(五)バイク乗り
出来損ない。劣等生。使えない。産まれてこなければよかったのに。
お兄ちゃんはできるのに、どうして貴女はできないの。
そう言われるのがどうしようもなく苦しくて、自分にできることはすべてやった。
料理の本を買ってやってみたり、床や窓は毎日丁寧に磨いて、散らかった机は片付けた。
学校はどうしても苦手だったけれど、なるべく勉強は頑張った。家に帰ってきてまず宿題をやって、それから家事を済ませたら、寝るまで予習復習を繰り返す。そんな学生生活。
それでも、僕には何もできなかった。
テストの点数を見せるたびに殴られた。いつしか、何もなくても殴られるようになった。見ているだけでうんざりするそうだ。毎日血まみれ痣だらけで、必死に絆創膏で隠して登校していた。別に先生にもクラスメイトにも好かれてなかったから、誰にも何も言われなかったけれど。
そんな僕の兄は、エリートだ。
眉目秀麗で、成績も優秀で、文武両道。友達だってたくさんいたし、恋人はいつでも作れる様子だった。みんなにちやほやされて、勿論、両親からも毎日褒められていた。自慢の息子だと、立派だと。
僕は、兄が家で勉強をしているところを見たことがなかった。運動もしていなかったし、強いて言えば、たまにリビングのソファで小説を読んでいるくらい。努力なんて全くしていない様子で、正直、自分が馬鹿馬鹿しく感じてしまう。才能ってやつを、幾度も恨んだ。僕はこんなにも苦労しているのに、兄は、何の苦労もなくすべてを手に入れていた。
そんな家庭内で僕が家出をするのなんて、誰もが想像つく未来だっただろう。
◇
こんなにも全力で走ったのは、いつぶりだろうか。
喉に血の臭いがして、少々不快感を覚える。遠い後ろから
家を出てから、何度か電話を掛けた。結果は応答なし。明らかに、何かがおかしかった。
「ちょっと、あれ、どうにかならない?」
陽茉は息を切らしながら庵を指さす。陽茉の全力疾走に追いつけているのは、キルディたった一人だった。その次に
「キルディは能力とかないの」
「あるっちゃあるけど、あんまり使いたくないんだよ」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ!」
前方の庵は、どんどん小さくなっていく。見失ってしまうのも時間の問題といったところだ。家に向かえば会えるだろうが、道中で彼が倒れる可能性だってある。陽茉は感情が巡り巡って、涙が溢れた。
「ああ、もう…わかった。わかったから」
キルディも悪魔ではあっても、鬼ではなかった。ため息をついてから、一度立ち止まる。陽茉も立ち止まると膝に手を付き、肩で息をした。
「見ないことを、約束してくれ。いいな」
あまり理解していない頭で、陽茉は何度も頷く。それを見てキルディは、地面に蹲った。
世界が一瞬、夜になる。太陽の輝きが薄れ、澄んだ風が吹いた。遠くの庵が、此方を振り返るのが見える。
蹲ったキルディは一瞬白い糸に包まれて、それからすぐ、影が大きくなって立ち上がった。
「…蛾?」
暗い茶色の
「行ってくるから」
「ちょっと、待って」
キルディは寸分も陽茉を見ずに、庵を追いかける。逃げるように、少々怯えた様子で、素早く。
翅は体よりもずっと大きく、数回羽ばたかせるだけで数メートル前進した。キルディは目を瞑る。庵の視線も陽茉の視線も、何もかも恐ろしかった。醜い。醜い自己が、嫌で堪らないのだ。
そのまま彼はいよいよ庵の元へ辿り着く。着陸する前に、翅は粉になって消えた。彼は普段の姿で、庵の肩を掴む。
「あまり先走るな。迷惑だ」
「家族の危機に、そんなことを言ってられるか」
庵は声を荒げ、キルディの手を振り払おうとした。しかし、悪魔の力には適わない。取っ組み合っているうちに、陽茉達も追いついてくる。
「お前、協調性ってのが欠落してるな」
颯凜が文句を言う陰で、陽茉は頬を膨らませながら庵の目をじっと見る。涙が止まらなくて、ただ強く強く睨みつけていた。言葉が浮かばない。
彼女はそのまま何も言わずに、突然走り出した。
「お、おい」
キルディに放された庵は、陽茉に追いつき並走する。
「ま、まじかよ」
「颯、行くよ」
鼬凛も、颯凜の手を取って走り始めた。
彼らがいなくなって、キルディはどこか安心した様子だ。ほっと一息ついて、ようやく辿り着いてきたヴァレエラの傘に入れられる。肌を撫でられた。
「道に迷わない程度に追いましょう。それより…」
彼は慰められるように、体を拭かれた。雨か涙かわからないのが幸いだった。落ち着いてから、彼らもまた、出発する。
一同はそのうち、家に辿り着いた。一見すると異変はない。雨が少しだけ、弱まっているような気がした。
「爆破とかされてなくてよかったな」
キルディの冗談を庵は相手にせず、すぐに扉を開ける。 頬には汗が伝っていた。走った疲労ではない。ただただ、嫌な予感がして堪らなかった。
「丞!いるか!返事をしろ!」
無論返事はなかった。少々争った痕跡があり、黄ばんだ壁に、多少血がついている。庵は拳を握って、煙草を取り出そうとする。
「庵、これは…」
机の上に、一枚の紙があった。鼬凛はそれを拾い上げ、庵に見せる。
「なんだよ、これ」
庵は絶句した。
『おにいちゃん、まってるよ』
小さく住所が記されたその手紙は、宣戦布告のように見えた。
「どういう…こと?」
陽茉は庵を見つめる。彼はただ夢を思い出し、激しい頭痛に襲われた。
◆
ようやくいなくなったわね。
母親の言葉を聞いて、吐き気を催した。
探しに出かけようと履いた靴を脱ぎ捨てて、オレンジジュースを飲んだ。果汁百パーセントで酸っぱい。妹に注いでやっていたのが、愛おしく、恋しい。
家が静かだった。喜ばしいことだった。普段の家庭の賑やかさとは、罵声や暴力によるものだったからだ。心地よく感じてしまったのが実に惨く、罪悪感に苛まれた。
「探しに、行かないの」
勇気を振り絞って聞いた言葉は、笑いにかえられた。
「庵は偉いわね。いいのよ、あんなのは」
「家事を母さんがやらなくちゃいけないのは大変だが、皿を割る心配もないしな」
そう言って頭を撫でてきた両親の手が、庵には悪魔のように思えた。気味が悪い。それでも拒むことができなくて、彼は、薄く笑って見せたのだ。
音信不通になって早数年、大人になってしまった。時々妹の姿を想像する。生きているだろうか、大きくなっているだろうか。水商売や、ギャンブルになんかはまってないだろうか。心配が絶えないが、どこにいるかもわからない。
自分も両親の元を去ってしまった身で、家族の血の繋がりが、薄いように思えてしまった。いつしか意識することもなくなってしまった妹の存在が、時々、夢に出てくる。
◆
「
その名を口にした庵は、少し思い馳せてから、扉を開いた。先ほどまでの豪雨が嘘だったかのような晴天だ。雲一つなく、水たまりが既に乾き始めている。少々暑いくらいだ。
「妙だな」
「急ごう、
「…庵、大丈夫?」
「大丈夫」
疲れた顔をしていた。虚ろな目で、陽茉に笑いかける。家庭内でもこんな顔をしていたのだろうと、陽茉はなんとなく、そんな気がした。
彼らは再び走る。
記された住所は随分田舎だった。聖ヶ谷の方面をずっと抜けた先、電車とバスを使って三時間ほどかかるところだ。
電車に乗って、一度休憩とする。誰も向かわないような辺鄙なところで、車内には自分たちしかいなかったので、充分にゆっくりすることができた。
「しかしその、妹ってのは、どういうことなんだ」
キルディはようやく聞くタイミングができたといった様子で、庵に質問する。彼は少々答えづらそうにしてから、ゆっくりと事情を話すことにした。
「俺が、天使の細工をされててなんでもできるから。妹は…琳は、奴隷みたいな扱いを受けていたんだ」
兄の下位互換どころか、代替品にもならない、失敗作。
彼女は罵詈雑言の数々を受けながら全ての家事をやらされ、同時に暴力も受けていた。一方で兄は常に褒められ、何もかも買い与えられていて、そんな様子を、目の当たりにしていた。
そんな中彼女は八年前、幼いながらに消息を絶ったのだ。
「…惨い、惨い話だね」
「リンちゃん…」
ヴァレエラは胸に手を当てる。それから、庵の手を握った。
「攫われてしまった彼を助けるのはもちろんだけれど、妹さんも助けましょう」
暖かい手だ。庵は静かに頷き、時刻を確認する。もう暗くなりかけていた。雲のない空で、太陽と月が入れ替わろうとしている。
突如、電車が大きなブレーキ音を鳴らした。急停止する。高い金属音が耳に響いた。
「な、なんだよ!危ないじゃねえか」
運転手の文句が、遠くから微かに聞こえる。
「な、なんだ、何しやがる!おい、来るな、おい、やめろ」
一同は電車の先頭に向かって走る。運転席の窓から見える線路上。そこには、一台のバイクに乗った、ヒトがいた。
「…うーわ」
ヴァレエラが珍しく、嫌な顔をする。怯えて尻もちをついている駅員にリボンを掛け、目を隠してやると、彼らは電車から降りた。庵と陽茉も恐る恐るついて行く。
「何の用があるんだよ、交通機関を止めてまでさ」
「失敬、失敬。君ら、逃げ足が速いからね」
バイクから降りた彼女は、首を回して音を鳴らした。
「生きた人間との対話は久しぶりだ。いや、内二人は、私の観点から見れば生きちゃあいないか。死んだ人間と、半分死んだ人間…うむ、実に興味深いな」
オーバーサイズのコートは彼女の肌全てを覆い隠しており、体型が全く見えず、一見すると異様に大柄に見える。長い袖をゆらゆらと顎に当てながら、彼女は庵達を爪先から脳天までじっくりと観察した。
「自己紹介する気ないんだな」
「…彼女は…
ヴァレエラが紹介してやると、彼女が薄っすらと笑ったように感じた。ヘルメットで表情が見えない。
「山羊ヘルメットのゴート・ヘルメット。ゴーメットだ、愉快な名だろう」
そう言いながらヘルメットの角の部分を両手で撫でて見せる。正直なところ、仕草はかわいらしい。少々惹かれるものがあった。しかし、死神なのだという。庵が軽く身構えると、ゴーメットは再びけらけらと笑った。
「私はね、君達に敵対しにきたわけじゃあないよ。ただ、止めてあげようと思ってねえ。仕事を投げ出して来てやったというわけさ!いやあ親切で仕方がない」
「止めてあげる、だと」
「ああ。君の妹から死の臭いがするからね」
容易に吐かれた言葉に、庵は絶句する。死の臭いとは、なんだろう。どうにも嫌な予感がして、咳き込んだ。過度なストレスを自覚する。ゴーメットはそれを眺めていながら、ゆらゆらと楽しげに揺れている。
「死んだという意味ではないよ。いいや、私の観点では死んでいるが…意味はおわかりかな?直接言うのは洒落ていないだろう。君が当てたまえよ、お兄様」
「わからない。わからないが、止まるつもりはない」
それを聞くとゴーメットはぴたりと静止する。
「そうかい」
線路上の静寂は、焦燥感を誘う。居てはいけない場所。
死神は呆れたように脱力し、溜息をつく。話にならないといった様子だ。しかしなんとなく、脳裏に「来る」と過った。
陽茉を抱えて勢いよく横に飛び込む。
先まで自分がいた地点には、片手を上げたゴーメットがいた。首を掴もうとした仕草に見える。その間おおよそ、一秒未満だ。それを見た鼬凛達がすかさず、我々の道を阻んだ時と同様に、鎌を交差して防御する。
「へえ、やるじゃない」
ゴーメットは嬉しそうに笑い、声を暗くする。
「天使サマの自慢の子だもんねえ、そうだよねえ素晴らしいねえ。そう思わないかい、キルディにヴァレエラ」
彼女の手は、的確に庵の喉を狙っていた。瑾龍に会った時のことを思い出す。痛みが再び襲い掛かるような感覚がして、咳払いした。
「お前が俺達をどこまで知ってるのかは知らないけど…その憎たらしい天使を、俺達は滅ぼそうとしてるんだ」
キルディはいたって冷静に、堂々と話す。
彼女が天使を嫌っていることは先程の発言から伺えた。貴女にとっても願ったり叶ったりだろうなんて言いたげな表情で、彼は自分達の旅を語るのである。
「有難い話だけど、叶わない夢に有難みなんて感じないさ。君達に、その夢は叶えられない。嗚呼、絶対にね」
ヘルメットの向きを整えながら、彼女は無関心そうに言った。少ししてから、陽茉を一瞥する。
「…まあ、ソレを使えば、或いは。でも、ソレ、知らせていないだろう」
「や、やめて」
「ああそうだ、私が代わりに話してやろうか。倉内陽茉、お前はな」
「やめて!」
陽茉の声が、街に響く。耳を劈く、聞いたことのない声だった。陽茉が、声を荒げた。庵は驚いて、陽茉をじっと見る。視線に気付いて、彼女の鼓動は急速した。嫌われる、知られたくない、庵にだけは、どうしても話せない。あまりにも大きすぎる荷が、彼女の体を潰そうとする。風の音だけが、陽茉の気を紛らわした。
「庵、庵。行こう、ぼく、ぼく…」
「わかった。ゴーメット、退いてくれ」
ふむ、とゴーメットは唸る。
「君達は、何があっても、何が犠牲になろうとも、天を滅ぼすという決意があるのかね」
「勿論だ」
「それなら、一つだけ警告してやる」
ゴーメットは手に、魂らしき、球体を浮かべた。その数八個。黒く淀んでいて、どれもずっしりと重たそうに見える。炎のように揺らめいていて、存在が不確かな物だが、彼らには確かに視認することができた。
「ミズキ、ユウスケ、マサル、カナメに、マリ、イチロウ…ユウカ。こいつらの名前だ」
「なんだよ、誰だよ、それ」
「それ、は」
庵だけは、聞き覚えのある名だった。嫌な予感がして、咄嗟に耳を塞ごうとする。その手をゴーメットは掴んで耳から剥がすと、彼女は不気味に、ただ自棄的な雰囲気を帯びて笑った。
「これは全て、君の妹に殺されたモノだよ」
そう言って彼女は、魂をコートの中にしまい込む。 魂の形が、目にこびりついた。実の妹の殺害の、被害者。いや、ただの被害者なんかじゃなかった。
「それ、俺の妹を虐めた奴らの名前だ」
「そんなところだと思ったよ」
ゴーメットはバイクにまたがる。エンジンを吹かして、大きな音が鳴った。漆黒で光を一切反射しないそのバイクは、影でできているかのようだ。
「乗りな、送ってやる」
「で、でも、いやだよ、ぼく」
怯えた陽茉を見て、ゴーメットは愉快そうに笑う。
「大丈夫だ、もう話さないよ。その代わり…お前が成し遂げるんだ。そうじゃなきゃ、送ってやったりはしないさ。私が送るのは、哀れに死んでしまった迷い子羊だけだからね」
未だ陽茉は警戒を溶かなかった。しかし、颯凜がふっと鎌を下ろして、バイクに近付く。
「立派なバイクだな」
「え、ちょっと、颯」
肩を揺さぶるが、彼は止まらない。案外、誰よりも先に警戒を解いたようだった。屈んで部品を眺めては、ゴーメットをじっと見る。ヘルメットが夕日を反射して、少し、眩しい。それから彼は、バイクに乗り込んだ。
彼が座ると、バイクの後部座席は左右に展開する。狭いが、なんとか全員乗れそうだった。重量なんかは、死神に問う必要はないだろう。
「うむ」
一同は気乗りしてはいなかったが、颯凜に便乗して、ゴーメットに送ってもらうことにした。満足げなゴーメットはまたエンジンを吹かし、楽しそうに笑う。
「死なない保証はしないからな。掴まっておけよ」
その瞬間、バイクは急発進した。ずっと加速し続けている。人間が運転するバイクにはあり得ない速度を、安定して走っていた。庵は乗ったことを少々後悔したが、そんなことを考えている暇がないほど、前方からの風が強かった。
「事故はしないけど吹っ飛んだら知らないから」
気持ちよさそうに走るゴーメットは、さらに加速をかける。もはや、電車よりも早いのではないだろうか。時に公道を走り、線路上を走り、景色が忙しくて、今どの地点にいるのかさっぱりわからなかった。ただ慣れてくると、段々その疾走感が心地良い気がしてくる。
いつしか周囲は緑に囲われた。一面自然がいっぱいで、雑草を踏みつぶして進んだ。徐々に減速したかと思えば、バイクは停止する。ここが目的地なのだろうか。
「私はここまでだ。気持ちよかったな」
満足げに笑うゴーメットは、コートのファスナーを少し下ろす。華奢で、しかしながら豊満な胸が見える。大きく気太りしているだけで、中は淫魔の如き美形らしいことが、瞬時に察された。
「くれぐれも死ぬなよ。回収するのは私だし、それに、天を滅ぼしてもらわないといけないからな」
バイクの傍に胡坐をかいて座った彼女は、笑いながら手を振る。困ったら呼んでくれなんて言って、連絡先はくれなかったが、代わりに奇妙な笛をくれた。きっと、これを鳴らせば来てくれるのだろう。
「ありがとう」
一同は礼を言うと、彼女と別れた。
山に囲われた、辺鄙な村だ。こんなところに、妹がいるのだろうか。
彼らは再び住所を開き、居場所を辿ることとなった。
滅天 わるだくみ @waruda0
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