第16話 かっこつけたい生き物なんだよ

「さてと。髪も洗ってリンスもしましたから、お次は背中ですね」

「……ほんとにやるのか」


 心底楽しそうに言い出す早夜月に対して、鏡に映る俺の表情は若干ぎこちない。


 初めはどうなるかと思ったけど、髪を洗うのは比較的平和に終わった。

 ……胸を押し付けられて下心うんたらの話をするのが平和かどうかはさておき。


 それはともかく、事前の話通り髪を洗うだけでは終わらないらしい。


「洗うのは背中だけですからね。前は自分でお願いします。……どうしてもと頼まれればしますけど」

「……流石に遠慮させてくれ」


 前まで任せるのは恥ずかしいから断わっておく。

 てか、どうしてもって頼んだらしてくれるのかよ。


 その場合、本当に身体を洗うだけで済むのかは疑問だ。


 早夜月がボディスポンジを泡立て、


「それでは失礼しますね」


 声がかかり、背中に泡まみれのスポンジが当てられた。

 それがちゃんとスポンジで心底ほっとしている。

 早夜月のことだからスポンジじゃなく胸を押し当てて「身体で洗うんですよ?」とか言い出す可能性も頭の片隅にあった。


 ……俺も早夜月をむっつりとか言えないな。


 努めて不埒な思考を頭から排していると、スポンジが背中に沿って動く。

 泡で滑りのいいスポンジがこそばゆく、自分で洗うよりもじれったい。


 合間に紛れる早夜月の吐息が、妙に艶めかしく聞こえてしまう。


「髪を洗っているときも思いましたが、やっぱり男女で体格が大きく異なりますよね。骨格の差だけでなく、肉付きも」

「俺の身体なんて見てもつまらないだろ? 筋肉ついてるわけでもないし」

「筋肉だけが面白さではないと思いますけど、その方が見栄えはいいでしょうね」


 俺も早夜月の意見には同意だ。

 だらしないよりは引き締まった体つきの方が一般的に好まれるだろう。

 最終的には個人に嗜好次第だろうけど。


「血の味って意味でもある程度鍛えておいた方がいいのか?」

「筋肉で血の味は変わらないと思いますが……健康な方が色々と安心ですね。適度な運動を一緒にするのもいいですし」

「それもアリだな。現実的にはランニングくらいになりそうだけど」

「望むならジムの契約くらいは出来ますよ。送迎の車も必要なら用意できます」


 本当にやりそうなのが困るところだ。


「本格的にやるのはちょっとな。運動もあんまり得意じゃないし、インドアだし」

「家から出なくても出来る運動があればいいですけど――」


 早夜月が口にして、なぜかスポンジが止まった。


「えっと、ですね? 決してそういう意図で言ったわけではなく、純粋に運動のことを考えてのことで」

「……薄々何を考えていたのかはわかるけど、言い出さなかったら墓穴も掘らなかったと思うぞ」


 言い訳にしか聞こえないそれは、なるべく気にせず流しておく。


 でも、一度それをちらつかせられると、意識せざるを得なくなって。


「私が調べたわけではなく、どこかで目にしただけなのは強調しておくのですが……三十分で十五分のランニングと同等の消費カロリーらしいですよ?」

「……結構いいんだな、効率」


 何処で知ったのかわからない無駄な知識も教えられたところで、再びスポンジが動き始める。


 左右の肩、背中、腰と順に下っていくスポンジ。

 力加減は控えめなままで、全身を優しく撫でられている気さえする。


 これはこれで良いのは認めよう。


 上手く言葉に出来ないけど、これが奉仕されている感覚なのかもしれない。


 しばらくすると洗い終えたのか、温かいシャワーが泡を流していく――のだが。


「遠坂さん。洗い始めは気づかなかったのですが、左肩にある噛み傷は一体?」


 やけに真面目な雰囲気で聞かれたのは、いつからあるかもわからない噛み傷についてだった。


「それは昔からあるやつだな。でも、いつからあるのかもどんな経緯でついたのかも覚えてないんだ。親父も教えてくれないし」

「……似ていますね、私がつけた噛み傷と」

「そうか?」


 記憶に残るそれと頭の中で比べてみる。

 多分、早夜月がつけた嚙み傷の方が八重歯の主張が強いと思う。

 けれど、基本的な歯並びや形については、似ている部分が多い。


「てことはこれ、人間の噛み傷だったり?」

「するかもしれません。私も専門家ではないので確実なことは言えませんが。……そもそも、幼いころにどうしてこんな場所に噛み傷が出来るのか――」


 噛み傷がよほど気になったのだろう。

 早夜月の細い指先がいきなり撫でてきて、思わず声を上げそうになるも堪えた。


 スポンジの柔らかさとは違うそれが、検めるかのように肩を這う。

 んー、と唸る声。

 これまた真面目な表情で思考に耽る早夜月が鏡に映っていた。


「……遠坂さん。これから一つ、妄想と切り捨てられてもおかしくないお話をしてもいいですか?」

「いいけど」

「私には昔、友達と呼べる男の子がいたのはお話したはずです。その最後についてもお察しの通りなのですが、その時に私が噛みついた場所は左肩――遠坂さんにある傷のあたりなんです」


 何が飛び出してきてもいいように心構えだけはしていたつもりだった。

 なのに、思いもよらぬ方向から殴られて思考が止まる。


 もし早夜月の推論が正しければ、俺と早夜月は幼いころに交流があったことになる。

 その可能性は、学園長と話した時に示されていた。


「ただのこじつけと笑われても構いません。納得させるだけの情報が足りていませんから。でも、もしそうなら、遠坂さんの血を受け付けた理由になるかもしれません」

「……一度吸血した時の味を覚えていたから、ってことか」

「それに、幼い頃のお友達であれば家族同然に信用を抱いていてもおかしくないかと」


 理屈はわかる。

 納得も、まあしよう。


 問題があるとすれば、その当事者が俺と早夜月であることだけ。


 そんなことがあるのか?

 幼いころに俺と早夜月が友達で、始めて吸血した時の傷が左肩のこれなんて。


 ……もし本当なら、親父は知っていて隠したのだろう。

 その理由も推測で良ければ立てられる。


 早夜月が話していたように、吸血鬼は本来一般人には知られることのない存在。

 その吸血鬼と知らずに友達だったのはいいとしても、吸血というトラウマにもなりかねない行為に関わった俺と早夜月を守るために、真実を本人たちに隠した。


 幸い幼いこともあって誤魔化すのは容易だろう。


 早夜月は吸血して傷を負わせたことを覚えていたけど、相手のことは覚えていない。

 これは吸血鬼としての本能なのかもしれない。


 俺がどちらも覚えていないのは、吸血による恐怖から身を守るためか。

 それか、吸血という行為を上手く認識できていなかった可能性もある。


「……これは意味のない、もしもの話かもしれません。けれど、本当に遠坂さんが幼い頃に出来た初めてのお友達なのだとしたら、私はまた遠坂さんを傷つけて――」

「俺は傷ついたなんて思ってないからな」


 早夜月の言葉を遮るように被せて、否定する。


「その友達も似たようなことを思ってると思うぞ」

「……どうして、そんなことが言えるんですか」

「友達なら助けたいと思うのは当たり前だろ」

「その結果、自分が傷つくとしても……ですか?」

「一般論になるけど、男ってかっこつけたい生き物なんだよ。特に女の子の前では」


 しょうもない理由だけど、人間は理屈で語れない部分もある。


 現に高校生になった今ですら女子へのアピールのためにかっこつける男子は多い。

 俺にはそこまでではないにしろ、かっこ悪いところを見せるよりはいいかと思っている節はある。


「だから変に遠慮しないでくれ。俺は俺で、その友達は別人。確実な証拠もないなら、その方が都合がいいだろ?」

「……でも、同じなら謝れます」

「謝るくらいならありがとうって言ってくれ、ってのはかっこつけすぎか」


 伝えたいのは結局、そういうことで。


 善意による行動の結果なら、謝罪よりも感謝を伝えろと親父も言っていた。

 それだけですべて納得できるわけではないにしろ、感謝は一つの指標となる。


「いつも美味しい飯を作ってくれてありがとう、早夜月」

「……こちらこそ、血を分けていただいてありがとうございます」


 改めて感謝を伝えあうと、示し合わせていないのに互いの笑い声が重なった。


「やっぱり、助けていただいたのが遠坂さんで良かったと思います。でなければこんな風には笑えなかったと思うので」

「ただの偶然だけどな」

「偶然でも、ですよ。それと、このことは念のため父に確認してみます。何か進展があったらご報告しますので」

「頼む。俺も親父に聞いてみる」


 電話が繋がるかはさておきだけど。


「お背中も流しましたから、私はお先に失礼しますね。お着替えのためにタオルをおひとつ貸していただいてもいいですか?」

「もちろん」


 答えれば、早夜月が浴室を出ていくのが鏡に映る。


 やっと一人になったところで息をつき、


「……着替えるって、脱衣所でだよな?」


 半透明の扉越しに揺れる人影を認識しながらも視線と意識を逸らし、身体の続きを洗い始めるのだった。


 ―――

 らしいですよ(何がとは言わない)。

 覗かれてもいいし、なんなら覗いてくれた方が楽かもしれないと思っていた。


 なんとか折り返しくらいに来たと思われます。


 ここまで読んでいただきありがとうございます!

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