三国志『演技』伝
水月 梨沙
司馬懿、字は仲達。『三国志』『晋書』と、正史に名を残す者の名だ。
そして『貂蝉』という、史書には明確に記されていない者がいる。
共通点は、『演技の巧みさ』。
今回、私はその二人の男女について語ろう。
「董卓様、それは……?」
「陽城で匪賊を攻撃した時の戦利品じゃよ。なかなか大量にあるじゃろう?」
そう答えて愉悦に顔を歪める董卓を見て、董卓に同行していた者は皆、吐き気を悟られない様にするのに努めた。
確かに、ここにあるのは全て陽城で手に入れたものである。
だが陽城での董卓の行いは、それは酷いものであった。
――丁度二月の春祭の時期だったので、住民は皆して氏神の廟に集っていた。
そこで董卓は配下の兵に命じてその場所を襲わせ、男は全員斬殺。その土地の物を奪い、女や宝物、車に牛。全てを我が物にした上で、切り落とした男の首を車の舵棒に掛けて洛陽に帰ったのだ――
「ほれ、めでたいではないか。万歳を称えるが良い」
そう命じて入城すると、今まで下げてきた首をそこで焼き、連れてきた女達を下女や妾として兵隊に下げ渡した。
『完全に、人間性が欠落している……』
董卓が更に宮女や公主までを手当たり次第に凌辱しているとも聞き、怒りが込み上げてきた。
――そう、仲達は今、陽城で攫った女に混じって洛陽の城に潜入し、下女だと偽って行動している。
名望家の次男として厳格な躾の元に育てられた仲達は今の都の現状も伝え聞き、心を痛めていたのだ。
「このままでは漢王朝、いや――世間の皆が、安心して暮らせる世なんて来る筈が無い」
そう判断した仲達は一つの計画を胸に、この洛陽へと潜入したのである。
幸いにも仲達は未だ成長期途中の少年であったし、体型や声から『男である』と判断される事は無かった。それで仲達は下女の振りをしつつ、まずは城内の噂を集めていったのだった。
……董卓に肩入れをしている者。董卓を心底忌み嫌っているが、それを表に出せない者……おおよその人物掌握は出来つつある。
その中でも一番厄介であると仲達が判断したのは、董卓に護衛として付いている「呂布」という男だった。董卓も『自分は他人に対して礼節を持たぬから、いつ仕返しが来るか判らない』と心得ているらしく、この呂布を常に伴っている。
もう少し董卓が馬鹿であればきっと、誰かが暗殺でも出来たであろうに。残念ながら、そう甘くは無かった……という訳だ。
そんな中――仲達は、ある事を聞き付けた。
「……なぁ董卓様がこの間、呂布様に向かって手戟を投げたって知ってるか?」
「いや。でも呂布様は別にいつもと変わらない様子で……」
「呂布様は俊敏な方だからな。いきなり飛んできたってのに、避けたらしいぞ」
「やっぱ、流石は呂布様、ってトコか」
「それでその後、董卓様に向かって呂布様は何度も頭を下げて謝ったんだと。董卓様、怖いしな」
「でも、いくら何でも相当アタマに来るんじゃないか?」
「そうなんだよ。王允様っているだろ? 司徒で、呂布様と同郷だから仲良くしてる」
「ああ、いるいる」
「その王允様に、董卓様に危うく殺されかけたとか、チラリと漏らしたらしい。愚痴だろ、多分」
「文句の一つでも聞いてくれる人がいなきゃ、いくら親子の契りを結んでるっていったって嫌になるだろうしなぁ」
――盗み聞きしながら、仲達は『これは使える』と考えた。
短気で敵を作る董卓。
恨みを買うから、呂布を付けて牽制しているものの……彼は前に主である丁原を殺している。つまり、呂布とは恩義を感じている人物でも、きっかけさえあれば裏切る様な人間なのだ。
加えて、司徒の王允。
王允は呂布の能力を手に入れられないか、きっと狙っているだろう。そもそも日頃から王允が董卓に対して好意的な事ばかりを言っている様な人物であれば、呂布も董卓の愚痴を零す筈は無い。
だが王允が動かないという事は……まだ、呂布には董卓を裏切る『何か』が足りないのだろう。
――ならば、私がその『何か』を作ってやれば良い――
仲達はそっと足音を殺し、星の出始めた空を横目で見て歩き出した。
呂布は、いつも董卓に命じられ奥御殿の守備をさせられていた。
門の所で常の様に居ると、小さく「奉先様」との声が聞こえる。
自身の字を呼ばれた呂布が素早く身構え、音のした方を向くと……そこには、一人の女がいた。遠かったが、呂布の視力は良い。女は地に膝を付いて、胸元を押さえており……一見すると、どこか苦し気であった。
この様な場所にいる女ならば……おそらく、董卓の女。万一『お気に入りの女』であった場合、見捨てておくと後々厄介なので、呂布は武器を構えたままで女の元へと歩み寄った。
距離が近付くにつれ、女の容姿がはっきりとしてくる。まだ成熟しきっていない体。白い膚。
十歩の距離まで近付くと、少女が顔を上げた。
「……奉先様……」
やはり苦しいのか、少し眉を寄せ。
それでも、見上げた表情は安心しきったというか、とても嬉しそうであった。
「ど、どうしたのだ、その様な所で」
何故か自分は、狼狽ている。
そう自覚しながらも呂布が尋ねると、少女は
「胸が、苦しく……。持病ですので、いつもの薬を飲もうと思いましたら……生憎と、切らしておりまして……」
と言う。
「しかし何故それではここに倒れているのだ。薬ならば……」
「いえ、仲穎様にこの事が知られてしまいますと、すぐにも殺されてしまうかと思い……」
「成る程、そういう事か」
仲穎、つまり董卓は、それこそ山の様に女を手にしている。病持ちの者とあらばアッサリと見限る位は、想像に難くない。
「どこか、宮とは別の場所に薬を隠しているのだな」
「はい……取りに行く途中だったのですが、思いの外に胸が苦しくなり、途方に暮れていました所を奉先様のお姿を見付けまして……」
少女が頬を赤らめながら、呂布を見つめる。吸い込まれる様なその瞳に、呂布は呪縛にでもかかったかの様に目を逸らす事が出来なくなっていた。
汗ばみ、息を切らしながらも。己を救世主の様に思ってか、安心しきった笑顔を見せる少女。
「お前……」
「はい」
名は、と問おうとして、思い止まる。
「薬は、どこにある」
「それが……この外の、ある空き家の中に隠しておりまして……」
「どこだ」
「入り組んだ場所にございます。……私が、取りに行かないと……」
「だが、お前は歩くのも辛そうだ」
呂布に言われ、少女は初めてその事に思い当たったかの様な顔をして
「そうでした……」
と俯いた。
「やはり、代わりに取りに行ってやろうか」
「いえ、良いのです。その様な御迷惑……奉先様に、お掛けする訳には……」
語尾を小さくしながら、手で顔を覆う少女。
「どっ、どうした?」
「すみま……せん……」
「何?」
「奉先様に……来て頂けただけで……私は、幸せ……だったのです……」
「な……っ」
「ずっと、奉先様を……遠くから、ずっと……見て参りました……。仲穎様に……何をされても……奉先様を想って、耐えて……」
泣きじゃくりながら、少女は告白する。
「で……ですから、こうして……最後に奉先様と言葉を交わす事が出来て……私は、幸せでした……」
頬を涙に濡らしながらも、少女は真っ直ぐに呂布を見た。
胸元の手は一層きつく衣服を掴んでいるというのに――その表情は、『至福』と言っても良い。
「元の場所に……戻って下さいませ、奉先様。……私は、ただの侍女……。一人ここで倒れていようとも……もう誰も、気にする者など……」
呂布は無言で武器を置き、少女を抱え込んだ。
「ほ、奉先様……?」
「お前を気にする者が、ここに出来た。それだけの事だ」
呂布は外に通じる門の方へと歩いて行く。
「い……いけません、この様な事……。もしも仲穎様に知られたら――奉先様は……っ」
少女の一言に、一瞬動きを止める呂布。
だが、やはり思い直し、呂布は門をくぐった。
「お前を放っておく事は出来ん。構わぬから、このまま薬の場所へと案内しろ」
「……奉先様……」
ぎゅ、と。腕を首に巻き付けて。
「有難う……ございます……」
泣き声で、少女は言った。
『この様な軽い体に細い腕で、重く太いあの親父を受け入れていたのか……』
呂布の表情が曇る。
――その時、遠くで物音が聞こえ呂布は無意識に走り出した。
「ほ、奉先、様……?」
少女が驚いて呂布を見上げる。……と、その額には汗が滲んでいた。
『誰かに目撃されたかもしれない』
その思いが危機感を呼び、最高の武人・呂布の足を動かしたのである。
だが、何故瞬間的に少女を抱いたまま、まるで逃げるかの様にしてしまったのかは、本人の考えの範疇外であった。
更に『物音の正体を突き止めず走った』のも、常日頃董卓の横暴な行いを受けている呂布の条件反射であった。
もしもこの時、もう少し『余裕』が呂布にあれば――董卓は、殺されなかったであろう。
初平三年四月。王允と呂布が共謀し、董卓を殺害した。
初め、王允の『董卓誅殺』の誘いに対して「親子の契りを結んでいる」と断っていた呂布が最終的に決断した理由。それは、二人が名字も違い血の繋がりも無い事、董卓に前後の見境が無くなって刃を呂布にまで向けた事……
そして何より、呂布が『董卓の侍女との関わりが、董卓に発覚する』のを恐れた事が大きかった。
この時、仲達は十三歳。
侍女の少女を演じ呂布の心理を突いて、見事歴史の影から董卓誅殺の策を成功に導いた『張本人』である。
そして後に、民は噂して言った。
呂布を惑わせたのは『貂蝉という女』である、と――。
<終>
三国志『演技』伝 水月 梨沙 @eaulune
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