原爆投下反省の日に向けて〜その不必要性について。

@NataaNichizyo

第1話

今日(20248/6(Tue))は広島原爆の日。

その悲惨さや悲しみ、憤慨や今後あるべきこと、戦争や紛争がなくならないのはなぜか、まで、

それらを理解する最初の一歩は、最初は言葉で共有するところから。

それで全ての感情や思いを伝えることはできない。

本当のことを理解するためには想像力。伝える側も本当にわかっているのか自省すべきであるし、受け取る側も、単にセンチメンタルな観点からだけでなく、それが本当に意味することを考えるべきである。

その中で本当に理解したかどうかを互いに話すことは必ずしも必要なことではない。伝えることは主目的ではなく、知ることによって互いの心の中に変化が起きたこと、相手が伝えたいと思ったこと、相手の心に何か影響を与えたこと、それが確認できるだけで良い。その上で、自分が駆使出来る範囲の言葉で余韻を話合うことは悪いことではない。言葉の力を過信しすぎずしかし諦めず意思を失わないことが大切なことなのだ。


もう一つ。核を捨てないのはなぜか? 抑止力を根拠に必然性が主張されているのは何故か? アメリカ等で家庭で銃を保持することが認められていること、道の向こうから歩いてくる人が急に殴りかかってくる心配をすること、これらは何から生じるものだろうか? 貧困や置かれた位置への不満、身体的経済的不利に陥ることへの回避。それらの思いが根底にあるのではないか。直裁的には、核兵器の存在に効力がないことを明らかにすることだが、他の武器を使うことへも広げるべきなのだろう。人はなぜ死んでは行けないか、殺しては行けないか、そこまで考えてその一つの具体的な表現が原爆投下なのだと考えるべきだ。

原爆がなくなればそれでいいのではなく、その主張をしている人が、それを含めた武器の使用、ひいては戦争や紛争の否定まで考えを巡らすべきなのだ。

化学兵器に反対する人たちはなぜそれだけを言う? それを使う根源の戦争や紛争に何故拡大しない? そんなのわかりきっているから言わずもがなと言うスタンスか? それとも戦争は必要悪だが化学兵器を使うことはやり過ぎだと狡く考えていないか?

戦争や紛争が何故だめなのか、殺傷が何故ダメなのかを人々は冷静にちゃんと考えるべきだ。経済を回すため、つまり安楽な暮らしをしたいと願っている人は、経済物資を消費する市場がないといけない。戦争がそれを無くしてしまうことはすぐにわかることだろう。それとも消費能力がない市場はなくても構わないとでも思っているのだろうか? 世の中そんなに単純ではない。消費能力がない一人の人、一つの市場を抹消することは周辺や遠く離れた、ひいては自分自身にも不都合な影響を与える。

残酷な言い分だが、別の見方としては臓器移植など、これももしかしたら自分や身近な人へ影響を与えるかもしれない。人間の科学はまだ生物を作り出すことは実現できていない。つまり貴重な資源なのだ。ずいぶん昔はその排泄物も食物連鎖によって自分たちの食糧につながった。それだけ貴重な資源なのだと理解すべきだ。

遠く離れた人への影響にすぎないと考えていても、殺傷しようとしている人がその人たちを生かすことによってそれを起因として回り回って自分達を生かすことにつながることになる、そういう想像を致すべきなのだ。

ある程度教育を受けた人ならば、その程度の思考力や想像力は持っているはず。もしそうでないなら教育の問題。教える側が、もしかしたら、持ち合わせていないのかもしれない。構造的なそれらの問題こそ重大な課題として認識すべきなのだ。


以上、理解につながる言葉の力とその限界、原爆をはじめとした武器からその根源に至る想像力の必要性について書いた。


以上

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