(四)悪夢

 キルディの苦笑の下。

「…寛ぎすぎだわ」

「にいやさえいれば、そこがホームだ」

「そうかなあ」

 畳に大の字で寝転がった颯凜そんりぇんは、細い目を更に細めて口角を上げていた。先まで悪魔のようだったその男は、大型犬にまで退化していた。そんな弟分を見て、鼬凛ゆうりぇんは苦笑しつつも愛おしそうに撫でまわしてやる。

 和を基調とした拠点。それは中華育ちの彼らにとっては、実家同然だった。畳の匂いに包まれて幾分も油断した彼らは、見ての通り、好き勝手に寛ぐ有様だった。初対面でここまでリラックスして見せるのかと、あんは呆れてつい笑ってしまう。却ってお互いに警戒心がなくなって、よかったのかもしれない。

 緊迫していた空気が一気に和らぎ、一同はようやく一息つく。

「お腹すいちゃったよ」

 陽茉ひまがお腹を撫でながら言うと、すかさずヴァレエラが立ち上がった。同時に鼬凛も「手伝うよ」と出て行って、彼らは柏井かしわいに食事をお願いしに向かう。丸一日ろくに食事をとっていなかったことを自覚させられ、庵の腹が静かに鳴った。時計の短針が、もう十二を過ぎようとしているところだった。

「お前達、本当についてきてよかったのか」

 庵が鼬凛達に問うと、彼らは同時に、同様の仕草で頷いた。

「姐さんが大丈夫って判断したことだから、当然さ」

「姐さんの判断に狂いがあるはずがない」

「俺達はなんだかんだ、お互いさえいればいいからね」

 口々に答えた彼らは、また手を握り合う。指を絡めて、恍惚とした表情で笑った。互いの顔を見て、安堵した様子で目を瞑る。

 歪な関係に見えた。姿や名前が似ていて、一方はにいやと呼んでいて、双子の兄弟のようである。しかしそれでいて、愛おしそうに目を伏せて手を握り合い、愛人のように信頼を確認するのだ。

「…どういう関係なんだ、お前達は」

 つい気になって、キルディが彼らに聞く。その質問に嫌悪感などなく、込められたのはただ純粋なる好奇心や興味だった。彼らは顔を見合わせて少々困って見せる。明確な答えがないらしい。

「俺達は相棒で、兄弟だよ」

「でも、家族以上のことだってしてる」

「じゃあ、恋人になるのかな」

「そういう感じは、しないよね」

 首を傾げて笑う彼らは、確かに日本語で形容しがたい関係に見えた。かといって、中国の言葉で表せるのかも確かではない。熟年夫婦か何か、家族という括りのほかに、その愛情の表現方法がわからない。でも、それをわざわざ表現する必要はないような、むしろ表現することは野暮なような、そんな気すらした。キルディは「なるほど」なんて簡単に相槌を打つだけ打って、大きくあくびをする。

 そんなこんなで食事が届いた。エビとアスパラを炒めて、レモンと胡椒で味付けをしたものだ。キルディのためだけに赤ワインがついていて、それに合う料理を用意されているようだった。キルディのほかに、庵と鼬凛だけがワインを頂き、一方で陽茉と颯凜はオレンジジュースを取り合ってじゃんけんをして、あいこになり続けていた。揉みあいになり始めたころに、見かねたヴァレエラがもう一杯注いでくる。

「揃ったかな」

「じゃ、乾杯」

 キルディの掛け声でグラスを合わせる。カラン、と心地のいい音が鳴った。

 狭く小さい机を囲んで彼らは和気あいあいと食事を楽しんだ。趣味や幼少期など当たり障りのない会話をして、親睦を深める。昨日の晩餐は形式的なものに近かったが、今日は随分カジュアルだった。こんな風に酒を嗜むことができるのは数年ぶりのことで、庵は楽しいと感じられた。実に良い夜だ。雲一つなく晴れていて、月が輝いている。欠けた月もまた一興美しく、出会いに相応しい日だと思った。

 早々に食事を終えた庵は一人外に出て、静かな夜風に当たりながら煙草を吸う。窓から聞こえる陽茉と颯凜の小競り合いなんかが微笑ましくて、庵は密かに口角を上げていた。人見知りの陽茉に友達ができたことが嬉しかった。一瞬、妹を思い出して、すぐに脳内から消す。陽茉もも、庵にとって大事な家族で、愛おしい妹分だった。

 彼らはひとしきり騒ぐと、疲れ果てて眠りについた。庵も遅れて戻ると、風呂を済ませ、布団に入る。

 賑やかなメンバーになった。また楽しい旅になりそうだと、そんなことを考えながら、庵は瞼を閉じた。


   ◆


 嫌な夢を、嫌な夢を見るのだ。

 首を真横に切られて、地面に落ちた頭についている瞳で、自分の首の切断面を眺める。何度も何度も見た、グロテスクな記憶だ。

 ただし、今日はいつもと違った。遠くから、女の子の声がするのを認識する。聞き覚えのある、愛らしい声。八年前、失った声。人生の思い残し、庵の数少ない後悔のひとつだ。

「復讐なんて、馬鹿らしいよ」

「死んじゃった方が、楽なんじゃないの」

「自分のこと、受け入れなよ」

「これは、救済なんだから」

「ねえ、救済なんだよ」

「救済」

 目を裏返して声の元を辿る。そこには、行方不明になった、血塗れの妹がいた。

 艶のあるボブカットだ。自分に似た白髪はよく手入れされていて、血とのコントラストが異様だった。長い睫毛には、小さい涙の粒がのっている。体のあちこちにある青い痣には、幾度となく心を抉られた。

「おにいちゃんのせいなんだよ」

「ぼくは、あんなに頑張っていたのに」

「おにいちゃんが、おにいちゃんがいたせいで」

「おにいちゃんさえいなければ」

  やたらと現実味のある夢だった。庵はただただ嫌な気分がして、耳を塞ごうとする。しかし、耳に手が届かない。

「死んじゃえよ」

「死んじゃえ」

「死んじゃえ」

「死んでよ」

「死んで」

「お願い」

 震えた声。大粒の涙が、庵の頬に落ちた。

 足が近付く。視点が回転して、吐きそうになる。首を蹴り飛ばされたのだ。

 殺される。

 激痛がした。夢の中で視界が暗転して、意識が途絶える。

 ただ、妙な焦燥感がした。


   ◆


 目が覚めると、荒天だった。昨日の心地いい夜が嘘かのような、酷い天気である。昼間だというのに真っ暗な空は、分厚い雲に覆われて雨を降らせている。睡眠を妨げるのに充分すぎる雨音は、屋根を殴打していた。

 庵は重たい体を起こすが、気分が悪くて仕方がなかった。この大雨による低気圧や湿気と、見てしまった妹の悪夢である。庵は再び体を横にして、無気力に携帯を眺め始めた。

「…あれ」

「どうしたの」

 庵の呟きに、陽茉がすかさず反応する。膝を擦って庵に近付き、携帯を覗き込もうとした。

じょうの返信がない」

 携帯の画面を見せて、庵は言った。

 一日に二、三回連絡を交わしている履歴がそこにはあった。食事をしているか、様態はどうか、賭博はやめたか、友達はできたか、など様々だ。こまめに連絡をしていて、丞の返信は、深夜でなければおおよそ三十分内で送られてきている。それなのに、昨日の夕方に送信したメッセージに、返事がない。

「妙だな」

「体調…崩した、とか?」

 陽茉は眉を顰めて首を傾げる。しかし庵はそれ以上に、不安な気持ちを孕んでいた。冷や汗が流れて、指で軽く拭う。直感が、危険を察していた。

「家、見に行こう」

 布団から飛び出ると、彼は洗面所に早足で向かった。体調を気にしている場合ではなかった。脈打つ頭に苛立ちを感じながら、我武者羅に身支度をする。

「ちょ、ちょっと、落ち着いてよ。きっと大丈夫だよ」

「嫌な予感がするんだ、今すぐに行く。俺だけでもいい」

「も〜…」

 陽茉は唸ったものの、同様に準備を始めた。

 それから一同も起きてきて、陽茉に事情を聞く。そして外に出ようとする庵を引き止めて、皆で一緒に出掛けることにした。全員の準備を待っている間、庵は煙草を吸い続けている。三本吸っただろうか、空になりかけている箱を眺めて、庵は憂鬱になった。

 これ以上、日常を壊されたくない。これ以上、辛い思いをしたくない。家族を失いたくない。ただそれだけだった。

 待っている間、突如、気を失ってしまいそうな目眩を催す。

 視界が点滅して、頭痛がより激しくなる。思考が混濁とした。

 非常に嫌な気分だ。対処の余地がない体調不良を感じると、自傷的な衝動に駆られる。学生時代、自らの腕に刃を押し当てた感覚を思い出した。赤黒くて痛いのを見ると、心と体の鈍痛が、楽になるような気がするのだ。刃物を携帯していないことを惜しみ、抑えがたい衝動が庵を襲う。

 居ても立っても居られないような気分だ。彼は足を引きずった。服が雨を吸って、急激に重くなった。それでも一歩、一歩と足を進める。意思に反して動くような感覚だった。止まれなかった。ただひたすら、丞の元へ。

 発作だろうか、再び深く眩む。頭が重くて仕方がなく、彼は誘われるように、ついに駆け出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る