夏海の白旗と誇りと誓い
鈴ノ木 鈴ノ子
夏海の白旗と誇りと誓い
大陸歴1944年10月2日午後0時、この刻は後世において歴史的な日として記録されている。
10年に及ぶ世界を二分した戦いに終止符が打たれた日。
世界各国の代表団が氷の大陸である南極にて停戦文書に各国が署名し世界大戦は終戦の道筋を迎えるに至った。署名のそのときに至るまで疑心暗鬼に囚われたままで、限られた人しか訪れることのできない氷の大地にて停戦条約を結ぶなどという愚行が如何にあの戦争が愚かだったかを物語るだろう。
さて、我がルガリオ公国の代表団も署名を終えて安堵の表情を浮かべ調印後の記念写真に勤しんでいる頃、南極から程遠い灼熱の太陽が照りつける南洋において「合同作戦」が実施されていたことが、機密指定を解除された海軍公文書より明らかになった。
ごく最近に催された記念式典でこの事実を知った私は取材のためその軍艦の艦長と救助された軍人を訪ね歩き取材を申し込んだが、2人より柔らかな言葉で取材を拒否する旨とその代わりに事実を記した手紙を頂戴した。他の乗組員への取材も参考に記事にさせて頂いた次第である。
平和の訪れた終戦のこの日に掲載できたことに感謝するとともに、この平和が長く続くことを願う。
➖カンザ歴5年(大陸歴1964)10月2日 トーリウ新聞 国際紙面 記者の独り言➖より抜粋
南極で停戦条約が締結される2時間前より各国は自軍に対して全ての軍事行動の中止と即時帰還を命令していた。もちろん、我がルガリオ公国も同種の命令を参謀本部より各軍へ通達しており南洋で作戦行動中であった第三艦隊第二戦隊にも届いていた。
この時、第二戦隊は世界大戦最後の戦闘と称される「リンガル沖海戦」を五時間前に終えての撤退行動中であり艦隊は苛烈な戦闘よって少なからずの損害を被っていた。その中の1艦、大型航空母艦「ノナシ」は艦の特性故に攻撃目標になり易く各部から黒煙を吐き出し溺れそうになる身体を必死に浮かせて前進していた。
的確な応急措置(ダメージコントロール:ダメコン)と戦艦譲りの強固な艦体のおかげで装甲飛行甲板に急降下爆撃機の爆弾9発と雷撃機による魚雷攻撃を左右2発浴びながらも何とか自力航行を続けていた。しかし停戦1時間前についに機関が根を上げてしまい立ち止まっての修理をせねばならない状況に陥った。
「司令官へ、本艦は修理のため停船する。各国は停戦条約のために戦闘停止中であることから我が艦は修理と優先する、命令自由の発令中のため司令官許可不要は取らない。以上を必ず伝えて。副長は指揮を取りダメコン要員を除く他を駆逐艦へ移譲させよ」
艦橋の最上部、防空指揮所と呼ばれる大海原と大空が見渡せる平時なら素晴らしい景色を堪能できる艦橋に立ち、煤けた世界な立ち向かう女神よろしく女性艦長で公国に漫然たる影響力がありながら控えで有名なエルフ族のミシェル・ロンバート伯爵少佐が狼族の通信兵と熊族の副艦長にそう命令を下し両者の肩を優しく叩くと命令を受けた両者は悔しい表情を隠しもせずに命令を復唱した。最後まで残りたい悔しさが滲み出ていた。
横付された駆逐艦にラッタルの降ろされ速やかに移譲が行われる。15分とせぬうちに1600名の全乗員のうち800名(傷病者含む)が悔し涙とキツく握りしめた片拳で離れゆく母艦へ敬礼を向けたのだった。
随伴する艦隊から落伍した全長280mの大型空母は仲間を見送るように足を止めた。そして灼熱の大海原に浮かぶ孤島のようにポツンと波に揺られては、艦内の応急修理を継続し続けていた。
正午、艦内放送へと接続されていたラジオより停戦が正式に公表されても艦内の空気は殺伐としていた。火災消火も済み、至る所の修理もなんとか終えることができていたが肝心要の機関の修理に手間取っていた。外気以上の灼熱と化した機関部で汗を滝のように流しては修理に励む機関科とダメコン要員の元に陣中見舞いへと訪れていたミシェルの側に急報を携えた狐族の防空監視員が姿を見せたのは条約発行から1時間が経過した頃だった。
「共和国の将兵?」
「はい、双眼鏡で目視確認しました。軍服は共和国軍のものです。救命筏で漂流中であり負傷兵も数多く乗っている模様です。いかがいたしましょう?」
「武器の類はありそう?」
「遠方ですのでなんとも…判断しかねます」
「そうね…、直接見て判断するわ、案内して」
「はい、艦長」
傷ついた艦内の通路やラッタルを艦底の機関部から飛行甲板まで一気に駆け上がる。ちょっとした高層ビルくらいの階を駆け上がるのに息が絶え絶えになるが仕方がない、エレベーターなどを動かす貴重な電力は修理へと優先的に回さなければならないためだ。
途中、航空機格納庫に立ち寄った。
誘爆を防ぐために艦長命令により全艦載機を海中投棄したたことで伽藍堂となった格納庫にはところどころが赤く染まる白い布に包まれた部下達が、いや、戦友が横たわっている。
先の戦闘で失った仲間達、駆け寄って一人一人のその手を握りよくやってくれたと伝えたい気持ちを堪える。拳を強く握りしめる。
その奥の救護所では軍医と看護師達が片付けやダメコン要員の怪我の処置をしているのが見えた。
彼らの献身的な医療と看護があるからこそ戦える。深く一礼したのちに戦友達にも深い敬礼と祈りを捧げた。この勇敢に戦った彼らをなんとしても国へと連れ帰るのが最後の使命でもあると気持ちを新たして、再びラッタルを駆け上がり傷だらけの飛行甲板へと出た。
小学校二つ分以上の広さを持つ飛行甲板のな右舷端、対空機銃とひしゃげた高角砲の脇に立ってミシェルは双眼鏡で海面を見つめた。確かにそこには白い救命筏が幾つも列をなしてこちらへと流れてきている。対空監視員の持つ無線機で通話した操舵長の見解では海流が早いためこちらに追いついてきたのではないかとのことであった。そして間違いなくリンガル沖海戦の生き残りだろうとも釘を刺されるように付け加えられた。彼らは少なくとも8時間以上漂流していたことになり、南洋の炎天下を漂流するなど体力も気力も消耗しきっていることは安易に予想できる。だが、格納庫で眠る物言わぬ戦友達のことを考えると、救助しようという気持ちが素直に口にすることも躊躇われた。
大切な部下達を傷つけて殺したのも彼らなのだから。
双眼鏡より視線を外し、思考が立ち止まって足踏みをしていたミシェルが双眼鏡を再び覗いた時のことであった、軍服を着た人物がよろよろと立ち上がると手に持っていたオールに白い布を巻きつけるのが見えた。意識がしっかり保てていないだろうか覚束ない手つきでそれを巻きつけ結びつけた彼がどこに力が残っていたのだろうかとら思わせるほどに天高くオールを掲げてそれを左右に力一杯、一心不乱に振り始めた。
『投降もしくは降伏の意思あり』
大陸条約によって全世界共通となった降伏の合図だ。表情までは窺い知れないだが、白い旗が何度も何度も陽光を反射する海に旗めく。ロープで連結された他の筏にも双眼鏡を向ける、途端、ミシェルの息は息を呑むこととなった。
舵を取る人間はどうにかかろうじて生きているように見える。だが、その筏に乗った、いや乗せられた水兵達がとても生きているとは言い難かった。獣人族特有の尾や耳が海水に濡れたままで真夏の太陽の光をキラキラと反射している、彼らはその部位が濡れることを酷く嫌がり、もちろん、エルフ族の自分だって尖耳が濡れるのは大嫌いであった。灼熱の炎天下でそれが濡れたままだらりと首を垂れている。即ちそれは死体であると物語っているに等しい。
それが何十艘も連なって続いていたのだ。心が握りつぶされるように締め付けられる。
あの旗を振る士官はただ単に生きている者を助けてくれと言っているのではない、戦友達を助けてほしいと懇願しているのだと悟る。自らの命を犠牲にするかもしれないにも関わらずだ。
先ほどまでの躊躇いをミシェルは深く恥じると口を開いた。
「右舷のラッタルを全て下ろして、それから右舷エレベータを稼働、海面ギリギリまで下ろしての救助を行います」
「宜しいのですか?」
不服そうに再度尋ねた監視員に双眼鏡を覗くようにジェスチャーし全ての筏を見つめるように付け加える。数秒してその口がグッと奥歯を噛み締めるのをミシェルは見逃さなかった。
「見捨てることはできないわ、時間をかけることも許されない」
そう言い残すとミシェルはその場から駆け出して一目散に艦橋を目指してゆく。監視員は腰に下げていた無線機で艦長の指示を伝えていて、程なくして右舷側のエレベータが大きな音を立てて駆動していくのが聞こえてきたのに満足しながら、大急ぎで艦橋へと続くラッタルを駆け上がる。やがて防空指揮所の真下にある戦闘指揮所に駆け込むと、勝手に残留した軍旗違反の犬族の操舵長や猫族の戦務長が己のできる最良の指示命令を飛ばしているのが見えた。
「艦長、エレベーターは1回きりです。発電機が再起動してバッテリーのクソから解放されるまではもう暫くかかりますからご容赦ください」
右舷のエレベーターは弾薬搭載用も兼ねており、錨泊後の岸壁の位置に下ろせる仕様だ。魚雷によって戦艦譲り両舷バルジ(海水を注排水して船体を水平に保つ機構)は穴と注水によって満水状態であるので喫水線はギリギリまで下がっている、よってエレベーターは海水面まで降ろすことが可能であった。
「戦務長ありがとう。それから無理を言って……」
ミシェルの言葉を手のひらを立てて制した犬族の戦務長がその先の言葉を否定するように首を振った。
「謝らんでください。防空監視員から聞きました。公国と違い共和国では我々亜人種には厳しい。死体ともなれば物のように扱われると聞いたこともあります。貴女は軍人としても人間としても満点ですよ。この場は私たちが引き受けますから、どうぞ、引き上げの指揮をとってください」
そう言って戦務長が敬礼を向けた。
操舵長以下の戦闘指揮所の要員もミシェルに敬礼を向ける。
「ありがとう、皆、感謝するわ」
敬礼を返してすぐに戦闘指揮所を飛び出したミシェルがラッタルを滑り降りるように下って格納庫へと辿り着いた頃には、エレベーターが水平展開と各種装備と人員を乗せて降下を開始するところであった。
滑り込むようにエレベーターに乗り込み差し出された命綱を腰に装着する。数人のダメコン要員と拳銃や機関銃を装備して万が一に備える緊張した面持ちの警備兵と共にエレベーターはゆっくりとゆっくりと光り輝く水面へと降りていく。
潮流は思いの外早いようで筏が目と鼻の先まで迫っていた。
『我々は降伏する。助けて頂きたい!』
先頭を行く白旗を振っていた士官がそう公国語で書かれた布を両手で広げていた。血文字で書いたであろう赤く滲む旗に本当に助けを欲していることが改めて肌身で理解できた。
「そこの2名の警備兵以外は全員救助にあたりなさい、誰一人取り残すな、たとえ生きていなくてもだ」
制圧機関銃を持っていた2名のみに水平の構えを取らせ、残りの警備兵も救助に動員する。救難用ロープ射出機が飛行甲板から砲のような音をあげて発射されると、太いロープが真っ直ぐに筏の上を通り越して落ちた。
旗を掲げていた士官がロープを掴み筏へと固定するのを待ち固定を終え再び旗を掲げた。ロープの牽引装置が動き出すと筏がこちらへと引き寄せられてくる。
潮の香りが徐々に死の香りに変化するのが手に取るように分かった。
灼熱の日差しと水温の高い海水を被った死体は腐敗が早い、腐り始めると膨らみ始めガスを体内に貯める、それが口や鼻や尻の穴、そして穴の空いた傷口から漏れいでる。体液と混じり合ったその独特の匂いはほんの少し嗅いだだけでも嘔吐するほどだが、戦時昇進によって若いながらに少佐にまで階級を上げたミシェルは残念ながら鼻が慣れてしまっている。災厄なことを言えば心も慣れてしまっているからどうと言うことはない。
引き寄せられてくる筏で旗を振っていた共和国軍人の顔が見える距離まで近づいてくると思わず背筋が寒くなる、顔面の左半分に何かが張り付いていてそれが鉄製の何かの部品であることに気がつくまでに時間は掛からなかった。なんとしても助けなければと心の奥底から湧き上がる。それが敵国の軍人であってもだ。自分の身を犠牲にしてまで仲間を救おうとする人間なのだ。筏がエレベーターの真横につけられる。その軍人は痛むであろうに敬礼と笑顔をミシェルに向けてこう言い放った。
「救援に感謝します、貴女に全ての感謝を捧げます」
惚れ惚れするほどに素晴らしい公国語の古い言いましを口にした彼は、そう言い終えると糸が切れた人形のように海へと落ちた。とたん、周りが静止するのが間に合わぬほどの速さでミシェルの体は動いていた。命綱を最大限まで伸ばしそのまま海へと飛び混んでゆく、水温の高い海水と灼熱の夏の日差しで海中はよく見えた。沈み落ちてゆく彼を見つけると一目散にそちらへと潜る。指を数本失った手の手首を掴むと命綱を数度引っ張って光が振り降りてくる方へと必死に海水を漕いで上へ上へと向かう。錘を取り付けたようにずしりとする彼の手が不意に力を取り戻した気がした。上に引くとその重さが徐々に徐々になくなってくる。やがて、青空と死臭の漂う海面へと2人は顔を出した。警備兵が命綱を引っ張りエレベーターへと手繰り寄せてくれるのを手首から彼の胴体へと後ろから手を回して抱き止める。
「部下を、どうか、部下を見捨てないでください、どうか……」
ぐったりとしており意識が定かではないにも関わらず、彼は譫言のようにそう呟いている。ぽちゃりぽちゃりと水音と青空に水平線が見える世界は地獄にしては綺麗な光景であった。艦へと辿りつく直前に彼の顔の左半分に張り付いていたものが剥がれ落ちて海面に沈んでゆく、血が少し吹き出して流れ出したのを慌てて片手で後ろから覆った。流れ出る血の感覚が海水よりも生暖かくて彼がまだ生きていることを教えてくれる気がする。
自らの体ごとエレベーターの上に引き上げられると傷口から手を離し体を離して脇に立ち、膝を負って彼の顔面にポケットに入っていたハンカチを当てる。
左顔面の額から目を潰して頬より下顎まで深い傷が一本線のように走っていて、そこから血が湧くようにじわじわと滲み出てはハンカチをあっと言う間に染めてゆく。
「なんとしても助けなければ」
血に塗れたエレベーターの床に彼を寝かせながら、警備兵から差し出された救護キットのガーゼを押し当てて止血を試みる。右顔面は痛みで歪み顔色は青白く息も絶え絶えだだが彼は生きている。自らの危険を解離みずにロープを伝い看護師が降りてきてくれ彼に的確な処置が施され始めたのに安堵したところで警備隊員とダメコン要員の手伝いにミシェルは入った。筏の幌をナイフで裂いて遺体を寝かせては一纏めにして寝かせて縛っていく。
地獄のような作業だ。
航空機2機を積載することのできるエレベーターが一杯になるまでにそれほど時間が掛かることはく、最後の筏から下ろし終えた時には全員の衣服は元の色が分からぬほどのどす黒く赤くなり陽の光でぬめりのような反射を伴っていた。
「上昇駆動開始!」
駆動を告げる強烈なベルの音が全員の意識を呼び覚ます。地獄のような光景を前にして人はどんなに訓練に従事していても意識を閉ざし事にあたることができる。今まさに一人一人が人として戻ってきたと言っても過言ではなく、凛々しく立っていた全員が膝が折れたように崩れ落ちる。そして無言のままで血塗られた両手を見つめて、幌に包まれた遺体を見つめたのちに涙を溢した。ぽたりぽたりと眼から雫が落ちては顔についたものと混ざり合い、真っ赤な雫となって落ちるのを誰1人止めるものはいない。ミシェルもまた顔を隠してそうしていた。艦長だから見せるわけにはいかない、けれども、人間としての感情を御すことができなかった。艦体とエレベーターの隙間から見える海の色は青くてそして光の反射で美しいのに、そのエレベーターの上は人類の醜さとそれを一雫だけ跳ね返すことのできる仲間と男がいる。その対比が軍人として戦うミシェルの精神をひどく揺さぶった。
「駆動停止!」
どれほどの時間をそうしていたのか、声に意識が再び現実へと引き戻される。
立ち上がって格納庫に視線を向けると、他の要員達が黙って敬礼を向けていた。最前列に戦務長が立っているのが分かった。弱腰は見せられないと速やかに身を起こして立ち上がると顔を汚れた袖で拭う。
「艦長、報告します。機関修理完了、数分後にスクリューに接続し航行を開始します。交代いたしますのでお休みください、シャワー室も使えるように整えました。他の者もご苦労だった。すぐにシャワーを浴び特殊石鹸で洗髪洗体後、しばらく休め」
エレベーター上で固まったままだった者たちはゆっくりと立ち上がった。
「皆、ありがとう。ご苦労様でした。戦務長、後を頼みます。彼のこと気にかけてあげてください」
「承知しました」
担架に移された共和国士官は看護師と軍医に付き添われてその場を去っていった。戦務長に視線を合わせると優しさとも悲しみとも何とも言い表すことのできない視線が向けられていることにミシェルは気がついた。
「艦長、本当にお疲れさまでした。もの言えぬ救助者については丁重に扱います」
「くれぐれもお願いします、救助に関わってくれた皆、戦務長の指示通りに行動して、本当にあなた達がいて心強かった。心から礼を言います。ありがとう」
エレベーターの上にいた全員が立ち上がって敬礼を向けてくれる。返礼を返しながら一人一人に視線を合わせてしっかり礼を伝え終えるとミシェルは身を引き摺るように格納庫を艦内通路へと歩き始めた。
戦務長が数歩横に移動して再び敬礼をミシェルに向ける。整列していた全員も同じように進路を譲り敬礼を向けていた。
ミシェルはそのまま格納庫から艦内通路のすぐ脇にある飛行隊専用のシャワールームに入り込むと水密扉を閉めた。色々なものに塗れた衣服から下着までを脱ぎ終えると近くにあった麻袋に入れゴム袋で封をした。シャワーの蛇口を捻ると程よい暖かさのお湯がで始める。機関が停止してボイラーの動きが限られるというのに温水が出るように手を回してくれた部下に感謝して、その降り注ぐ雫と湯気をしばらく贅沢に浴びると張り詰めた気持ちの糸がとき解されてくる。近くには匂いの強く石油の匂いすらも消しさる専用石鹸が新品で用意されていた。油分を根こそぎ落とすその石鹸で髪だろうが皮膚だろうが全てに塗りたくるようにして洗っては幾度となく体を清めてゆく。排水溝へと赤黒い水が流れ落ちてゆくのを見つめて思わず身を抱きしめた。
「ふぅぅ……うう……」
泣き声が口から漏れる。
必死に歯を食いしばり堪えても喉は鳴る、閉じた口から漏れる声と、シャワーの暖かさと違う涙の暖かさを感じながら、震える両手で自らの身を更にかき抱いた。純粋な恐怖感がシャワーの雫と共に降り落ちてきたように思えてしばらくの間動くことができなかった。
やがてどうにか気持ちを切り替えることができ、清潔なタオルで油分が抜けて音を立てる髪を拭き体を拭き終える。近くに並べられていた身の丈に合うツナギの飛行服とブーツを借りて素肌の上から着用しシャワー室を出る。着替えを済ませるために艦長室まで艦内通路を歩いて行くが誰1人としてすれ違うことはなかった。まるで人払いでもされているかのようにひっそりと静まり返っていて、ひどい顔を誰1人に見せることなく辿り着くことができた。
艦長室の隣にある狭い私室で飛行服とブーツを脱ぎ捨て真新しい下着と戦闘服で身を固める。小さな鏡の前で顔を見つめればひどい有様だった。目の下の腫れが初恋が破れて泣きはらした時のように酷い、思わず引き出しにあった昔の男から渡された黒のドーランを塗りつけてそれを隠した。ヒリヒリと塗った部分が痛んだが、それがかえって意識を覚醒させる。艦長室に再び戻り予備の階級章や肩章を制服に取り付けいつも通りの姿をすると部屋を後にした。
そのまま少しだけ休ませてもらっても良かったのだが、どうにも意識も体も休めそうになかった。
「艦長入室!敬礼!」
戦闘指揮所に入ると警備兵が声をあげてミシェルの入室をつげる。全員が立ち上がって敬礼を向けるので返礼を返すと、操舵長が隣へとやってきた。
「お休みにならなくてよろしいのですか?」
「ええ、休んでいると気が狂いそうだもの」
漏らしてしまった弱音にしまったと顔が引き攣るが、操舵長は気にしないでとばかりに軽く首を振った。
「さて、今の現状を説明いたします」
場違いなほど穏やかにそう言った操舵長の冗談めかした優しい笑顔が嬉しい。その笑みに少しだけミシェルの顔にも笑みが漏れた。
「現状、6ノットで航行を開始しました。最終的には12ノットで航行が可能となる予定です。本国からは停戦条約発行に伴い、各艦は各基地へ帰還するように命令が出ておりますので、我が艦もそれに従って行動しております。なお、救援艦は出せないとのことでした」
「ありがとう。そこまで事態が進んでいるのなら何も言うことはないわね」
「それから軍医から落ち着かれたら一度、医務室を尋ねてほしいと」
「ありがとう、行ってみるわ」
そう伝えた直後だった。突然、防空指揮所との直通回線の電話がベルを鳴らした。操舵長がその電話に出て数秒もせぬうちに大声を上げる。
「面舵一杯!ジグザグ航行開始!警報鳴らせ!」
先ほどのベルとは比較にならないほどの大きな音が鳴り響く。戦闘指揮所の全員が掴めるものを掴んで身構える。
再び操舵長が声を荒げてミシェルに視線を合わせて報告する。
「雷跡確認、本数2、直線コースで本艦に接近中です」
「戦闘準備、操舵長、指揮を……」
そう言いかけたところですぐ隣にある艦長専用の艦内電話が鳴った。それは艦内の非常事態を知らせる専用のものであり、遂に応急修理箇所に重大事態が発生して来るものが来たかとミシェルは身構えた、少し震えながら受話器を手にして耳へと当てる。戦闘指揮所の誰彼の視線は艦長に向けられたが、操舵長がハンドサインで戦闘に集中せよと指示を下した。
『艦長よ』
『軍医のタケハラです。戦闘中に申し訳ありません。治療中の捕虜より重要な情報が入りました』
『捕虜?先ほどの彼ね、彼は捕虜ではないわ、私の、いえ海軍の客人扱いであることを忘れないで』
厳しい口調でミシェルはそう注意する。
あれだけのことを成し遂げた彼を捕虜扱いするなど許されることではないとの思いが滲み出た。
『失礼しました。彼はリッチ・レイワ・ロウ上級大佐、空母ミシュレインの艦長と名乗っております。認識表(ドックタグ)、及び、治療のため脱がした制服から軍務手帳が出てきましたので間違いないでしょう』
ミシェルは言葉に詰まった。
先程の海戦でこのノナシの艦載機が第一攻撃目標に定めた敵大型空母だ。初撃から航行不能にまで追い込んだもののあと一歩のところで撃沈を逃していた。もしかしたら先程引き上げた彼の戦友はその空母の乗組員であったのかもしれない。
『そうなのね、で、手短に内容を』
冷静に努めながらミシェルは軍医に話を促した。軍医もまた戦況を知ってるために語る口調は硬いものがあった。
『共和国軍は停戦を受け入れましたが、共和国親衛隊は戦闘を継続しているとのことです。航行不能に陥った空母と親衛隊の潜水艦が接触てしまい空母は沈没したそうですが、その前後に親衛隊の命令が下されていたと、敵空母を時を問わず必ず撃沈するよう指示が下っていたとのことであります』
『軍はまともでも、あの国の親衛隊は性根が腐っているもの。ありがとう。対抗手段を検討するわ』
『はい、それから彼の状態は安定しましたのでご安心ください』
『助かるわ、引き続き必要な治療をお願い』
『了解しました』
受話器を置き目の前にある海図台を見つめる。操舵長によって敵潜水艦の大まかな位置にポイントがされている、けれどもそれに対しての攻撃オプションはこの艦には残されていなかった。苦し紛れに高角砲で海上を砲撃することも可能だが、弾薬も砲手も最低限しか残っておらず、全員がダメコン要員として各部署に支援に行っている。
共和国には二つの軍隊がある。
共和国軍と共和国親衛隊だ。正規軍は共和国軍だが、親衛隊は独立した組織で政府ではなく交戦的な大統領に忠誠を誓う独善的な軍隊で私兵に近いといえよう。
当然、戦い方は野蛮で残忍、交戦規定を嘲笑うような作戦を行い公国にも少なからず損害を出していた。
「さて、どうしようかしら」
余裕ぶって見せながら腕組みをしてみる。決して怯えたところを艦長が見せるわけにはいかない。だが、選択肢としては攻撃された場合もう総員退艦命令を下すほかに手はないようなものだ。
「別方向より雷跡視認……ん?」
防空指揮所の受話器を持ったままの操舵長が途中で声を詰まらせた。
「どうしたの?」
直後、遠くの海中で何かが爆発した音が艦内に響き振動が伝わってくる。
「それが最初の雷撃は別方向からの雷撃によって無力化された模様です」
「誰か助けてくれる友軍か、もしくは神様でもいたのかしらね」
操舵長が素早く予想位置に雷撃ポイントのフリップをつける。ふと、最初に魚雷の放たれた位置と次の位置がちょうどクロスすることに気がついた。これは明確にあの雷撃を許さないと言っているように感じ取れた。味方ならば敵艦に対して自衛行動に出るためにはこの艦が被害に遭わなければならないからだ。
「操舵長、受話器を貸して」
「はい、艦長」
渡された受話器を耳に当てる、きっと防空指揮所に最後まで残っているのは老練な連中ばかりであることは熟知していた。
『ミシェルよ、聞こえているかしら』
『はい艦長、よく聞こえます』
『直ちに白旗を掲揚しなさい』
『え?』
『白旗を早く!その後の状況は逐次教えて』
『了解しました』
白旗を掲げる。
これには降伏とともにもう一つの意味も込められている。[戦う意志はない]ということだ。
先ほどのリッチ・レイワ・ロウ上級大佐のように掲揚して、それを見た何者かを信じてみるしかないのだ。
戦闘指揮所の誰もがその意図を図りかねているのだろう。何人かの拳に力が入っているのがよく見えたが、それもまた仕方ないことだと思いながら、海図の上に小さな潜水艦の駒模型を置いた。
一つ目位置と二つ目は魚雷の発射された方向に艦首を向けていたのを、二つ目の艦の艦首を一つ目の方向に向けて見る。操舵長が驚いた顔をしてミシェルを見る、万に一つもあり得ないと思える構図だが、先程の雷撃からこの可能性に賭けるしかない。
『海上に異変はない?』
『今のところは……、いえ、艦後方にて水中爆発と思われる大きな水柱を視認!』
『朗報ね、ありがとう、掲揚はそのままで監視体制を続行して』
『了解しました。警戒監視に戻ります』
受話器を操舵長に返してから一息漏らすと通信士が手を挙げる、何かの通信が入った合図だ。通信士の側まで駆け寄るとメモ書きが差し出される。共和国語の記載の下に翻訳された公国語の文章が記載されていた。
[貴艦の白旗に敬意を表する、並びに同胞の救護に尽力頂いたこと心より感謝する。共和国海軍グーエリーン少佐]
「話の分かる敵…いえ、相手は助かるわね」
通信士の鉛筆を借りその下に返事を書き連ねる。それは詩的でとても軍用通信で送られる内容ではないものだった。
[再会はワインとエールで満ちるように祈る。心から感謝を込めて、公国海軍ミシェル・ロンバート少佐]
ワインは共和国の特産品、エールは公国の特産品だ。ワインは安らぎを与えエールは誇りを与える意味がある、すぐに返信がきたらしく通信士が笑顔で紙を差し出してきた。
[再会の美酒を心待ちに、穏やかな航海をリレフェレディ(古い共和国語で気高い女性への愛称)]
間髪を入れず返事を書き入れて通信士へ突き返した。
[そちらも気をつけてカターリア(古い公国語で誇り高い男の愛称)]
同士討ちだとしても自国の誇りを汚される行為に俄然と立ち向かったその行動にミシェルは深い敬意を表した。防空指揮所にいたのなら敬礼をして見送りたいほどであった。
「白旗を収納し進路を本国へ」
「はい、艦長」
「私は防空指揮所に上がります」
「了解しました」
戦闘指揮所から防空指揮所へと続く通路とタラップを上がりやがて天高く見渡せる場所に出た。
南洋の穏やかな風が心地よく吹いている。先ほどまでのことが嘘のように艦首が波を切る音と空からの日差しが頬を焼いてゆく。気持ちを切り替えるためにはベストな場所と言えるだろう。
艦の進路が定まり真っ直ぐに航行するまで、ひと時の安らぎを得るかのようにぼんやりと美しい水平線を眺める。
しばらくして横に人影が立った。
「艦長、よろしいでしょうか?」
「戦務長、構わないわ」
シャワー後でしかも同じ石鹸を使ったのだろう、髪はボサボサで犬族特有の耳の毛もパサパサになっていた。
「報告します。全員を格納庫に休ませました。側壁を解放し換気も良好です。医務室を艦橋下部にあるミーティングルームに移し必要な治療に当たっております」
「それはなにより、リッチ・レイワ・ロウ上級大佐はどうかしら?」
ふと彼が気に掛かり聞いてみる。
「ゲストはお休みになられています。しかし彼は処断されるかもしれません」
まじまじと何かを考えるように海上に視線を移した彼はやがて深く頷いた。
「どういうこと?」
「きっと筏を操舵をしていたものでしょうか、救助者の中に僅かに意識を戻したものがおりました。すぐに亡くなりましたが、上級大佐が海上から人種も生死を問わずに沈みそうになるものを助け出してくれ、必死に救助が来ると鼓舞してくれたと教えてくれましたよ」
「もし本当なら素晴らしい指揮官だわ」
「私もそう思います。しかし共和国では言い方が悪いのでお許し頂きたいのですが、毛ありより毛なしが優先される国家です。彼の行動は褒められたものではありませんもしかすれば毛なしを助けなかったと責められ責任を負うことになるでしょう」
理不尽なと怒りを感じたが、共和国の政治体制に他国の軍人が文句をつけてもしかたないだろう。
「ちょっと待って、そうなると彼が命を懸けで我が艦に助けを求めた人たちは……」
戦務長が残念そうに首を振る。目に悲壮感が漂っていた。
「うまくいけば戻れるかも知れません、しかし沈んだ艦の乗員を無事に家族元に帰すことをあの国の親衛隊が良しとするとは到底思えませんね…。敵に救いを求めた彼の命も無事では済まないでしょう」
「そんな……」
「あくまでも可能性の話ですが…」
ミシェルにはその可能性が遥かに高いことが理解できた。ハーフエルフの大統領が統治する共和国の親衛隊はほぼ同族で構成されている。
「少し彼と話してくるわ」
「ええ、ここはお任せ下さい、戦闘指揮所にはその旨伝えておきます」
「よろしく、迷惑かけるわね」
「いえ、艦長の元で働けて光栄ですよ」
和かに笑う戦務長にその背中をありがとうと軽く叩いてから防空指揮所を後にする。ラッタルをゆっくり降りながらどうすべきか思案を巡らせてゆく。
本国に返してあげれることが一番良いことだ、家族の元に帰すことが最善なのにそれは許されない可能性が高い、そして唯一の生き残りである彼の命すら危ういのだ。助けた者は最後まで責任を負え、誇り高いエルフとして伯爵家の人間としてそれを胸に刻めと幼き頃の父の言葉が脳裏を過ぎる。
「失礼するわ、忙しいところ申し訳ないのだけど、軍医、彼と話はできる?」
「艦長、お待ちしてましたよ。容体は落ち着いています、少しでしたら大丈夫ですよ」
軍医がカルテを記載する手を止めて、立ち上がると並ぶベッドの内の一つのカーテンを引いた。
彼の容姿に思わず口を覆ってしまう、戦務長の言葉が現実になるであろうことは間違いないだろうと確信できた。助けた段階で抱き抱えた段階で何故気がつかなかったのかと情けなくなりながら、その形が見慣れたものであったからだろうと自らに呆れ果てた。
尖耳をしたハーフエルフがベッドに横たわっていた。
「医官、なにか…」
薄目を開けて慣れた公国語でそう口にした彼の視線がミシェルを見つめた。
「女神様のお迎えかな…」
「馬鹿ね、でもなれるかもしれないわ。私はこの艦の艦長です。名前はミシェル・ロンバートです。リッチ・レイワ・ロウ上級大佐ですね」
薄目が徐々に見開かれ体を起こそとする彼を制した。
「お休みのままで結構、手短に話すわ。まず一つ目、本国が貴方達を受け入れてくれて、きちんと家族の元へ帰れると思う?正直に答えて」
彼は暫く沈黙したがやがて諦めたようにため息を吐いた。
「無理だろうね」
「二つ目、貴方は本国に帰還して無事で済むと思いますか?」
「それは…無理だろうね、親衛隊はそこまで甘くはない」
「やはり、そうなのね…」
悲しそうに呟いたミシェルの手に包帯が巻かれた手が握るように触れた。
「頼む、部下を見捨てないで頂きたい」
最大の懇願をさせてしまったことをミシェルは恥じた。こんなことをさせるためにきたはずではないのだから。
「ごめんなさい、心から謝罪をするわ、貴方の気高い行為を私は汚したりしない。それよりも提案を持ってきたの」
「提案とは?」
「合同作戦のご提案よ」
悲しそうにそう告げるミシェルの手を彼がしっかりと握り直した。
「彼らが助かるならいくらでも乗るよ」
穏やかな声にミシェルは胸を撫で下ろす。最初から拒絶されないことが嬉しかった。
「私は公国の伯爵でもあるのです。領地は広大で海を望む場所もあるわ、そこに皆さんを一旦埋葬させて、貴方には墓守りをお願いしたいの、公国内だけならなんとか無理が可能です。貴方と貴方の部下の誇りは絶対に汚させないことは約束するわ」
軍籍も生活も何もかもをかなぐり捨ててのお願いであった。だが、これ以外に良い手は見当たらない。両手を胸元で組み合わせてエルフ族に伝わる真純の誓いを示す。軍医が慌てふためいて止めるように伝えたが、ミシェルはそれを無視して続ける。彼は目を見開いて驚きを示した後にミシェルから手を離すと同じように胸元で組み合わせた。
「それでお願いしたい、ちなみに失礼ながら貴女は未婚ですか?」
「ええ、そうよ」
彼は更に目を見開き絶句した。
エルフ族の間では未婚の女性がその行為を行って偽りとなれば死で償うとされているからだ。誇り高いエルフで偽りのまま生きることは死よりも苦しいと教え込まれ、そしてエルフは家族を大切にする故に婚姻者は約束で死での償いはない代わりに家族と縁を断つ決まりとなっている。
「貴女の誇りに感謝を、叶った暁には私の全てを捧げましょう」
涙を流す彼に女神のような微笑みを浮かべたミシェルは深く頷いたのだった。
20年後、共和国政府は大統領制を廃して親衛隊は処断と解隊を余儀なくされた。人種差別も着実に撤廃されてゆく中で、リンガル沖開戦の追悼記念式典とロンバート伯爵領でひとときの眠りについていた者達は無事に家族の元へと帰り着くことができたのだ。帰還に際し共和国旗に包まれた棺と国旗と名前が共和国語で彫り込まれた墓碑が共和国軍人の手で運び出され、決して公国軍人は手を触れることはなかった。ただ一人だけ共和国に帰らず公国で暮らす男がいた。
合同作戦の約束を違えなかった二人の合間には来春新しい命が芽吹くという。
夏海の白旗と誇りと誓い 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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