幼い約束

 ダチュラ伯爵ニーナの父親もまた騎士であり、オズワルドの剣も彼に師事したものだった。つまりダチュラ伯爵はオズワルドの師匠である。伯爵は未だ現役であり、今もなお国中に引っ張りだこの凄腕の剣士だ。そのため伯爵は屋敷を空けることが殆どだった。病弱の一人娘を置いて屋敷を空けることが心苦しいのだろう、伯爵から「ニーナに何かあったらよろしく頼む」とまだふたりが幼い頃に言われたことをよく覚えている。また、ダチュラ伯爵夫人ニーナの母親は十二年前に他界しており、ニーナが寂しがらないよう親心が働いたのも彼に念押した理由のひとつだろう。これはオズワルドとエリノアが婚約する前からの習慣であり、それが当たり前となったオズワルドは何の違和感も持たずニーナに呼び出されては彼女のもとへ駆けつけた。

 そんな昔からの長い関係があったにもかかわらず、ニーナと婚約しなかったのは彼女が一人娘であり、ダチュラ伯爵家を継ぐ婿養子を迎え入れなければならないからだ。オズワルドは公爵家の長男でスイレン家の跡取りである。ニーナとの婚約はスイレン公爵オズワルドの父親が許さなかった。また、オズワルドにもニーナに対する恋愛感情は無く、彼女のもとに足を運ぶのもただ騎士として師と交わした幼い頃の約束を守っているに過ぎなかった。

 

 ダチュラ邸に向かう途中、馬車に揺られながらオズワルドは窓の外を眺めていた。街を一人で歩いてるものもいれば、テラス席でゆっくりとティータイムを楽しむ恋人らしき男女、露店で買い物を楽しむ親子など、それぞれの休日を過ごしていた。


(俺もいずれはエリノアと……)


 楽しそうに笑いあう親子連れをぼうっと眺めながら、オズワルドはいずれ来る未来に思いを馳せた。あと数年後にはエリノアと結婚をし、いつかは子供を授かりたいとも考えている。エリノアは美人だから彼女に似たらきっと顔立ちのはっきりした子に産まれるだろう。

 それにしても今日のエリノアは可愛かったな。深緑のドレスが彼女の白い肌をより一層引き立てていた。普段は流している髪も、今日は三つ編みに結っていていつもより幼く見えてそれがまた可愛らしい。ちらりと見ただけだが彼女が今日のためにお洒落をしたのだろうと容易に想像ができた。そういった点も愛おしい。あまり直視すると眩しさに眼が潰れそうだったので横目でしか見ていないが、それでも伝わる彼女の魅力がいっそ恐ろしい。本当はもっと一緒にいたかったのだが仕方ない。記憶の中のエリノアを思い出しては反芻し噛みしめる。

 彼女のもとを去る直前、「行かないで」と引き留めたエリノアのことが気掛かりだった。普段なら何事もなく見送られるが、今日ばかりは違った。弱弱しく、今にも泣きだしそうな声。いつものことだろう、今更何を考えているのだろうか。オズワルドにとってニーナはただの幼馴染であり、恋愛感情というよりかは妹の面倒を見ているような義務感にも近かった。

 先日のデビュタントの時も、本当なら婚約者であるエリノアをエスコートすべきだった。ニーナの場合は兄弟も婚約者もおらず、病弱のためオズワルド以外の貴族令息と面識がなかった。他の家のパーティーであれば父親がエスコートをするのだが、あの時ばかりは主催者のためそれができなかった。婚約者がいることは承知の上だが頼まれてほしい。もし、パーティーの最中に体調が悪くなれば迅速な対応ができるのはオズワルドしかいない。とまで言われてしまえば断れなかった。備えあれば患いなし、結果は何事もなく無事に終えたが、ニーナにとっても気心知れたオズワルドが相手の方が精神的にも気を遣わず楽だった。

 エリノアもニーナの事情を理解しているし、ニーナのエスコートくらい許してくれるだろう。そう軽い気持ちで引き受けた。


 オズワルドがダチュラ伯爵邸に到着すると、すぐさま屋敷の使用人にニーナの部屋へ案内された。コンコンとノックをし、中からか弱い返事が聞こえて扉を開ける。中にはベッドの上で上体を起こしたニーナの姿があった。顔色が少し悪そうだが、起きていられる程度には気分が良いのだろう。オズワルドはベッドの脇に置かれている椅子に腰かけた。


 「ごめんなさい、オズワルド。エリノア様とのデートを邪魔してしまって」


 ニーナはオズワルドの方を見て申し訳なさそうに、それでいてにっこりとほほ笑んだ。それはあくまで淑女の嗜みであり、ただの挨拶だと言わんばかりの、嫌味のない完璧な「微笑み」だった。非常に残念なことに鈍感なオズワルドはその淑女の笑みの裏にどんな黒い感情を孕んでいるかなど、想像すらしていなかった。彼はただ表面上の笑みとしか受け取っていなかった。


 ニーナはオズワルドのことがずっと好きだった。幼い頃は「好き」という可愛らしい感情だった。それがいつしかオズワルドを自分のモノにしたい、自分だけを見てほしい、自分以外の女に渡したくない。そう、独占欲が湧いていった。大人になれば彼と結婚するものだと信じて疑わなかった。

 だからオズワルドがエリノアと婚約したと聞いたときは激しくショックを受けた。彼との将来を思い描き、彼と幸せになると信じていたのに、全く知らない別の女と婚約したのだ。

 初めは彼に裏切られたと思った。けれど次第にそれは「彼がエリノアに騙されて無理矢理婚約させられた」と思うようになった。でなければ、幼いころからずっと自分と共に過ごし、家族よりも長い時間を一緒にしているオズワルドが、ぽっと出の女を婚約者に選ぶはずなんてないのだから。

 可哀想なオズワルド。好きでもない女と婚約して、いずれは結婚までしないといけないなんて。けれど大丈夫。私があの悪女から貴方を救ってみせますから―――。


「気にするな。エリノアはお前のことを理解している」

「そう……」


 どうでしょうか?普通のご令嬢であれば、婚約者が他の異性と二人きりで逢うなど、あまり良い気分にはならないと思いますが。


 その証拠に、先日のデビュタントでのエリノアの表情は穏やかとはかけ離れていた。ニーナへの怒り、屈辱、嫉妬、それらのどろどろとした感情が顔に張り付いていた。そのエリノアの目の前でオズワルドとファーストダンスを踊ったのは非常に気分が高揚した。オズワルドはこの場で婚約者のエリノアではなく自分を選んだという優越感でいっぱいだった。あまりにも気分が高揚したのであの女に見せつけるようにダンスを踊った。

 「置いてけぼり令嬢」なんて呼ばれていると分かったときは笑ってしまいそうになった。社交界で、しかも侯爵家の令嬢がなんて屈辱的な名前で呼ばれているのだろう!それだけでも宿敵と呼べる女を招待した甲斐があったものだ。

 それをオズワルドは知らないときた。それとなく聞いてみても「誰のことか分からない」といった風だった。オズワルドはおそらくエリノアに興味が無い。興味が無いから婚約者が何て呼ばれているのかも、ファーストダンスがどういう意味かも理解していない。


―――ああ、早くエリノアと婚約を破棄してくれないかしら!



 エリノアと会っているときにオズワルドを呼び出すのはわざとだった。オズワルドと自身の父親との約束を律儀に守っている優しさと真面目な彼の性格を利用しているだけである。本当はもう誰かにいてもらわないと困る年齢でもなければ、頻繁に体調を崩すことも少なくなっていった。本当は自身の体が健康に向かっていっていることは喜ばしいことなのだが、オズワルドとエリノアを引き離す丁度良い口実がなくなってしまう。だから未だにオズワルドの前ではか弱い病弱の幼馴染のふりをしているのだ。屋敷の侍女たちは皆そのことを知っているのだが、軽く諌めようとすれば暴れ出すので大人しくその子供騙しに付き合っていた。

 

 ニーナはふたりの婚約破棄までは時間の問題だと思っていた。婚約者を蔑ろにし、自分を最優先してくれるオズワルドは今度こそ自分を選んでくれるに違いないと確信していた。オズワルドがニーナの魅力をに改めて気付きエリノアを捨てるもよし。エリノアが自身を蔑ろにするオズワルドに愛想を尽かして婚約破棄を言い出すのもまたよし。どちらに転ぼうとも、ニーナにとって美味しい状況に違いなかった。


「ねえオズワルド。デビュタントも終わったし、私これからは夜会や舞踏会に出席するのよね」

「そうだな」

「お父様もお仕事で忙しいし、私には兄弟がいないから……またエスコートを頼まれてくれるかしら?」


 少し潤ませた瞳でオズワルドを見上げる。それはオズワルドの視線から計算し尽くされた完璧な上目遣い。この角度、この表情、この声のトーン……嫌いじゃないでしょう?今までもそうやってオズワルドにわがままを通してきた。エリノアとダンスの途中に呼び出したときも同じように「ごめんね?」と謝れば少し頬を染めて「気にするな」と頭を撫でてくれたこともある。

 いつもならコレで落とせた。しかし今回は反応が違ったのだ。少し考える素振りを見せて「それはできない」とはっきりと断られた。


「……へ?」


 予想外の返答に、ニーナの口から間の抜けた声が溢れた。


「お前もいい年齢だろう。デビュタントを終えたなら社交界のルールに従え」

「で、でも……」

「伯爵様の親戚だっているだろう。これからは叔父上の家に頼め」

「でもほら、私に何かあったらオズワルドの方が対処できるし……」


 必死に意向を変えさせようと言い訳を並べた。けれどどれも無駄だったようで、オズワルドは呆れたようにため息を吐いた。


「あのなあ……普通、婚約者以外にエスコートを頼むのは社交界では非常識なんだよ。デビュタントの日はまだ初めてだったし伯爵から頼まれたから仕方なく引き受けたが……今後はもう引き受けるつもりはないぞ。お前だって非常識な女だとは思われたくないだろう。婚約できなくなるぞ」


 そう、言い残して部屋を出た。ニーナは先日デビュタントを迎え、今から婚約者を探すことになる。自分の存在がニーナの将来の邪魔になる前に、この関係を改めて考え直さなければならない。今まではエリノアに時間を割いてやることができなかったが、これからはもっと彼女との時間を割いてやれるかもしれない。そう、ニーナのことを考えての発言だった。

 オズワルドはエリノアを蔑ろにしているつもりは毛頭なかった。ただニーナの父親との約束をなあなあに守っていただけと認識していて、そこに下心などは一切含まれていなかった。幼馴染として心配はしていたが、ただそれだけだった。

むしろオズワルドはエリノアの事を愛していた。恥ずかしさが勝り言葉や態度には出ることは無いが、彼女のことを心の底から愛している。オズワルドはエリノアとは婚約した時点で将来を約束しているようなものだと思っていた。婚約した時点で愛し合っているものだと、本気で信じていた。


 彼女に婚約を申込んだあの日、自分の顔に熱が集まっていた感覚が今でも残っている。彼女の細い指に指輪を嵌めた自分の手を、緊張で震えてしまわないように必死に抑え込んだ。きっとあの時の心臓の音は滑稽なくらい煩く、激しく暴れていただろう。

あの時のエリノアは感極まって嬉し涙を流していたのをよく覚えている。あまりにも美しく涙を流すものだから、思わず見惚れてしまった。それと同時に、自分を受け入れてくたエリノアを生涯大切すると己の心に誓った。



 オズワルドが部屋を出ていった後、残されたニーナは手に爪が食い込み血が流れるほど、強い力で拳を握っていた。まさか、ああも断られるとは思っていなかったからだ。もちろん、社交界でのエスコートについてはある程度の常識は頭に入っている。しかし、エリノアとの婚約は彼女に騙されて無理にさせられたモノであれば、その婚約者など蹴って私のところに来れば良い、そう考えていた。嫌々交わされた婚約なら、そんな常識よりも本当に好きな女をエスコートするはずだ、と。


(まったく……真面目なんだから。まあ、そんなところも好きなんだけど♡)


 窓から門の方を見下ろし、オズワルドが馬車に乗り込んだところを見送り、ニーナは侍女を呼んだ。呼んだ侍女に紅茶を持って来させ、それを一気に飲み干した。空になったカップを叩きつけるようにソーサーに置き、ガチャン、と激しい音が響いた。


「……そうだ。いいことを思いついたわ」


 ひとつ頭に浮かんだその案は、ニーナにとって最善の策であり、コレを思いついた自分に思わず賞賛した。真面目な彼がしきたりや常識、他人への情で婚約を破棄できないのであれば、破棄せざるを得ない状況を作ってしまえばいい。


「エリノア・リリーを消してしまえばオズワルドは今度こそ私と婚約をするはずよ」


 婚約者がいなくなれば、それはもう関係が絶たれたも同然。ダチュラ家に婿養子に来ることになるが、公爵家は彼の弟が継げば良いだけの話だ。

 ニタリと口角が吊り上がる。そうと決まれば行動に出なければと、彼女は紙とペンを用意し今後の計画を練った。

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置いてけぼり令嬢はもう期待しない 歩火 ユズリ @Arukibi

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