第2話 記憶と秘密

「どうして早夜月が倒れて……いや、原因究明より安否確認が先だな」


 思考はほんの数秒。

 動揺しつつも駆け寄り、様子を窺う。


 膝立ちになって見下ろすのは、前髪が軽く目元を隠している早夜月の顔。

 苦しげな表情でも、不思議なくらいに美しさが損なわれていなかった。


「早夜月、大丈夫か」

「……だ…………れ」


 まずは直接呼びかけてみると、か細い呻き声の後に瞼が緩慢に上がっていく。

 露わになるのは青みがかった虹彩の瞳。

 力無い視線を真下から注がれながらも、意識があったことにひとまず安堵する。


「早夜月と同じ日直当番で隣の席の遠坂だ。わかるか?」

「………………構わ、ないで……ください」

「無理を言うな。倒れていたクラスメイトを見て見ぬ振りが出来るほど薄情者じゃない。必要なら救急車を呼ぶが」

「…………いりません。貧血みたいな、ものなので」


 普段の涼やかで澄んだ声は途切れ途切れで、掠れていた。

 救急車も拒み、左手を床について起き上がろうとする。


 しかし、起き上がることは叶わなかった。


「貧血なら保健室で休め。肩を貸すくらいならするし……気は進まないけど、必要なら抱き上げて運んでいくぞ」

「…………」


 俺の申し出に返答はなかった。

 代わりに向けられるのは朧げながら、熱に浮かされたように蕩けた蒼い眼差し。


 その矛先は俺の顔……ではなく、首元のように感じられる。


「――美味しそう」


 ぽつり。


 早夜月が零した呟きが、耳朶を叩く。


 俺の聞き間違いでなければ、早夜月は「美味しそう」と言っていた気がする。

 何が? ……まさか、俺のことか?


 きっと何かと勘違いしているのだろう。


 あの早夜月が人を見て「美味しそう」なんて言うはずがない。

 そんな思考を経てから早夜月が立てるように手を差し出す。


「やっぱり休んだ方がいい。いくらなんでも人を見て「美味しそう」なんて感想が出てくるのは疲れていると――」

「…………ごめん、なさい」


 唐突な謝罪に困惑した瞬間、早夜月の両腕がゆらりと俺の首へ伸びてきて、女性とは思えないほどの力で絡め取られる。

 崩れる体勢。

 早夜月を押しつぶさないように倒れようとしたが、踏ん張りの効かない身体では難しい。


 結果、不時着した先で頭に柔らかな感触が押し付けられる。

 不意に吸い込んだ空気は、早夜月の体臭なのか妙に甘く感じられた。


 まずい、と思い即座に離れようとした直後、


「っ、何を」


 首筋にかかる生暖かい吐息。

 それが一度、二度とかけられ、背に痺れにも似た震えが走る。


 それだけにとどまらず、味見をするかのように赤い舌がゆっくりと、舐るように首を這う。

 少しだけざらざらとしていて、唾液の粘性と温かさを感じるそれ。


 なんだ、この状況は。

 どうして早夜月に首を舐められている?


「早夜月、悪い冗談なら今すぐやめろ」


 強く告げるも早夜月は聞く耳を持たず、首筋を舐め続ける。

 しかも拘束も緩まないから離れることもできない。


 どうしたらと思考を巡らせていると、


「――――ッッ!?」


 首元に走る、鮮烈な痛み。


 同時に、朧げな記憶が脳裏に浮かぶ。

 幼稚園児くらいの幼い少女が、俺の肩に噛みついている。

 その場所は奇しくも俺の肩にもある傷の位置と一致していて。


 しかし、痛烈な痛みが意識を現実へ引き戻す。


 俺の首元に埋められていた早夜月の顔。

 首へ控えめに添えられた口、垣間見えた八重歯は言い訳のしようがないほど俺の首へ突き立てられている。

 口の端から溢れている一筋の赤こそ動かぬ証拠だろう。


 それらの視覚的な情報と、脳髄が痺れるほどの痛みから導かれた結論は一つ。


 早夜月が、俺の血を啜っている。


「……はっ…………ん」


 息を継ぐ微かな声。

 喉を鳴らす早夜月が離れることはない。


 初めの鋭い痛みは徐々に収まりつつある。

 ……が、反比例するかのように頭の奥がぼうっとして、じんわりとした快楽を帯び始めていることに気づく。


 自分の意識とは関係なく下腹部に血が巡る。

 人間の三大欲求、性欲。

 俺にも当然備わっているそれを否応なく、理解できないままに刺激され、思考が徐々に濁っていく。


 なんだ、これは。


 ありったけの理性を総動員して不用意な真似はしないようにと自分を戒める。

 こんな意味の分からない経緯で、過ちを犯す気はない。


 取っ散らかった思考を必死にかき集めるも、完全に想定外の現状にまるで対処法が浮かんでこなかった。


「早、夜月……っ」


 代わりに溢れた声に反応したのか、はたまた満足したのか――首筋から早夜月が離れていく。


 透明な唾液に混じった赤い血が糸を引き、空に橋を架け、落ちる。


 頭の奥がくらくらとする。

 視界も意思とは関係なく、ゆっくりと回っている気がした。

 貧血みたいな症状なのは血を吸われたからだろうか。


 ぼんやり考えていると離れた早夜月が上体を起こし、閉ざしていた瞼を上げる。


 開かれた双眸。

 澄んだ海みたいに青いはずの瞳は、血のように鮮やかな紅へと変わっていた。


 瞳に込められていたのは困惑や驚愕、罪悪感、嫌悪、そして歓喜や陶酔すらも混ざり合った玉虫色の感情。


 まるで俺と同じく、想定外の状況に混乱しているみたいな。


 その早夜月が数秒ほど呆けたように俺を見てから勢いよく頭を振った。

 左右に舞う銀髪が背に戻る前に両手を床に突いて頭を下げ、土下座の姿勢に。


「……ごめんなさい、遠坂さん」


 開口一番に放った謝罪の声は、誤魔化しようがなく震えていた。


「――私は、あなたに許されざることをしました。言い訳も、申し開きのしようもありません。この罪は必ず償います」

「……早夜月、顔を上げてくれ」

「ですが」

「謝罪は受け取った。あの早夜月が何の理由もなしにこんな凶行に出るとは思えない。理由を教えてくれないか」


 あくまで高圧的にならないよう口調に気を付けながら告げると、ゆっくりと早夜月が顔を上げていく。

 そして「もちろんです」と頷き、


「……信じてはもらえないかもしれませんが、私は吸血鬼――人間の血を啜って生き永らえる生物の、先祖返りです」


 口を開いて鋭く尖った八重歯と赤い瞳を見せながら、自らの秘密を明かした。

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