後編
■
亜香里は異世界の森の中で目を覚ました。
周囲には獰猛な、はずの狼の群れ。だけどこちらを窺うだけで襲ってはこない狼たちは、まるで亜香里に怯えているようだった。
「……ここが異世界、なのかしら」
海外旅行だと思えば信じられないような現象も身近に感じられるだろうか。
亜香里はひとまず、森を抜けることにした。
遠目だが町が見えているので、真っ直ぐ進めば人に会うことができるだろう。それにしてもあの女神、町に召喚してあげるとか言いながら少し座標がずれている。テキトーな仕事である。
文句のひとつでも言いたいが、ここで愚痴をこぼしても女神に伝わるとは思えなかった。
周りにいる狼たちは、亜香里の動きに敏感に反応する様子で、亜香里が動けば少しずつ後退していった。
亜香里は襲われることなく森を抜け、町に入ることができ――――
町の中で、忘れるはずもない(女神の干渉がなければ)息子の背中を見つけた。
「――みのる!!」
思わず叫ぶ。
肩を落とし、仲間の荷物持ちをさせられていた少年はその声に振り向き、
「はぁ!?」と幽霊でも見るような目で母に気づいた。
「――母さん!?」
「みのる!! おかえりぃ!!」
「ちょっ、待っ、色々と言いたいことと聞きたいこととかあるけど、まずは離して!!」
母に抱きしめられ、両手で抱えていた荷物がぼろぼろと落ちてしまう。足下を転がるのはドラゴンの素材か。他にも採掘したのだろう、鉱石や宝石などがたくさんあった。
すると、息子の前を歩いていた男女の戦士たちが足を止めて振り向く。
「おい、ミノル。その女は……? 母親とか言ってたな。出会った頃のお前そっくりで、変な格好をしてるな」
「ほんと、薄い生地で、魔物に殺してくださいと言ってるようなものよねー」
みのるのパーティメンバーは、品質の良い武器を持ち、頑丈な防具を纏っている。
亜香里からすればそっちの方が奇天烈な格好だけど、この世界では奇天烈こそがオーソドックスなのだろう。
「ミノル、足を止めないで。荷物持ちが私たちの足止めをするなんて生意気」
先頭にいた小柄な少女が冷たい視線で
怯えた息子が亜香里を突き飛ばし、落としてしまった荷物を抱えて三人の後を追った。
「ちょっとみのるっ!?」
「母さんごめんっ、話はあとで!」
「え!? せっかく会えたのに……っ」
「ギルドで用事を終えた後なら――」
「ミノル、そんな時間はないはずよ」
少女の威圧で、みのるはなにも言えなくなる。体を丸くして縮こまる息子の背中を見て、母としては、なにも言わないわけにもいかなかった。
「――ちょっと待ちなさい」
「……なんでしょう、ミノルの……お母様」
足を止めた三人が、見下しながらも戦闘態勢を整えている。
全員が剣、槍、弓に手をかけ――だが、一瞬で全員が手を離した。
亜香里の真っ赤な怒りが見えたのだろうか。
三人は体が硬直してしまい、攻めることはもちろん、逃げることもできなかった。
「おい……なんだよこの魔力……ッ」
「ひっ――こ、こんなの、ドラゴン以上で、魔王幹部に匹敵するような――」
「ミノル……あれは、なんなの?」
「え、おれのお母さんですけど」
「ッ、ざけんなっ、化物じゃねえか!!」
「誰が化物ですって?」
ドスの利いた声で、三人の腰が抜ける。野次馬根性で覗いていた町の人々も、声も上げられないくらいには亜香里の怒りにあてられてしまっていた。
だけどただひとりだけ、息子であるみのるだけは、慣れたように肩をすくめていた。
「いつもの母さんで安心した。この感じ、懐かしいなあ」
「みのる。なにいいように使われてるの。ちゃんと、嫌なら嫌って言いなさい。男の子が言いなりになってるんじゃないの。あとでお説教ね」
「はいはい。でも仕方ないよ、異世界だとおれは下っ端なんだし」
「それでもよ、声を上げないと、自分の気持ちなんて伝わらないんだから」
「ま、待ってください、お母様……。はい、反省しています、ので、……ここはその武器を下ろして――」
「あら、なにも持っていないけど?」
「お母様、が、怒ってるのは、分かってますから……っ、ミノルくんのことはちゃんと大事に扱いますからぁっ」
涙目になっている少女。みのるは、「あんなリーダー、初めて見た……」と、笑っちゃいけないと分かっていながらも笑みがこぼれていた。
それに気づいた少女が、このやろう、という表情を隠せていないのを、亜香里は見抜き、腰が抜けた彼女にそっと近づいた。
「ひっ!?」
「反省が足りないみたいね?」
「ご、ごめんなさい……っ」
「別に取って食おうってわけじゃないんだから。態度を改めてくれればいいだけなのよ。……ねえ、リーダーさん。私の大切な息子なの。丁重に扱ってくれる?」
こくんこくん!! と勢い良く首を縦に振った少女へ。亜香里が優しく頭を撫でた。
ふっ、と、亜香里の威圧がなくなった瞬間だった。
気を抜いたのか、リーダーの少女が、自覚して顔を真っ赤にして顔を覆った。
亜香里が気づく。
少女の、足下が、濡れている……。
「あら、ちょっとやり過ぎちゃったかしら」
「うぅ……」
「大丈夫よ。私がちゃーんと、処理しておくから」
「? 母さん? どうしたの?」
「みのるはこないで。そっちの女の子、手伝ってくれる?」
「は、はいっ!!」
「男の子は離れてなさい」
はいっ! と、すぐに立った戦士の男がみのるの元へ移動した。
「し、しっきん、なんて……ぁう……」
「恥ずかしいことじゃないの。私のせいなんだから。ほら、立てる? 汚していいから私に頼りなさい」
「……はぃ……」
「私も人の親よ。こういうお世話に、経験も耐性もないと思う? 慣れてるから安心して。失禁なんて、見慣れていると言ってもいいんだから」
亜香里が少女を抱えて起き上がらせる。
恥ずかしくて周りに顔を見せられない少女を庇うように抱きしめ――、
「みのる!!」
「なに?」
「ギルドって、どこ?」
後に、魔王の幹部を次々と撃破していくパーティが現れることになる。
そのパーティのリーダーではなく、『保護者』の魔法使いは、膨大な魔力を持ち、やろうと思えば世界を破壊するほどの魔法を使えるとか、使えないとか……。
とにもかくにも、世界の命運は、ひとりの『母』に委ねられたのだった。
「安心して、お母さんがみのるを立てるから」
「いや、お遊戯会じゃないんだから。母さんが主役でもいいんだよ?」
亜香里は首を左右に振った。
私の時代じゃない、と。頑なに。
世界が滅ぼされることはない、と言えるのは、
とある『母』の、母らしい遠慮があってこそなのだろう。
…了
35歳(母)、はじめての異世界召喚 渡貫とゐち @josho
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