35歳(母)、はじめての異世界召喚
渡貫とゐち
前編
一年前、家族で遊園地にいった時の写真であり、映っている自分自身、夫、小学生の娘――そしてなぜか、ひとり分の空間が真ん中に空いている。
まるで、そこにもうひとりいるかのように。
(……あれ? なんなの、この気持ち悪い感じ……)
モヤモヤしている。なにかを忘れているような……? 喉元まで出かかっているのに、そこから先へは絶対に出てこない違和感の答え。じっと写真を見るけれど、進展がないまま十分が経ち、洗濯の終了の音が鳴り響いたことで思考が切り替わる。
違和感を抱きながらも日中は家事をするのが母としての務めだ。作業をしながら、やはり頭の片隅ではずっと、気になっている……きっと大事なことだ。
絶対に、忘れてはいけないことの気がする。
洗濯物を干してから、軽く部屋の掃除をし、時間を作って、亜香里は押し入れからアルバムを引っ張り出した。
家族写真――というより、これは子供の写真だ。日付は十五年前から始まっている……だけどそれはおかしい。
ひとり娘は小学五年生で、十一歳だ。だからアルバムの一ページ目は十一年前であるべきなのに……なぜ、十五年前の亜香里は子供のアルバムにひとりで映っている写真を収めているのか。
……いたのではないか? そこに。
証拠の写真にはなにもないけれど、十五年前の自分が抱えているように見えるその空間には、赤ん坊が、いたのではないか?
なぜか覚えておらず、今もどこにもいない、もうひとりの我が子が。
「……この写真も、こっちも、これも――」
おかしな空間。赤ん坊がひとり、収まれば成立する写真ばかりだった。まさか練習として赤ん坊がいる設定で写真だけ撮っているわけではないはずだ。自分が覚えていないだけでそんなおかしな行動を取っていた、という可能性もなくはないけれど、ないと信じたい。
もしも事実なら黒歴史だ。だから覚えていないのかもしれないが……。
「違うわ……いたのよ。娘じゃない……お姉ちゃんか、お兄ちゃんが、十五年前には生まれていたの……っ」
アルバム以外の証拠を探す。母子手帳、当時、出産した時の書類の数々。引っ張り出してきたそれらは、しかし娘のものだった。
なぜ同じ書類が二枚ずつあるのか分からないけれど……。
違和感の答えを示す証拠はなかった。
亜香里が次に取った行動は母親に連絡をすることだった。当然、出産の時には立ち会ってくれていたのだから、娘よりも先に産んでいたはずの、一人目のことを覚えているはずで――――
しかし、成果はなかった。
亜香里自身が忘れているなら、母も、義母も、覚えていないだろう。
「疲れているの? 帰ってくる?」と心配されてしまった。
……一度、実家に帰ってみるのもいいかもしれない。
「あ……買い物に……」
調べものをしている内に随分と時間が経っていたようだ。正直、面倒ではあるが、娘と夫のご飯を作らないといけない。
今日だけ出来合いのお弁当で、という方法もあるが、家計が厳しいので贅沢もできなかった。冷蔵庫に少しの材料はあるから、不足している材料を買えば四人分が作れるはず……
「え?」
そこで、亜香里はごく自然に四人分を作ろうと考えていたことに驚いた。三人家族で、家計が厳しいのにわざわざ四人分を作る必要なんてないのに。
ふと思いついて食器棚を開ける。やっぱり……マグカップ、箸、デザイン違いのスプーンやフォークは、四つずつあった。
三人家族にしては不要なものが多い。スペアとして置いているとしても……統一感があり過ぎる。知らない男の子がこの家で暮らしている、と言われた方が納得できるだろう。
「いた、のよ……やっぱり――――息子がいたの」
覚えていないけれど。
お腹を痛めて産んだ記憶はないけれど、いたはずなのだ。
今はどこにもいない、たったひとりの息子が、この家にはいた。
亜香里は買い物の準備をして家を出る。行き先は通い慣れたスーパーマーケット、ではなく、娘が通っている小学校の通学路だ。
娘と同じ小学校を、いたはずの息子も通っているはずだろう。通学路を歩いてみて、亜香里自身に変化はなかった。だったら、次は近くの中学校の通学路を試してみる。
制服姿の中学生たちとすれ違いながら、通学路を進んでいくと――交差点に辿り着いた。
見通しが悪く信号機もない。近所で有名な、事故多発の交差点だ。
そこで、亜香里は。
「――う、」
子供の右手を思い出す。
袖から流れてくる赤い血が、手の平から指へ流れてくる光景。
腕の、肩の先は?
黒く塗り潰されてしまっている。
そもそも全体的に映像は粗く、電波障害を受けたような乱れ方をしていた。
どんな状況かは分からないが、大型のトラックが、見えている…………中学生がこの交差点でトラックに轢かれて、そして……きっと助からなかったのだ。
「奥さん、大丈夫かい?」
声をかけてくれたのは散歩中の老人だ。杖をついている老人に心配されるなんて……それほど、今の亜香里は青い顔をしていたのだろう。
「……大丈夫です、すぐに、帰りますので……」
「本当に? まあ、気を付けなさいね」
親切に、心配してくれた老人に会釈をし、亜香里はその場から離れる。あの場にいればなにか分かったかもしれない……。しかし同時に、心が壊れるような大きなショックを受けるのではないか……と、怖くなったのだ。
だから、足がすくんで、戻れなかった。
「あ……買い物……」
少し離れてしまったが、いつも通りにスーパーマーケットへ買い物へいこうと進んだ時だった。目の前からトラックがやってくる。
道幅は広く、歩道と車道で分けられているので危険はないはずだ。
柵こそないが、警戒する必要はないだろう。
大型のトラックとすれ違う亜香里は――――
そこで、雷に打たれたように思い出した。
同じトラックだった。ナンバーまで正確に、ではないが、車種、会社名は、同じだった――あの日、あの時、息子は、『みのる』は……。
「轢かれて、亡くなった……っっ」
どうして忘れていた? 亜香里本人や家族が精神的なショックで忘れていたのならまだ分かるが、写真や書類まで徹底して痕跡がなくなっていたのはおかしい。
まるで、息子の存在が、生きていた事実がなくなったみたいに――――
「ま、待って……ッ」
亜香里がトラックを追いかける。あの交差点で、息子は轢かれて亡くなり、その後、世界から死亡した事実ごと消えてしまった。
この世界に名前が残るのが不都合だとでも言いたげに。
なにが起こっているのかなんて分からない。
だから僅かでもいいから手がかりを見つけるために、亜香里はトラックを追いかける。
「待ちなさい、よ……ッッ」
――事故多発の交差点。
それは人身事故だけに限らず、見通しが悪く信号機がなければ、車同士の衝突の方が人身事故よりも多い。――今回は。
飛び出してきた赤い車を回避しようとトラックが大きくハンドルを切った結果、急旋回のように方向転換したトラックが荷台の重さに耐えられずに横転。
大型トラックが倒れたその下には、ひとりの主婦がいた。
「え?」
松坂亜香里。
奇しくも息子と同じく事故多発の交差点で、同じく車種と社名が同じトラックに、下敷きになって、死亡した。
彼女の死亡は公的記録には残らず、そもそも彼女の存在は生まれた時点から抹消されている――――とある女神の、改竄によって。
■
「――死亡したとは言え、ふたつの世界に同じ人間の戸籍を置くことはできないの。よく分からないけどそういう決まりなのよね……――というわけで、松坂亜香里ちゃん、三十五歳よね? まだ若いと思うけど……それでも異世界へ召喚するには結構な年増になっちゃうのかもねえ。向こうでいじられると思うけど、がまんしてね?」
「……え? ここは……?」
「女神の間。まあ深く考えないで。ただの通過点だし」
果てのない真っ白な空間だった。
サブカルチャーに詳しければここがどういう世界なのか、そして異世界召喚とは? その答えが分かっていたが、母親としてやっぱり詳しくはない亜香里にとっては、なにがなにやら分かっていなかった。
目の前の女神は宝石を体にじゃらじゃらとつけた褐色の美人だった。
肌の露出も多いが不思議と卑猥なイメージは湧かない。裸を描いた絵画を見ているようなものだろうか。芸術作品のような美しさだった。
子供に見せられない、ではなく、教育上、見せるべき作品という気もしてくる。
「亜香里ちゃん、あなたは剣と魔法のファンタジー世界へいってもらうわ。……あら、数か月前に、あなたの息子も同じ異世界にいってるわね」
「みのるも!?」
「えっと……ああ、そんな名前だったわね。……うん、じゃあ同じ町に召喚してあげるわ。再会できるかは分からないし、再会できたとして、思春期の息子が母親と一緒に冒険してくれるとは限らないけど、まあ、挑戦だけしてみる?」
女神の提案を断る理由もない。
亜香里は頷き、女神が描いた魔法陣の真ん中に立った。
「これでいいの……?」
「そうね。あと、チートスキルを渡すことができるのだけど、なにがいい?」
「?? チート? スキル?」
「分からない? じゃあテキトーに『魔力最大』にしておくわね」
そのチートスキルが、後に異世界を混乱させるのだが、それはまた別の話だ。
「じゃあ、いってらっしゃい。ちょっとハードな異世界ライフを楽しんできてね」
眩しい白い光に目を瞑った亜香里は、生まれて初めて――否、死んで初めて。
異世界召喚を体験した。
…続
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