩」
大半の日本人は知っている、文豪の告白。
俺は音月先輩が好きだし、今宵の月も綺麗に思っている。
どちらも正解。誤魔化すことは容易い。
と、そう考えていたのだが──。
「ねぇ、海星君」
「はい?」
「それ、どっち?」
問われた俺は反射的に顔を横に向け──固まった。
音月先輩が、至近距離で俺を見つめていたから。
向けられる視線には『嘘は許さない』という思いが明確に込められており、それを見ていると、俺自身、嘘をつくのは躊躇われた。
「……先輩が受け取ったほうでいいですよ」
「……ふ~ん」
俺の回答に何を考えたのか、音月先輩は横たえていた身体を起こし、独り言のように言った。
「私は昔から口下手でさ。人に何かを伝えることが苦手なんだ。感情を表に出すことも稀だから、どんな気持ちになっているのかすらわからない、とはよく言われたものだよ。私なりに頑張ってはいるんだけど、どうにも言葉だけでは、私は人に物事を伝えられない」
「よく知ってますよ」
「流石は半年、私の傍にい続けたことはあるね」
でも、と音月先輩は続けた。
「これは、知ってるかな?」
「え?」
俺が困惑する中、徐に距離を詰めた音月先輩は俺の顔を覗き込み──次の瞬間。
「私はね──行動で伝えるタイプなんだ」
「ぇ──んっ」
数十センチの距離がゆっくりと縮められ……俺と音月先輩の唇が重なった。
横目で床を見れば、月光によって生まれた俺と音月先輩の影が一つになっている。
え、ちょっと待ってくれ。
今、どういう状況だ?
キスしてる? 俺と音月先輩が? あ、そういえば俺キス初めてだったわ。こんな感じなんだ……いやそうじゃなくて、どうしてこんなことになったんだ──。
様々なことが頭の中で渦巻き、混乱し、困惑する。考えが整理できない。今はただ、ゼロ距離にある美しい音月先輩の顔と、唇に伝わる感触しか認識することができなかった。
「ん……フフ」
時間にして数秒。体感は数十秒。
俺の唇から自分のそれを話した音月先輩は、これまでに見たことがない蠱惑的な微笑を浮かべ……俺の唇に人差し指を押し当て、尋ねた。
「もう一度質問するね。さっきの言葉の意味は──どっち?」
質問の問いに対する回答は、すぐには出てこなかった。
何故なら……満月なんて話にならないくらいに魅力的な今の音月先輩に、俺は暫く見惚れてしまったから。
〈了〉
口数少ないクールな先輩に『月が綺麗ですね』と言ってみた結果…… 安居院晃 @artkou
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