置いてけぼり令嬢はもう期待しない

歩火 ユズリ

大丈夫なんかじゃない

 いつからか私は「置いてけぼり令嬢」と、貴族社会で後ろ指を指されるようになった。


 デートの途中だろうが、パーティーのダンス中だろうが、彼のお気に入りである「あの娘」から連絡が入れば私を置いてあの娘の方へ駆け付ける。広いホールの真ん中に、ひとり寂しくぽつんと残された私は滑稽で笑いの的だった。きっと他の貴族令嬢たちの目には私は惨めで哀れな女に映っていただろう。最初こそ抗議した。婚約者である私を差し置いて、何故その娘の元に向かうのか、と。けれど彼の返答は「あいつが心配だから」と。何度言っても変わらず慣れた頃にはとっくに涙は枯れていたし、彼をダンスに誘うこともなかった。親同士の決めた婚約など、彼にとっては煩わしい足枷に過ぎないのだろう。


「お前は俺がいなくても問題ないだろ」


 あの人にそう言われた時から、私はもうあの人に期待をしないようにしていたのかもしれない。私と交わらない視線も、私以外に向けられる思考も、「期待」を捨ててしまえばそんなことは気にならなくなった。心に蓋をして、日の目を見せないように奥底に仕舞いこんで。「期待」という、他者へ勝手に自分の理想を押し付け心待ちにする無謀で浅はかな感情はもうお終いにしよう。


 だってあの人は、病弱な幼馴染の方が婚約者である私なんかよりずっと大切なのだから。





 とある伯爵令嬢のデビュタント社交界デビューの場で、エリノア・リリーはひとり壁にもたれかかり今夜の主役をぼうっと眺めていた。左手に持ったグラスはたびたび唇に触れてはいるが、中身のドリンクは一向に減る気配が無い。グラスを手に取った時はひんやりと冷たかったはずだが、今はもう室温と同じくらいぬるくなっており、滴る結露が彼女の細い指を濡らした。その薬指には細身の指輪が嵌められており、それは彼女には婚約者がいることを示している。


「ねえ見てエリノア様。惨めよねえ」

「本当ですわ。よくこんな場に顔を出そうと思いましたよね」

「わたくしなら無理ですわあ」


 小馬鹿にしたようにエリノアを嘲笑う令嬢たちはひそひそと話すポーズだが、声量は控えておらずその侮辱ともとれる台詞ははっきりとエリノアの耳に届いた。本来いるはずの婚約者が不在で、ひとりでパーティーに出席しているエリノアは会場で悪目立ちしていた。

 本心を言えば、あまり彼女(傍点)のデビュタントには出席したくなかった。しかしエリノアが侯爵令嬢である以上、これを断ることができなかった。

 エリノアがぼんやり視線を送るその先には、今日デビュタントを迎えたニーナ・ダチュラ伯爵令嬢と、彼女をエスコートするオズワルド・スイレン公爵令息のふたり。ふたりは穏やかなバイオリンの音色に合わせワルツを踊っている。背の高いオズワルドを見上げるニーナの表情はうっとりと目をとろけさせてた。

 今日のデビュタントはニーナにとって「結婚ができる年齢になったこと」「ダチュラ伯爵家の令嬢のお披露目」そして「ニーナを社交界の一員として貴族社会で認めてもらう」と重要な意味を持つ場である。今後王城や貴族間で開かれる舞踏会やパーティーへの出席権、招待権を得られるのだ。もちろん、貴族に認知されない事には招待状すら届かないのでデビュタントは人脈を広げる目的もある。

 その人脈を広げる役割を担っているのがエスコートをする男性側だ。通常、その役割は婚約者あるいは年上の男兄弟が務める。しかしオズワルドはニーナにとって婚約者でもなければ血縁関係でもない。ニーナにとってただの幼馴染である。婚約者がいる令息にエスコートを依頼し、ワルツを踊る行為など社交界ではあまりにも非常識だ。しかし彼は由緒正しき名門騎士の長男で公爵家の令息でもある。また、王城の騎士団団長を勤めており、人脈が非常に広い。誰とも婚約しておらず、兄もいないニーナにとってオズワルドはデビュタントのエスコートに任命するには最も相応しい人物だった。そういった事情もありオズワルドは断る理由を持っていなかった。

 オズワルドは病弱であるニーナを何かと気にかけており、通信用魔法具で呼び出しがあれば彼女のもとへ赴いた。それは例え彼が婚約者とデート中であろうと、夜会でダンス中であろうと関係なく、婚約者の令嬢を置き去りにしてニーナを優先していた。


 エリノアは充分に理解していた。理解しているつもりだった。オズワルドが騎士として忠誠を誓った王に次いで、幼馴染のニーナを大切にしているということは。病弱だが可愛らしい笑顔の彼女は、同性から見ても護りたくなるようなか弱い存在だったから、なおさら。

 オズワルドが婚約者よりもニーナを優先するということは社交界に広まっている事実であり、今もこうして婚約者がいるにも拘らず放置して他の女とワルツを踊っている。彼の婚約者がどんな表情で、どんな感情を持ち、どんな惨めな思いをしているかなど彼は気付かない。ニーナに注がれた視線は、婚約者の置かれた状況を映す余地もない。

 エリノアは置かれた状況を甘んじて受け入れることでしか自分を保つことができなかった。堪えきれなかった涙がまぶたを乗り越えていく。それに気付かないほどオズワルドはニーナに夢中だった。


 放置され彼にとっていない存在同然のオズワルドの婚約者ーーーエリノアはいつしか社交界から「置いてけぼり令嬢」と揶揄されるようになった。






 貴族の婚約者同士の休日の過ごし方は、ティータイムを共にしたりオペラや舞台を鑑賞するのが一般的だった。婚姻する前に互いのことをよく知り、円満な結婚生活を送れるよう今の王妃が勧めたことがきっかけだ。

 もちろんエリノアとオズワルドも婚約関係であるため、休日は共に過ごすことが多い。スイレン公爵邸で美しい庭園を眺めながら紅茶を嗜んだり、流行りのオペラを観に街へ繰り出したり。

 しかし、オズワルドが予定していた時間いっぱいエリノアと過ごしたことはほとんどない。


「ニーナが呼んでいる」

「ニーナが熱を出してしまったようだ」

「ニーナの体調が優れないらしい」


 と。口を開けばニーナが、ニーナに、ニーナの、と。幼馴染の名前ばかりが出てくる。エリノアと過ごす予定の時間を十とすれば、そのうちの八がニーナに取られてしまう。


「見てくださいオズワルド様。素敵なガラス細工ですね」


 と、露店に並ぶ雑貨を一緒に見てもエリノアの話は上の空。珍しく何か購入していても「ニーナへの土産」と言い、公爵邸でティータイムを過ごしても「ニーナが好みそうな味だな」と茶葉の感想を述べる。彼の思考回路の最優先はニーナであり、同じ空間にいるエリノアのことは二の次だった。


 その日は舞台を鑑賞しにふたりで劇場へ足を運んでいた。貴族令嬢の間で流行っている恋愛ものだ。オズワルドがペアチケットを購入したらしく、一緒に見に行かないかと誘いがあった。もちろんエリノアも喜んで誘いに応じた。舞台を見た令嬢たちが口々に「感動的でしたわ」と話すのを聞いていたものだから、エリノアも少し興味があったのだ。

 思えばオズワルドの方からデートの誘いがあったのはいつぶりだろうか。最後がいつだったのか覚えていないほど久しいオズワルドからの誘いだ。誘われたのは一週間前。エリノアはこの一週間、舞台に着ていく服や身につけるアクセサリー、髪型やお化粧など、侍女と一緒に鏡の前で何度も着替えを繰り返していた。

 恋愛ものだからピンク?それとも大人っぽく深緑かしら?アクセサリーは照明に反射しないよう小ぶりなものが相応しいわよね。髪型は……いつもハーフアップだからたまには三つ編みにしてもいいかもしれない。ハンカチは忘れないようにしなくちゃ、レースのあしらわれた白のハンカチを鞄に入れて。と、この一週間悩みに悩んでコーディネートした。


 当日、オズワルドはエリノアを屋敷まで直接迎えに来てくれた。この日のためにお洒落した格好を、オズワルドは何か言ってくれるだろうか?そう、少し期待していた。


「お誘いありがとうございます」

「いや、いい」


 オズワルドはエリノアを一瞥すると、すぐに馬車に乗るように促した。向かい合わせに座り、劇場に着くまでの間無言が続く。あまりにも重たい沈黙は知らない人が見たら、ふたりが婚約関係にあることを疑うだろう。そう思わせてしまうくらい、馬車の中では会話が生まれなかった。


 ひとつの言葉も発せられないまま、馬車は目的地に着いた。案内された左右が仕切られた半個室のような空間になっていて、中には二人掛けのソファに小さめのローテーブルがひとつ。プライベートの守られたそこは婚約者同士でゆっくりと観劇するのにうってつけの席だった。


「素敵な席ですね。ゆっくりと楽しめそうです」

「そうか」


 きらきらと目を輝かせて感激を顕にするエリノアに対し、オズワルドは退屈そうに肘掛けに頬杖をついて舞台の方を眺めていた。エリノアには興味などないと、言葉にはしないが全身でそう主張しているようだった。

 サービスで運ばれてきた紅茶とクッキーを頂きつつ、開幕までの時間を潰す。この間はあまり時間が経っていないはずなのだが、一切の会話がなくなんとも気不味い空気がふたりの間には流れていた。


(きっと他の婚約者同士はこの待っている時間も会話を楽しんだりしているのでしょうね……)


 ティーカップに口をつけながら、紅茶に広がる波紋をぼんやりと眺めた。ちらりとオズワルドの方を見ると、相変わらずつまらなさそうな表情をしていた。まるで自分と一緒にいるのが苦痛だと、そう言われているような気がして辛かった。情けないだとか、寂しいだとか、そんな感情がぐちゃぐちゃに掻き回されて酷く気持ちが悪かった。楽しみだったはずなのに、どうしてか辛いと感じてしまう自分も嫌だった。

 そこに、オズワルドの通信用魔法具がチカチカと淡い光が点滅する。ソレが何を意味するのか、エリノアは嫌でも頭で理解した。


「……ニーナか」


 オズワルドはそれを見るとぽつりと言葉を零した。これは彼がこの劇場に来て初めて発した言葉だった。


『……ごめんなさいオズワルド』

「分かった。すぐに行くから安静にして待ってろ」


 一を聞いて全てニーナの要件を把握し、どうすれば良いかすぐに結論を出すあたり、彼はこういった事態に慣れている。どういったことで連絡があったことも、彼女が今どこにいてどんな状況なのかも、そしてどこに向かえば良いのかも、全部。


「悪いが俺は帰る。お前は舞台を見て帰れ。迎えは用意してやる」

「お待ちくださいオズワルド様。まだ舞台は始まっていませんが……お帰りになるのですか?」

「そうだ。ニーナが呼んでいるからな」


 さも当然だ、という口ぶりで怪訝そうに眉を顰める。今日初めて交わった視線はひどく冷たかった。こういったことは今までもあった。だからこそ、オズワルドは今更何を言っているのだと訝しんでいるのだ。

 脱いでいた上着を羽織り、襟を正していつものようにエリノアを残して帰ろうとする。その去り際、エリノアはオズワルドの上着の袖を遠慮がちに掴み引き留めた。


「……何」


 引き留められたオズワルドは少し不機嫌そうな声だった。その声に圧倒されそうになったがエリノアは震える声でたった一言、彼女にとってはなけなしの勇気を出して言葉にした。


「……行かないで、ください」


 たった一言。だけど今までずっと言いたくて仕方なくて。けれど彼を困らせてはいけないと我慢して言葉にしないように喉の奥に仕舞い込み感情と共に押し殺して。言ってしまえば何かが壊れてしまうのではないかと思うと怖くて堪らなかった。

 でも今は自分を見て欲しかった。この一週間、服も髪型もお化粧も身につけるアクセサリーも、全部今日のデートにむけて楽しみに準備していた。誰よりも彼を想い、誰よりも彼のためにお洒落をし、誰よりもオズワルドを好いている自分を少しでも見て欲しかった。しかしオズワルドは屋敷に迎えに来てから一度もエリノアを見ていないし、きっと彼は初めて見せる三つ編みにも気付いていない。

 裾を掴むエリノアの指先は震えていた。その意味をオズワルドは理解していない。


「お前はひとりでも問題ないだろ。でもニーナには俺がいないとダメなんだ」


 掴まれた袖を乱暴に振り解く。振り解かれたエリノアの指先は行き場を失い空を彷徨った。

 オズワルドは振り返ることなくこの場を後にする。今、エリノアがどんな表情をしているのかさえ気にしている暇などないと言っているように足早に去っていった。


「……そう、そうね。私はひとりでも大丈夫、だいじょうぶ……ダイジョウブ……」


 自分に言い聞かせるように何度も何度も繰り返す。心に刷り込み、たった今負った傷口を塞ぐように「大丈夫」を塗りたくった。そうでもしていないとこれまで辛うじて保てていた自尊心が崩れていくような気がしてならなかった。


 いつの間にか舞台は開幕していた。通りの良い声がはっきりとエリノアの耳に届く。


ーーー僕は君を愛している。君の本を読む真剣な横顔も、僕の汗を拭ってくれる小さな手も、僕のためにお洒落をする君も、君の全部が愛おしい。

ーーー僕と婚約して欲しい。僕は君を必ず幸せにする。僕は君じゃなきゃだめなんだ。


 それはとある騎士の男と令嬢の恋愛物語だった。とある騎士の男が、愛する令嬢と一緒に幸せになるストーリーだった。舞台俳優のセリフがエリノアの心を揺さぶる。その内容は今のエリノアにとってあまりにも辛く、堪える間もなく涙が頬を伝っていった。二人がけのソファにたったひとり腰掛ける彼女にはどうしても耐え難い寂しさと虚しさが込み上げてきた。

 薬指に嵌めている指輪がきらりと反射する。この指輪はオズワルドと婚約を交わした際、彼から貰った大切な指輪だ。俺と婚約してほしい、と顔を赤らめて指輪を渡してきた日を鮮明に覚えている。


 そうよ。私は幸せになりたいの。たとえ親が決めた婚約だったとしても、私はオズワルド様と幸せになりたかったの。本当はひとりで大丈夫なんかじゃない。パーティーでひとり置いてけぼりにされるのも、デートをすっぽかされるのも、全部辛くてこの上なく寂しいの。行かないで、私のそばにいて、私を抱きしめて私を大切にして私を一番にして私を愛して。普通の恋人みたいに美味しいお茶を嗜んで、毎日の些細な出来事を大切にするの。素敵でしょう?

 でももう彼に期待するのはお終いにしよう。私の理想を押し付けて、いつか私を見てくれるなんて浅はかな願いは叶うはずがないのだから。

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