第18話 呼んでみただけです
「灯里様、灯里さん、灯里くん――他でもいいですが、どの呼び方が一番いいですか?」
帰宅して、夕食の支度に入る前。
しばしの休息を並んで取っていた早夜月から唐突にそんなことを聞かれ、首を傾げてしまう。
「……なんでまた急にそんなことを?」
「いつまでも苗字で呼び合うのも味気ないなと思ったので。あと、私と父の区別もつきませんし」
前者はともかく、後者についてはその通りだ。
でも、俺が早夜月に名前呼びされる……?
「もちろん遠坂さんが嫌ならしませんが」
「嫌ではないけど……」
「けど?」
「……呼ばれ慣れていないから変な気恥ずかしさが、さ」
数少ない友達の隠岐と篠崎からは苗字呼びで、俺を名前で呼ぶのは……親父くらいなもの。
その親父とも一年以上会っていない。
電話はしているけど、それだけだ。
「私の名前を呼ぶのはどうですか?」
「若干だけど抵抗感が。早夜月が悪いってわけじゃなく、俺の意識の問題だな。名前呼びって親しい間柄じゃないと普通しないものだし」
「……私たち、親しくはなかったのですか?」
寂しげに眉を下げる早夜月。
僅かに俺の方へ身体を寄せ、袖を引く。
いじらしい表情と声音は、早夜月にしては珍しいもの。
「…………友達なら、じゅうぶん親しいと言えるか」
「裸の付き合い……まではしていませんけど、一緒にお風呂も入りましたし」
「あれを一緒に入ったのうちにカウントしていいものか悩ましさはある」
「だったら言い訳出来ないようにちゃんと一緒に入りましょうか。私も全裸で」
「頼むから勘弁してくれ」
とんでもないことをしれっと言い出した早夜月には頭を下げて切実に求める。
それはこの間のアレとは決定的に違う。
恋人同士でもなかなかやらないと思うぞ?
「羞恥心はある、よな」
「……私を何だと思っているんですか?」
「じゃないと一緒に風呂に入ろうとか言い出さないかと思って」
「遠坂さんが別なだけです。恥ずかしいですし」
「俺にもその精神でいて欲しいんだけどなぁ」
「恥ずかしいところは何度も見せていますし。吸血後の発情した姿も、荷物整理の時に見られたアレも」
「それとこれとは話が別な気もするけど」
「私にとっては同じことです」
そうかぁ……本人が言うならそうなんだろう。
「話を戻しますが、遠坂さんはどう呼ばれたいですか」
「そもそも、どうして名前呼びに拘ってるんだ? 苗字だと被って困るのはわかるけど、同じ場に居なければ関係ないし」
早夜月が意外と強引で頑固なのは知っていたけど、それにしても不自然だ。
「実は、今日のお昼休みに別のクラスの方から告白されたんですよ。しかも逆ギレされて腕を掴まれ――」
「腕を掴まれた? 怪我は?」
「ご心配ありがとうございます。怪我はないですよ。吸血鬼の身体は頑丈なので」
恐らく掴まれた方の腕をまくって素肌を露わにするけど、早夜月の言う通り怪我らしい痕は見当たらない。
吸血衝動の時に抱き寄せられた経験から、それが嘘ではないこともわかる。
わかるけど、心情的には関係ない。
「怪我がなくても怖かっただろ」
「恐怖よりも服越しでも触れられる嫌悪感の方が強かったですね。女性にみだりに触れるのは紳士的とは言えません」
「……で、なんで俺の腕を触っているのでしょうか」
ふにふにと部屋着の長袖越しに腕を触られる感覚。
まったく強くなく、探るようなそれには反応せざるを得なかった。
「なんとなく、ですね。腕も背中同様に男性のものって感じがします。私のはもっと柔らかいですし。触ります?」
「いや、いい」
「さっきの話を気にする必要はありませんよ。遠坂さんは例外です。いつでも無断で触ってくれて構いません」
「誤解されそうなことを言ってる自覚は?」
「誤解してくれた方が私としては楽ですね」
そうだったよ……無敵か?
こんな距離感で自然にボディタッチをされる俺の身にもなって欲しい。
こんなの普通の男子高校生なら自分のことが好きなんだと思い込んで暴走してもおかしくないぞ。
俺は……恋愛に消極的なのと、協力関係と認識しているから耐えれているだけ。
耐えれているの程度もかなり崖すれすれだったりするので、理性的とは言えない。
「また脱線したので話を戻しますが、告白された際に
「……告白されるのが全く珍しくなさそうなことに驚けばいいのか、名前呼びされたのを何故かと切り捨ててることに突っ込めばいいのかわからん」
「本題はどちらでもなく、私が遠坂さんをどう呼ぶか、です」
つまりどちらも早夜月にとっては重要ではない、と。
……誰かまでは知らないけど、当然だなと思う。
急に腕を掴むなんて危ない真似をする人を早夜月が好むわけがない。
この様子だと断ったんだろうし。
逆恨みが怖いけど……少し注意しておこう。
俺なんかが力になれるかは怪しいけど。
それはともかく、俺の呼び方か。
「……名前で呼びたいなら普通に灯里でいいけど」
「いいんですか?」
「人前じゃなければ構わない。断る理由もないし」
「であれば、今後は灯里さん……と」
試すかのように早夜月が口にして、緩く微笑む。
その表情と、雰囲気と、響きに少しだけ気持ちが揺れかける。
「あ、名前呼びする男性はお父様を含めなければ灯里さんだけですからね」
「……なんとなくそんな気はしてたけど、いざ言われると緊張するな」
「何度も言いますから慣れますよ。それより……灯里さんも、私のことは名前で呼んでくれませんか?」
早夜月の頼みは薄々予想していた。
断わるだけの理由は……ない。
俺が友達は名前呼びするくらいの親しい間柄だと示してしまったのに、断っては矛盾する。
そういうのを早夜月は嫌うだろうし、これくらいのことには応えたい。
「わかった。けど……緊張するな」
「では、練習してみましょう。乃蒼、乃蒼さん、乃蒼ちゃん、乃蒼様――は立場が逆になってしまいますね」
満面の笑みで求められては逃げ場はなかった。
後半の呼び方は冗談半分だろうけど……冗談、だよな?
こほんと一つ咳払い。
喉と気持ちを整え、頭の中で何度か名前を呼んでみて。
「…………の、あ」
「少しぎこちないですよ、灯里さん。もう一度お願いします」
「スパルタかよ。――乃蒼」
「はい、灯里さん。よく言えました。花丸です」
ああ、これ、思ったより
名前で呼ぶだけで見えない距離が縮まった気がして、むずむずする。
でも、一度すんなり言えたら、抵抗感もさほどではなくなったように思う。
「灯里さん」
「乃蒼?」
「呼んでみただけです」
……急に恋人みたいなやり取りをしないでもらっていいですかね、心臓に悪い。
―――
皆さんも台風にはお気をつけて。
台風自体は大丈夫ですが低気圧で連日ダウンしております……
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