第4話 舌による奉仕

 宮殿のバルコニーに、周囲を囲む木々を涼やかな海風がざわめかせる音が聞こえてくる。


 空には海を銀色に染め上げる満月と、月が穏やかに照らし出すヴェネチアの街並み。


 夜間の転落防止のために海に注ぎ込む川沿いに灯されている明かりが、この位置からでもよく見えた。


「結局、にいさまに赴いてもらうことになりましたね」


「そうだね、クリス」


 夜着に身を包んだクリスティーナとマルコは、木々の欄干ぞいにバルコニーの上をゆっくりと歩く。


 軽く手を触れ合わせたり、髪をいじったりとじゃれ合う。


 幼いころはお互いの髪質の違いでよくケンカになっていた。


 ゆったりとした作りの夜着を海風が揺らし、そのたびにお互いの服がはためいた。


マルコはクリスティーナの従兄弟であり、クリスティーナの母の妹の子にあたる。


国王が女系であるイタリアーナでは、一年前に前王が他界して年若いクリスティーナが後を継ぐことになった。


 即位時に不安の声は聞かれたものの、代々仕える文官武官がサポートしてくれたため今では大きな問題もなく国政を取り仕切ることができていた。


「にいさま」


 欄干に手をかけながらクリスティーナが漏らす。


 弱音と不安の入り混じった声音。議場では、臣下の前では決して許されない行為。


「この国は、イタリアーナは、どうなるのでしょう?」


 クリスティーナが即位して以来、大きな事件は幸運にも発生していなかった。


 シュパーニエンと国境沿いで幾度か小競り合いはあったが、引き分けに終わり死者もなく、捕虜にした騎士の身代金を支払い合うだけで終わった。


 東方の大国トルティーアとも、こまごまとしたトラブルはあった。だがヴェネチアや彼らの首都イスタンブールにさえお互いの交易船が錨を下ろすほどの付き合いがある。


 イタリアーナの毛織物やレース生地、北の山脈越しの国からもたらされる鉄製品。


 トルティーアの絨毯や香辛料。


 これらの交易でシュパーニエンよりもトルティーアに近いという地理的な優位を活かし、イタリアーナは富を築いてきた。


 だがそういった姿勢は、熱心なディオス教信者やシュパーニエンからは煙たがられることも多い。守銭奴、異教徒に与する者、という形で。


「大丈夫。きっと大丈夫。東方のギリシアの首都コンスタンティノープルが落とされた時も、大丈夫だったんだから」


 ギリシア。かつてイタリアーナの東方にて隆盛を極めた国家ではあったが、トルティーアに次々と領土を奪われ、百年前にはついに首都であるコンスタンティノーブルを落とされた。


 現在はイスタンブールと名を変え、トルティーアの首都となっている。


 口にすれば一言だが、コンスタンティノーブル陥落の現実は凄惨を極めた。


防衛のためにディオス教を信ずる各国が連合した騎士団は壊滅。最も勇敢と言われた聖堂騎士団は城の一室に立てこもり、天井の崩落によって敵もろともがれきの下敷きとなった。


教会は破壊され、屋根から引きずり降ろされた十字架と鐘楼にかわって天を衝く玉ねぎ型のモスクに取って代わられた。


大勢の人間は奴隷として連れ去られ、高額な身代金を払えなかった者はトルティーアの奥地に連れ去られ二度と故郷の土を踏むことはできなかった。


トルティーアの支配者スルタンの欲望のはけ口になることを拒んだ年若い王子は処刑された。


 この惨状を聞いた各国は慟哭し、身代金集めに奔走し、ある者は復讐を誓った。


 だがトルティーアの十万を超える大軍を動員できる国は、その当時どこにも存在しない。


一方、イタリアーナの対応は迅速かつ巧みだった。


 深紅の旗を掲げた連絡船の到着とともにすぐさま臨時の戦時予算を組み、大艦隊を港に集結。万一の備えを万全にしてからトルティーアへの使者を派遣。


 これ以上の戦闘を避けるため、コンスタンティノーブル防衛のために参加した騎士団は各人が自発的に集まっただけでありイタリアーナ本国とは何の関係もないと主張。


 同時に、これまで通りの交易が再開できるならば破壊されたコンスタンティノーブルのイタリアーナ人の居住区や財産について一切の賠償を求めないことも伝えた。


 スルタンの急死という幸運も重なり、イタリアーナの和平案は一応の締結を見る。各国も追従する形で和平案に乗っかったが、いち早く戦争でなく和平を提案したイタリアーナとのしこりは長く続くことになる。


「綺麗ですね…… にいさま」


 クリスティーナはあらためて夜の街を見下ろした。潮の香りのする夜風が暖かみのある金髪をなびかせる。髪越しに視線を上方へとむければ満月と星々の明かり。


 下方へ向ければ川沿いと繁華街の灯りが、うっすらと家々の形を浮かび上がらせていた。


 エルサレムが落ちても星の巡りは変わらず、ヴェネチアの人の営みも変わらない。


 現実から乖離したかのような光景が、かえってクリスティーナを不安にさせた。


 そんな従妹の姿を見て、マルコはそっと彼女を抱き寄せる。一国の王女は逆らうことなく、従兄弟の腕に身を任せた。


「心配しないで。必ず…… 必ず、いい知らせを持って帰るから」


「はい…… お待ちしております、にいさま」


 マルコはそっと、指先をクリスティーナに差し出す。


 一国の王女はそれを、何のためらいもなく口に含んだ。


 ちゅぱ、ちゅぱ。


 煽情的な水音がバルコニーに響く。


 クリスティーナは膝立ちになって一心不乱にマルコの指先をしゃぶった。


 髪をかき上げ、熱に浮かされた目でマルコの爪にたまった垢を、節くれだった関節を、肌に浮かんでいた汗をなめとっていく。


 汗と肌の味が口腔内に送り込まれるたびに、クリスティーナの下腹部は疼く。


 胸当てにもレースを重ねたドレスにも隠されていない、布一枚の夜着に覆われただけの胸元が激しく上下する。


 マルコはそんな従妹に対し嗜虐的な快感を覚えることも、憐みの視線を向けることもなくただ優しく見守っていた。


 クリスティーナの身体が雷に打たれたかのようにびくっ、びくっと震える。歯がマルコの指先に食い込むが表情一つ変えない。


「あはあ…… にいさまの指、いつ味わってもステキです……」


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