餌付け
伊識
第1話
残業で帰りが遅くなり、午前0時を過ぎていた。
私の住むアパートは住宅街の中にあり、明るい大通りだけを選んで歩くと結構遠回りになる。田舎と言ってもここは栄えている地区で、子供がいなくなったとか、変死体が見つかったとか、それなりに物騒な話を耳にする。だから普段は外灯の多い大通りを通っているけど、今日は疲れがピークに達し、一秒でも早く帰りたくて大通りを逸れて近道をする事にした。
一本脇道に入っただけで外灯の数が減り、アパートや一軒家の頼りない明かりだけがぽつぽつ点いている。暗い道の先は外灯が点々と光り、闇夜に浮かぶ蛍のように点滅していた。
不気味と言えば不気味だけど、真っ暗闇というわけじゃない。コツコツとヒールを鳴らし、最短ルートでアパートを目指す。すれ違う人がいないのは当然。だけど、どの家も人の気配を感じないのは結構不気味。
「ひっ」
二つ目の角を曲がった時、私は思わず悲鳴を上げた。
五メートルくらい先の外灯の下に、タンクトップを着たおじさんが立っていた。
慌てて塀の陰に身を隠し、音を立てないように様子を窺う。おじさんはこちらに気付いていなくて、背中を向けて何かぶつぶつ呟いてた。
「……ぃいねぇ、くろちゃ……」
身体を少しだけ揺らしている。その動きは、胸に抱えた何かを撫でているように見えた。
なーんだ。
胸を撫で下ろし、ヒールを鳴らして歩き始める。
動物を連れているなら、タンクトップ姿も納得だ。近所に住むおじさんが、ペットを散歩させてるだけ。怖がる必要なんてなかった。
コツコツとヒールを鳴らしながら近付いても、おじさんはこちらを見向きもせずペットに夢中。気にするだけ無駄だった。
近くに来ると、おじさんの呟きがはっきりと聞こえてくる。
「可愛いねえクロちゃん。いい子だからゴミ漁っちゃダメだよお」
クロちゃんって言うんだ。何の動物……?
おじさんの横を通り過ぎるついでに、ペットの動物を盗み見ようと視線を向けた。
「ひっ──!」
その瞬間、再び悲鳴が漏れ出して身体が硬直した。
おじさんの腕の中には、何もいなかった。
「可愛いねえクロちゃん」
おじさんは何かを抱えるように腕を浮かし、何もない虚空を撫でながら、満面の笑顔をこちらに向けた。
「可愛いでしょう? うちによく餌を食べに来るんです」
「え、あ……」
「よかったらあなたにもつけてあげますよ」
ほぅら、とおじさんは“何か”を両手で持ち上げて、私の肩に乗せてきた。
左肩が重くなった気がして、何かの息遣いを感じた。ぞわぞわと背筋に寒気が走る。
「よかったねえクロちゃん。これでおいしいもの食べられるよお」
歯茎を見せて笑うおじさん。あまりの不気味さに、声にならない悲鳴を上げて駆け出した。
コッコッコッコッ──深夜の住宅街にヒールの音が響く。遠くから怒鳴り声が聞こえてきて、私は足を止めた。
肩で息をしながら振り返るけど、誰もいない。
道沿いの一軒家の二階の窓に人影が見えた。普段なら見られるなんて不快に思うばかりだけど、今だけは人が近くにいる事に安堵した。
「なんなのよ……」
何もない事を確かめながら、左肩を何度も手で払った。それでも“何か”がついてる気がして、アパートに帰るなり服を脱ぎ捨てゴミ袋に放り込んだ。
「せっかく買ってもらったのに」
何万もする服なのに、一回しか着れなくてもったいなかったなぁ。
「おはようございます」
アパートの階段を降りた所で、大家のおばあさんとばったり会った。私が挨拶すると、おばあさんは人の良さそうな笑顔を浮かべた。
「ああ、おはようさん。そうら、いかったらこれ持ってけ」
おばあさんは大きな袋の中から小さめの袋を取り出して渡してきた。
自分の畑で取れた野菜が自慢らしくて、会うと何かしらの野菜をくれる。
「わ〜、いつもすみませ〜ん。ありがとうございまぁす」
笑顔で受け取ると、おばあさんは満足そうに隣の一軒家へ帰って行った。
アパートのゴミ集積所へ行き、人目につかない物陰でゴミ袋の口を開いた。
「玉ねぎ嫌いって言ったのに……」
貰った野菜を入れて袋の口を縛り直し、集積所に置いて駅に向かった。
後ろから、カーカーと鳴き声が聞こえた。カラスがゴミを漁りに来るのはいつもの事で、振り返らずにヒールを鳴らし続けた。
餌付け 伊識 @iroisigi
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